神社
学校からの帰り、萌は一人で歩いていた。
剣道部はインターハイ予選を敗退し、事実上三年生は引退となった。
もちろん部活に行って、汗を流すのは一向に構わないのだが、今日は何となく一人でとっとと帰りたい気分だったのだ。
(……楽だし)
元々萌は一人で歩くのが好きだ。
最近は高津や藤田と一緒に帰ることが多く、なかなか一人になれないので少し嬉しい。
(……別に圭ちゃんが嫌っていうんじゃないんだけど)
もちろん、百合子や和実が嫌だというのでもない。
誰にも気兼ねせずにぼおっと歩くのが好きなだけだ。
百合子なんぞは、群れてなんぼの女子高生よ、と豪語し、萌を変人扱いするのだがこればかりは体質だからいたしかたなかった。
本当は休み時間だって、友人と喋っているより机に突っ伏して寝ていたい。
お弁当だって、購買部にパンを買いに行った友人が戻るのを談話しながら待つよりも、自席でさっさと済ませたい。
だが、社会はそれを許さなかった。
皆と一緒に同じように行動しないと目立ってしまう。
目立つ、というのは、群れること以上に萌には耐え難い。
(ひっそりと地味に、自分の好き勝手に生きていけたらな……)
萌は一つ溜息をつく。
天体観測の日、正直村山のことが心配で他のことはまったく頭に入らない状況だったが、後からゆっくり考えると、由美の言葉が何だか重くのしかかった。
(……高津君ってもてるのに、萌がいるから告れない子だってたくさんいるって聞くし、そういうことわきまえて欲しい、か)
言われてみたらそうかもしれない。
自分は高津を親友だと思っているが、周りがそれを許さないのならそうしてはいけないのかもしれない。
(……圭ちゃんにそれで彼女ができないんだったら、悪いもんね)
思いながらもやや寂しい気持になる。
実際、高津に彼女ができたらやはり萌とは疎遠になるし、それは仕方がないことだ。
だが、そうしたら彼らの持つ夢の秘密や、この奇妙な強い友情の持って行き場はどうなるのか。
(我が儘だとは思うんだけど)
思いながらふと、萌はまた例の神社に行ってみたくなった。
別に取り立てて何かがあるわけでもないのだが、雑木林に囲まれた風景は何となく萌を和ませる。
(……今日は、人さらいに掠われないように気をつけよう)
畑地の向こうに雑木林が見え、その奥が神社、そこからまたしばらく田畑が連なり、その先にようやく宅地がある。
誘拐魔や切り裂き魔が来たら、遠くからでもわかるぐらいの見渡しの良い道をてくてくと歩きながら萌は拳を握る。
(前はちょっと油断していただけよ)
ぼおっとしていなければ大丈夫だという自信はある。
(……あれ?)
雑木の並木を両側に見ながら歩いていた萌は、神社の前で立ち止まった。
普段は誰もいない境内に、どうしてか人がいて掃除をしているのだ。
(……どうしよ)
無人であることが前提で、だからこそ気に入っているというのに、どうして今日に限って中年男性が幅を利かせているのだろう。
とは言え、その男は幅を利かせるというよりはむしろ細くて頼りなく見えた。
眼鏡に白髪交じりの薄い髪。
らくだ色のポロシャツに似たような茶色のズボン。
「おや?」
男は境内を掃く手を止めてこちらを見た。
「何かご用ですか?」
「え、あの」
仕方なく萌は石の鳥居をくぐった。
「……ちょっとお参りに」
「え!」
男は驚いたように萌を見る。
「こんな神社に、お参り?」
そして嬉しそうに笑った。
「いやあ、私はここの神主になって長いけど、地元のお年寄り以外で平日にここに来る人は珍しいです」
どうやら神社の持ち主のようだ。
「どうぞ、どうぞ、ゆっくりしていってください」
神主は再び熊手で病葉や煙草の吸い殻を集め始めた。
(……ゆっくりしてっと言われても)
しょうがないので財布を出して、予定外の出費となった五円を出す。
そして鈴を鳴らして賽銭箱に小銭を投げた。
(……ご縁がありますように)
もちろん村山と。
(……考えてみたら、この神社から全部始まったようなもんだし)
