篠田2
そしてその翌日、偶然にも村山は病院から帰る途中、エレベーターで篠田貴一に出会った。
「昨日たまたま先生の話が出て、詩織が是非遊びに来て欲しいって伝えてくれと言ってました」
篠田は嬉しそうに笑った。
「詩織がそんなことを? じゃ是非伺うよ。何なら今からでも」
まさかそう来るとは思わなかった村山は慌てた。
「だったらちょっと待ってください、電話しときます」
村山は会話しながら、詩織にブラインドタッチでメールを送る。
「大丈夫、大丈夫、長居はしないから」
「そうおっしゃらないで。詩織も話したいこと一杯あるだろうし」
篠田は少し考え込んだ。
「でも、手ぶらで行くと、あいつ怒るかな」
「それは問題ないと思います、昨日現在で、まだ封を切ってないのが二本あったし」
「俺は手みやげが一升瓶だとは一言も言ってないぞ」
と、すぐに返信が来た。
「……いつ頃になりそうって、言ってます」
「え?」
篠田は驚いたように彼を見た。
「いつの間にメールを打ったんだい? やっぱり若い人は違うね」
ユーザー辞書に定型文や、よく使う単語を登録して順番を覚える、そしてそれ以外は数字やひらがなで対応すると、意外に簡単だ。
複雑な内容なら、変換のいらない英語でやりとりすれば問題ない。
この操作はスマートフォンよりも普通の携帯電話の方が上手く操作できるので、彼は未だにガラパゴス携帯を使用していた。
五分後に着くと詩織に送信してから村山は首を振る。
「慣れだと思います」
彼らは病院の門を二人並んで通った。
そして、脳外科の名医が手術ミスで訴えられた話をしながら帰途につくと、家には血相の変わった詩織が待っていた。
「もうっ! 来るならせめて一時間前に言ってくれないと、おもてなしできないじゃない!」
篠田は笑って手を振った。
「おもてなしはいいよ。鮨の出前でも取ろう。俺が出すから」
「実はお寿司は頼んだの。でも、きっちゃんにちょっとは腕があがったところ、見せたいし」
言いながら詩織はビールと冷や奴に枝豆、それにもろきゅうをテーブルに出して消えた。
「やっぱ、詩織は変わってないな」
「ええ」
「ああいうとこが可愛いんだ」
篠田はまなじりを下げる。
「小さいときから俺たち兄弟の後をいつも走ってついてきて、頼みもしないのに何かしら手伝いたがった」
篠田の実兄は名古屋で開業している。
「……姉さん気質が強いんですかね。一人っ子だけど」
「君とあいつの年の差ならそうかもしれないが、俺から見ると世話焼きの妹だ」
村山は頷きながらビールを注ぐ。
思えば彼の親友の松並も詩織を妹分として扱っていた。
(……正彦、か)
彼はふと顔を上げた。
松並から想起される存在を不意に思い出したのだ。
「……そういえば」
言おうかどうしようか瞬時悩んでから、彼は続きを言った。
「明石先生って、篠田先生の推挙でうちの病院に来られたんですよね?」
篠田は目尻にしわを寄せた。
「良かったよ、君の方から切り出してくれて」
「え?」
「実はね、今日、俺が君の家にずうずうしく押しかけたのは、君と一度明石の話をしたかったからなんだ」
驚いて村山は篠田を見つめる。
「あいつ、結構くせがあるから扱いにくいだろ?」
「い、いえ、そんなことは」
「手術中によく怒るだろ、自分からやりたいと何故言わない、とか、ぼおっと突っ立てないでお前やれと言いつつ、手を下げられないから足で蹴るとか」
「……よくご存じですね」
篠田は微笑んだ。
「ま、不器用なんだが根はいい奴だ。気に入った人間には情が厚い。後輩なんかだと親身で世話してくれる」
「はい」
「君のことを頼んでおいたよ、色々教えてやって欲しいって」
「え!」
篠田はもろきゅうをつまんだ。
「ほんとは前から気にはしてたんだけど、君ら二人についてはあまりいい噂を聞かなかったんでね、差し出がましいと言われたくなくて遠慮してたんだ。でも、最近はそうでもなさそうだから」
村山は缶ビールのプルタブを開け、篠田のジョッキにそれを注いだ。
「ご心配をおかけして済みません……それと、お気遣いいただいてありがとうございます」
「とは言え、君をダシに使ったという側面もあるから、あまり気にしないでくれ」
「……と言うと?」
「あいつ、あと半年でやめたいって言い出したから、君を鍛えてからでないと許さんって言ったんだ。そしたら、しぶしぶあと一年は残るって」
村山は目を見開く。
あの明石の不可解な行動は、それが原因だったのか。
(……それにしても)
誰に対しても傲岸な彼が、篠田に頭が上がらないのはどういう訳だろう。




