川上1
あれからも伊東は時々、郷土史に詳しかったり昔話を知ってるお年寄りなどにアポイントを取っては萌を連れ回してくれた。
今日は、最初に司書から名前を教えてもらっていたのに今までアポイントが取れなかった川上という人に会いに行く予定だ。
あまりの連絡の取れなさに留守電やFAXなどの利用も一度は考えた。
しかし、こちらから頼み事をするのに、留守電で折り返しの電話を頼むわけには行かないという律儀な伊東の考えに従って電話をかけ続け、ようやく先週連絡が取れたことから今日に至る。
「川上健司さんって、何をやってる人なんだろうね?」
「店をやってるって言ってた。だから普通の時間に電話しても家にいなかったんだって。こないだは本当に偶然、家に物を取りに帰ってた時だったらしくて」
伊東と萌は駅の噴水前で九時四十五分に待ち合わせ、そこから徒歩で川上の店に向かっている。
約束は十時だ。
(……あれ?)
ふと、萌は周りの景色を見回した。
(……なんか、ここって来たことあるような気がするな)
そう、あれはもうプレカンブリア時代ほど遠い昔、村山と一緒に昼ご飯を食べた時に……
「あっ!」
その忘れもしないスペイン料理の店の前で伊東が立ち止まったとき、萌は思わずうろたえた。
「ここ?」
「ここ」
伊東は不思議そうに首をかしげる。
「知ってるの?」
「……一度だけ、ここでご飯食べたことがあって」
マスターはマスターとしてしか認識していなかったので名前までは覚えていないが……
準備中の札のかけられたドアを一瞥した後、伊東はこんにちは、と言いながらドアを開けた。
「先日お電話した伊東です」
「やあ、いらっしゃい」
奥の方から声がして、ひげの男がこちらにやってきた。
「済まないね、高校生と会うにはこんな時間しか取れなくてさ」
「いえ、こちらこそ、お忙しいのに済みません……」
言いかけた伊東は、相手が萌の方をみて驚いた顔をしているのを見て言葉を切った。
「あれ、君って」
「あ、その、先日はどうもありがとうございました」
萌は慌てて一礼する。
村山の知り合いに不躾と思われるのはまずい。
「えっと、萌ちゃんだったよね?」
「はい」
伊東が目を丸くした。
「一度ご飯を食べただけって、言ってなかった?」
川上は笑った。
「実際その通りだよ。ただ、萌ちゃんを連れてきたのが俺の知り合いだったから」
彼は手招きをして二人を中に通し、カウンターに座らせた。
「もう大体仕込みは済んでるんだけど、あとちょっとだけ作業しながら話を聞いていいかな」
この前と同じ、少し炭酸の入った冷や水を彼は二人の前に置く。
「もちろんです………というか、逆にお邪魔になるようだったら、いつでも出直しますのでおっしゃってください」
こういう如才ない言葉遣いを、伊東はどこで覚えたのだろうといつもながら萌は感心した。
「この町の昔話を調べてるって言ってたね?」
「はい」
「どうして?」
伊東が萌を見たので、仕方なく口を開く。
「近所に神社があって、そこの神主さんと仲良くなって色々教えてもらって興味が出たんです」
萌が自分の町名を言うと、川上は頷いた。
「ああ、長谷川さんか」
「ご存じなんですか?」
「そりゃ、この町の伝説調べてれば、あそこには必ず行き当たる」
カウンターの向こうは厨房だ。
しかし、前に来たときに思っていたよりも奥行きがあり、意外に広い。
「ここに来るまでにも、他の人に話を聴いてきたのかい?」
「はい」
「田中のじいさんとか釘島さんとか?」
「よくご存じですね」
川上が出した名は、何人かの語り部的お年寄りや有識者に出会った中で、収穫が特にあったと思った二人だ。
「俺も通ったもの。特に田中のじいさんは口伝だから、実に面白かったよ」