本当はこの神社ではなく、始まりは高津とぶつかったあの角なのだが、ま、御利益はこちらの方がありそうだ。
本殿を見上げると、奥の方に読めない文字で何かが書かれているのが見えた。
その下には一応ご神体が入ってるのだろうと思われる扉もある。あまり世間の神社のように格好よくはないが……
「この神社はちょっと変わっていてね」
声のした方を見下ろすと、神主が屈み込んで雑草をむしっていた。
「ここに祀られている神さまは、元は人間だったんだ」
同じような例は、日本史で聞いた気がする。
(……確か、天神さんが菅原道真で、あと……あとは誰だっけ)
神主は後でまとめるつもりなのか、抜いた草は地面に捨てている。
「話としては、かぐや姫に近いかな。いや、むしろ天女の羽衣かな?」
少し興味が出たので、萌も神主の側に行って草を引っこ抜くのを手伝った。
「大昔、北の山にそれはそれは美しい姫が空から降りてきて、大蛇や鬼の襲来で困っていた村人を助けたそうだ」
空から降りてきたのなら、人ではないように思える。
「なんか戦って退治したってことしかわからないんだけど、ともかく姫は強かったらしい」
「それがここの神さま?」
「いや、祀られてるのはそのお姫さんじゃないよ。姫は何年かしたらまた天に帰っていったからね」
タンポポの根っこがなかなか抜けない。
力を入れると茎の所で切れてしまって白い汁が出てきた。
「ここに祀られているのは、姫がこの土地の若い長と結ばれてできた姫の息子だ」
「……へえ」
「姫はいたくこの土地を愛していたが、空からの使者に無理矢理連れて行かれてしまった」
そこで姫を取り返しに、彼女の息子が天に昇って万々歳という話なのだろう、と萌は予想した。
「姫は去り際、彼女の息子が姫の跡を継ぐことを条件にこの土地に守りをお与えになった。そこで仕方なしに息子は人から神になった」
萌の予想は外れた。
「仕方なしに神になる、って変わってるね」
話の内容が萌の興味を引いたこともあるが、何となくこの神主は初対面にしては喋りやすい。
「うちの神さまはそういう方だから」
神主は弱々しく笑った。
「それ以来、その異能の血脈はこの土地に根付き、コウマある時には幾度も甦ると云われている」
「コウマある時?」
「魔が降りる、だよ。そこの山、巨馬山地っていうけど、元々は降魔山地ってのが昔からの正しい名前だ」
それは初めて聞いた。
「化け物がこの辺りの山によく降りてくるから、そう言われるようになったそうだよ」
微かに心のどこかが震え、萌は再び本殿を見上げた。
「じゃあ、天照大神とかお稲荷さんの狐みたいに有名な神さまじゃないのね」
「……まあ、そうとも言えるな」
「ここの神さまには名前があるの?」
「その名は秘密で、ここの神社を継ぐことになった者にのみ一子相伝で伝えられる」
眼鏡の奥にしわを作って、男は嬉しそうに言った。
ちょっと自分でも格好いいこと言ったと思っているのだろう。
「でも名前がないと不便じゃない?」
「仮の名があるよ、リトショウシンジンとかリトショウカミトとかね。本来は普通名詞で、ある集団を指す言葉だけど、うちの神様を指す時だけは固有名詞になる」
「リトショウカミト?」
「ああ、人を離れ、神人に成るって書くんだ。離れ、人、成人の成、そして神、人」
なんとなく似た言葉を知っている。
「リソカリト、じゃなくって?」
だが、そう言った途端、神主は顔色を変えた。
「何でその言葉を知ってるんだ?」
「え?」
「ひょっとして、地元の古い人から聞いた?」
訳がわからなかったが、説明しきれないものがあったので素直に頷く。
「うん。ちょっと」
男は本殿を見上げた。
「その言葉は境内で口にしちゃいけないよ。ここの神さまへの悪口だから」
「え!」
萌の驚きを、罰が当たることへの心配と解釈したのか、男は優しく首を振る。
「ま、そんなことでお怒りになることはないだろうけど、良いお気持ちにはなられないだろうからね」
「どうして悪口になるの?」
神主は少し困った顔をした後、立ち上がって鳥居をくぐって外に出た。
