瞬間移動4
「明日、難しい手術なの?」
「いや、普通の手術」
村山は微笑む。
「そうでも言わないと詩織が納得しないだろ?」
「何の手術?」
「大腿ヘルニア」
「ヘルニアって脱腸のこと?」
「うん」
「ヘルニアは難しくないんだ。」
「まあ、今回のケースはね」
高津は何となく安心した。
そこにあるのは変わらぬ日常だ。
(……一体、俺は何であんなに不安になったんだろう)
自分の情緒不安定さを村山に勝手に投影しただけなのかもしれない。
「よかった」
「何が?」
村山が落ち込んでいると思ったと言いかけて高津は黙った。
それこそ余計なお世話と言われかねない状況だ。
扇風機の風に、机の上に開かれた本の頁がパラパラとめくれる。
(……?)
だが、ふとそれが気になって高津は眉をしかめた。
どうしてだかはわからない。
今、目に入った読めないはずのその頁、その行がやたら気になる。
「これって、英語じゃないよね?」
本を指さすと、村山は頷く。
「ドイツ語」
「日本語訳はないの?」
「あるけど、この著者は文脈が長い上に否定文が多い。日本語訳だと五行ぐらい読んだ後で、『……ではない、』とか『とは言えない、』とかが来るんで騙されたみたいな感じになる。最初から否定だとわかる原語の方がストレスが少ないんだ」
何度も読み返したと思われる頁に残る跡を見ながら、高津は無理に笑う。
「村山さんだったら、一度読めば文言全部覚えるだろ?」
「否定されるのを待ちながら長い文章を読むのって耐えがたいから」
高津は目を細め、そして気になるその行を指さす。
「ね、ここ、訳してよ」
村山は瞬時瞠目したが、やがて口を開いた。
「従って彼らは、それがいつだって可能であるという死の確実性に特有な性質を覆い隠す」
高津がはじかれたように村山を見ると、彼は気弱げに微笑んだ。
「何て顔してるんだ。別にとりたててびっくりするようなフレーズじゃない。ここは単に死の確実性と無規定性について述べているだけの箇所だ」
「確実性と無規定性?」
「俺たちは必ず死ぬ。だけど、それがいつ来るかはわからない、ってこと」
村山は目を細めた。
「人は己がいつでも死ぬことができるってことを見ないようにして生きてる。生まれ落ちた瞬間から死にフラグが立ってるのに、世間に埋没している間はそのことに気づかない振りができる。今と終わりの間に予定をなるべくたくさん入れてさ……」
どうしてなんだろう。
こんなに側にいるのに、村山を遠く感じてしまうのは。
(……どうしてなんだろう)
この優しい村山とこんな風に話すのが、今日で最後かも知れないという気がするのは。
「村山さん」
高津は唇を震わせた。
「俺に何かできることはない?」
「え?」
「わかんないけど、さっき何だか村山さんが酷く不安なんじゃないかって思ったんだ。そしたら俺、ここに来て……」
村山は目を見開いた。
そしてしばらく高津を見た後、そっと笑った。
「ありがとう。全然大丈夫」
「ほんとに?」
「うん」
彼は頷く。
「確かに、ちょこっとだけ自分を嫌だなって考えたりはしたけど、別にいつものことだし、そんなにびっくりするほどブルーになってた訳でもないし」
「ほんとのほんとに?」
相手は目を細めた。
「でも、ちょっと嬉しかった」
「何が?」
「俺なんかでも必要だったら、って言ってくれたことが」
「え」
村山は高津の頭に手を置いて、くしゃっと髪を握った。
「だけどな、その台詞は萌にとっとけ。女の子なら絶対にぐっとくるから」
「もうっ!」
高津は膨れた。
「俺さ、本気で心配したのに」
村山はまじまじと彼を見つめた。
「お前、ほんとうにいい奴だよな。俺なんかの友人にはもったいないぐらいさ」
思わず高津は赤くなって、村山の手を払いのけた。
「いや、その、あのね……」
「で、ここにどうやってきたんだ?」
「え?」
「いや、来たからには帰らなきゃならないだろ?」
「あ、えーと、マンションから飛び降りて?」
村山は高津をしげしげと見つめる。
「……ポテンシャルは大丈夫だった?」
「一メートルぐらいの高さから飛び降りた程度の衝撃はあったよ」
「あっと思ってからこちらに移るまでは、それぐらいの時間しかないってことなのか」
少し村山は考え込む。
「それと、前にお前、自分は行ったことのある場所にしか移動できないって言ってなかった?」
「うん」
練習して、移動が成功した時の状況は逐一村山に報告している。
「行ったことのある場所っていうよりは、最初の一回目を除いては、ほんの数メートルから数十メートルしか移動できてないってのが実情だけどね」
「この部屋に来たことはあったっけ?」
「はじめて」
「……だよな」
村山はしばらく黙って宙を見据える。
そしてゆっくりと高津を見た。
「……俺の手を掴んで、それからこっちに現れたよな?」
そうだったような気もするが定かではない。
「その時の状況を詳しく教えてくれ」
「その、電話していて村山さんが不安になってるんじゃないかって思った途端、そっちにいかなきゃいけないって思って……」
しどろもどろになりながら、当時の状況を思い出しつつ話を終えると、村山は一つ頷いた。
「わかった。じゃあ、とりあえずこの机に乗ってみろ」
「え?」
「え、じゃないって。ここに来たとき、机の上に現れただろ?」
村山は本を閉じて横に置き、そしてどうしてか自分から机の上に乗った。
そして高津の方に手を出す。
(……なんかこれも嫌な予感がするんだけどな)
仕方なく高津もその手に掴まって机の上に立った。
「目を閉じて、お前の部屋のベッドを想像して」
「ベッド?」
「うん」
よくわからなかったがベッドを頭に思い浮かべる。
「あー、疲れたって感じで布団の上にぱたんと寝ころぶとだな……」
言うと同時に村山が彼の足をすくった。
「うわあっ!」
高津はそのまま顔面から床に向かって落ちていき……