川上はシンクでムール貝の掃除を始めた。
「川上さんがご存じの伝説って、異色だとお聞きしました」
「誰から?」
「釘島さんです。川上さんがこの町の人じゃないことが有利に働いてるって。町の人が捨てるような話をすくい上げるのがとても上手だそうですね」
釘島という江戸通りの古道具屋の主人がこの川上のことをそう誉めたのは確かだが、それをさらりと持ち出す伊東こそ上手だ。
「伝説を一つ見つけたときに、場所の検証をすると色んなことが見えてくる。次の紐の先がそこに落ちてるんだ。それを俺はたどるだけ」
(……なんか謎々みたい)
伊東はリュックからノートを取り出した。
「まず、具体的な伝説をいくつかお教えいただけますか?」
「その前に、一つだけ聞いていいかな」
「はい」
「調べてどうするの?」
「え?」
「個人的な興味の範疇でやってるなら、大学入ってからでも遅くないよ。高校三年のこの時期にやる必要はないんじゃないかな」
親が言いそうな真っ当な意見に萌が固まったとき、伊東がしっかりと相手を見つめた。
「受験勉強はもちろん大事です。だけど、これを来年まで置いておきたくない。むしろ、これをやった分、集中して勉強した方が俺のためになるんです」
萌は目を見開く。
「そうして体系化して、穴の空いたところを埋めていきたいと思ってます」
「どうして来年まで置いておけないんだ?」
「時間がないんです」
(……え?)
声を上げそうになり、萌は慌てて腹筋に力を入れる。
「俺、告白すると、確かに最初は興味本位で神尾さんを手伝ってました。だけど、色々な人の話を聴くうちに、そんな手慰みで済むようなものじゃないことがわかったんです。しかも、話を知っている人はどんどんいなくなっていく」
確かに収集に当たっていると、こないだ亡くなったどこどこの婆さんはその話、よく知ってたのに、みたいな台詞に行き当たることが多々あった。
もちろん萌もそういう事を悔しいと思ったし、もう少し早ければとも思った。
(……だけど、伊東君がそこまで考えてるなんて)
正直思いも寄らない話だ。
「だったら、俺の回ったところ以外を回れ、というのが俺のアドバイスだな」
川上は微笑んだ。
「これでも大学時代からほぼ十年、休みの合間に細々と情報収集を続けてきたんだ。だから、俺の集めたもの全てを受け取ってから君がやりたいことを始めたら要領いいと思うぞ?」
伊東は呆気にとられた顔をした。
「いいんですか?」
「何が?」
「それって、自分の作品を人に盗られるのと同じぐらい辛いことじゃないですか? 少なくとも俺だったら人に渡すなんて嫌です」
川上は目を細める。
「じゃあ、ここに何しに来たんだい?」
「ヒントになるようなことを漏らしてもらえれば、それでいいと思ってました」
伊東は真剣な顔で相手を見る。
「伝承には同じ話に対していくつものバリエーションがあり、それは年代が新しくなるほど増える。だけどそれはパターン化できるんじゃないかとか、何らかの意図が隠されてるんじゃないかとか、もの凄く俺の空想を刺激するんです。だから」
彼は不意に顔を紅くした。
「生意気なこと言うようだけど、ライフワークにしたいって。だから話をできるだけ多く集めて、体系化したいなって……思って」
萌はその瞬間、本気で伊東を尊敬した。
そして自分を恥ずかしく思う。
(……あたしはただ、自分のルーツを知りたいと思った。それ以外に何か動機なんてあるとも思わなかった)
だから萌は自分と同程度に伊東を見ていた。
萌より遥かに遠くを見据えているなど、思いもよらなかったのだ。
「だったら、尚更、俺の作品を見て、それの続きを作ってくれたら嬉しいな」
ブラシで磨いていたムール貝の最後の一つを濯いでざるに入れ、川上はこちらをちらりと見る。