行きがかり上、萌も続いて外に出る。
「ここだけの話だよ、降りてきた鬼や邪を祓う力を持った人は、抜きんでているが故に疎まれた。だから、この土地にはそういう昔話もいくつか残ってる」
何となく、心の琴線に触れるものがある。
「この先、神さまに失礼がないように、念のため聴いておいてもいい?」
「ここの神さまの子孫、まあ、氏子になるんだろうけど、その中には持った力を暴発させて滅びた者や、人と違う力を持っているというだけで洪水の時に人柱にされたりした人もいた。あるいは姫を蘇らせる糧になるためと称して殺された人もいた」
「それがリソカリト?」
「自ら進んで人柱になった人は離人成神人、嫌がって逃げようとして無理矢理人柱にさせられた人はリソカリト。もちろん村人に害をなしたものはリソカリト」
神主は頷く。
「それら異能者を異端として迫害する時、皆がその者を指して言う言葉がリソカリトなんだ。生を離れ何そ人を離れん」
「どういう意味?」
「わかりやすく言うと、生き物を超越した存在のお前が、どうして未だ人の輪にしがみつこうとするのか」
萌は微かに身体を震わせた。
「寂しい言葉ね」
「全くだ」
町の人に追われたあの遠い日が、しかしはっきりと脳裏に浮かぶ。
「じゃあ、離生何離人はどこか遠いところで繋がっているの?」
「え?」
萌は慌てて首を振った。
「あ、その悪者退治した人とか、人柱の人たちとかが、ってこと」
「……姫の血が濃く現れた、という意味ではね」
神主は微笑んだ。
「そう。姫が降臨したのは諸説あるが、大体千年から八百年ぐらい前の話だ。その間、息子から孫、孫からひ孫と順当に子供が生まれて増えてを繰り返したなら、この辺りの町の人はみな姫の子孫と言ってもいいぐらいだが、皆が皆、鬼と戦う力を持って生まれてきた訳じゃない。ごくごく稀に姫の血を濃く受け継ぐ者が現れ、そして村を救ってきたと言える」
目を丸くして突っ立っている萌をみて、神主は笑った。
「……という伝説がこの神社にはある。ネットでうまくやったら観光客とか来るんじゃないかっていつも思うんだけど、そんなことをしたら神さまがご不快になられる気もするし」
「そうなの?」
「……姫の息子は、生まれつきとても恥ずかしがり屋だったそうだ。目立つのが嫌で、跡を継ぐのを嫌がったって話が残ってるぐらいさ」
「へえ」
何だかすごく親近感がわく話だ。
「だから優れた方だという話は残っているが、具体的な武勇伝は伝わってない。だから今ひとつ集客性のパンチが不足するんだ」
「でも、そんなだったら見せ物になるのって、すごく嫌だろうね」
「そこなんだよな。うちの神さまは英雄でありながら、人の輪にうまく入れない。そういう業を持っていらっしゃるから、こうして訪なう人も限られるんだ」
神主は溜息をついた。
「まあ、伝説にありがちな異説はいくつかあるから、恥ずかしがり説以外にも、破壊神タイプの話なんかもあるにはあるらしい。だから、そっちを売りにするという手もあるんだが……」
「……破壊神って?」
「力を得た途端、親を弑し、自ら魔となり禍を成した……みたいな。忌み嫌われたリソカリトが多くいたため、間違ってそんな話が作られたという説もある」
彼は弱気な笑みを浮かべる。
「でも、何か他の話に比べて明らかに作り話っぽいし、私はシャイな神さまの方を支持してるんだけど」
萌も頷く。
「あたしも。気が弱いぐらいの方が、普通の神さまよりも何だかもっと好きになれる」
「そう言ってくれると嬉しいな。どんどんお友達を連れてきて、口コミで流行らせてくれ。そう、適度に」
神主は笑って手を振った。
「じゃ、私は掃除に戻るから、好きなだけぶらぶらしてくれていいよ」
「ありがとう」
萌も手を振って神主の後ろ姿を見送った。
(……圭ちゃんに言わなきゃ)
リソカリトという言葉にちゃんと意味があったなんて大ニュースだ。
だが……
萌はもう一度本殿を見つめる。
六月の木々の間で、自己主張せずひっそりと佇むその姿。
それは何かを萌に語りかけているような気がしてならなかった。