居酒屋1
村山と明石の関係はさほど変わらない。
今までと同様、彼が村山に自分から話しかけることもないし、逆もしかりだ。
ただ、村山の明石に対する気持が微妙に変わった。
あれ以来、彼がさほど怖くなくなったのだ。
かつては無視されたらそれだけで居づらくなった。
明石に尋ねなければならないことがあっても、怖くて看護師を介して内容を確認したりした。
しかし今は違う。
相手が嫌な顔をしようが、忙しそうなそぶりをしようがある程度は我慢できるようになった。
たまに低い声で間投詞を投げかけられるとびくりとするが、せいぜいその程度である。
(……どうせ嫌われてるんだ)
これ以上、関係が悪化することもないと思えば何でもできる。
それに経験もあり、理知的な明石の判断を仰ぐことは必要でもあり、また勉強にもなった。
(……これで細川がさっさと捕まってくれれば何もかも安心なんだが)
村山は微かに眉をひそめる。
完璧な計画のはずだった。
村山を狙って刃を投げたところを刑事が目撃し、心配性の高津がビデオまで撮って証拠を揃えた。
細川も警官相手に暴れたところを見ると、予期していなかった事態だったろうし、それ故彼が前もって逃げ道を確保していたとは思えない。
なのに、細川は忽然と消えたのだ。
警察官に取り押さえられたところまでは村山も見た。
だが、彼の元に駆けつけてきた警官と言葉を交わしたその一瞬の間に細川は消えた。
後で聞いた話では、細川は手錠をかけられる前に、警官に刃物を投げて怪我をさせ、突き飛ばし走って逃げたと言うが……
(普通ならその程度で逃げ切れるはずはない)
複数の警官があの辺りを張っていたのだ。
(なのに)
その後、彼は行方知れずになった。
(……どんな手を使ったというんんだ?)
瀬尾家の三人もこちらに戻ってきているので、指名手配されているとはいえ細川が野にいることは問題だった。
幸い、まだ犯人が逃げていると言うこともあって、警察の配慮でマスコミも「通りがかりの」村山には接触しないでくれているので身辺は静かだが、メリットはその程度だ。
(まったく、最近は薄気味の悪い事が多い)
ふと三日前の事を思い出し、村山は眉をひそめる。
彼宛に大阪の友人からメールが来た。
いつものように何気なく開いた彼だったが、
……はじめまして、村山先生。早速ですが、貴方が先日来行った一連の不正アクセスについて一度ゆっくりお話がしたいと思いますので、以下に書かれた日時のお時間をご都合下さい。お会いする場所などにつきましては当方からもう一度ご連絡をいたしますので、勝手ながらそれまでお待ち下さるようにお願い申し上げます。なお、このメールの差出人になっている貴方のご友人は、この内容についてはもちろん、自分のアドレスが使用されたこともご存じありませんのでご注意ください……
背筋が凍り付く。
彼が今回、細川についてやったことをこのメールの主は知っているのだ。
もちろん、彼が行った不正アクセスを可能にするOSの穴については、混線を解除してすぐ電話会社に匿名で手紙を送って塞ぐようにと警告はしているので、今日にはもう直っているだろうとは思う。
不正行為が許される訳ではないが、彼がやったのは細川のメールの覗き見と、電話の混線の二つだけであり、それだけなら軽度な悪戯レベルだ。
うまくシナリオを組めば、偶然混線した電話で細川の会話を聞いて怪しいと思った村山が義憤に駆られ、逆にそれを利用しておとり捜査的に彼を狙わせた、と言いはることもできる。
(……だが)
問題は細川と彼の関係。
現世では何の関わりもない二人を結びつけるのはあの電話だけ。
(メールの主は俺がやったことが何かを知ってる。そして、恐らく同じ方法で俺と高津が細川に聴かせた内容を盗聴した)
つまり、三ラインが同時混線していたのに、村山は混線が前提で話をしていたことから第三者にも聴かれているのに気づかなかった、そういうことなのかもしれない。
その事は村山の背筋を寒くさせる。
(……もし、細川が逃げ仰せたのがそいつらのせいだったとしたら)
村山は小さく首を振った。
データがないなら考えない方がましだと自分に言い聞かせる。
それでなくとも直感力に欠けていることを彼は自覚していたので……
溜息をつき、村山は病院の外に出た。
詩織はどこかの会社の株主総会対策とやらで残業だ。
普段なら遅くなる日は朝から晩ご飯を作って温めるだけにしておいてくれるのだが、さすがに残業も三日以上続くと自然にお互い外食になる。
(……どこで飯、食おう)
コンビニ弁当は油っぽいし、味も単一で美味しくない。
この辺りにある店は、病院関係者のたまり場となっている処以外はろくでもないし、さりとて駅前まで出るのは面倒だ。
思いながら何となく辺りをうろうろした彼は、随分以前からある居酒屋にふと目を留めた。
路地の奥という立地も悪いが、小汚いドアと狭そうな間口があまりにうら寂しいと前から思ってはいる。
(……こんなとこ、一体誰が入るんだろ?)
しばらく店の前に立って店構えを眺めたが、入ったら絶対に後悔するだろうとやはり思う。
(………やっぱ、コンビニでいいか)
村山がきびすを返しかけた時、
「おい」
予期せぬ声に、村山はびっくりして跳び上がった。
振り向くと明石がこちらを睨んでいる。
「入るのか、入らないのか、どっちなんだ?」
「え、え?」
咄嗟のことで茫然と相手を見つめると、明石はさらに怖い顔をした。
「じれったい奴だな、入るんならさっさと入らないかっ!」
「は、はい!」
叱られて村山は反射的に引き戸を開ける。
「……いらっしゃい」
思った通り、誰もいない店の中、景気の悪そうな声をした親父がカウンター越しにこちらを向く。が、
「あれ、珍しい」
目を見開いて親父は村山の後ろに立つ明石を見る。
「お連れさんなんて初めてじゃないのかい?」
「うるさい」
明石はふてぶてしい顔で顎をしゃくった。
「二階、上がるぞ。どうせ空いてんだろ?」
「空いてはいるけど、せっかくだからカウンターでどうだい?」
明石は何も言わずに勝手に靴を脱いだ。
「……あの」
どうしていいのかわからずに明石を見ると、彼はふと眉根を寄せた。
「好き嫌いは?」
「あ、ありませんが」
「ビールか酒か」
どうやら村山は明石と飲むらしい。
「ビールで」
階段を昇りかけながら明石は親父の方をちらりと見る。
「そう言うわけだ」
「へいへい」
何がそう言う訳なのかはまったくわからなかったが、仕方なしに村山は靴を脱いで明石の後ろについた。