噂話3
とは言え、その時の会話は心のどこかにひっかっり、数日経ってもふとした折りに彼の心に甦った。
(まあ、仕方はないか)
毎日部長や医長と顔を合わせるのだ。
連想的に内容が思い起こされるのは致し方ないとも言える。
「……いや、でもメグちゃんは明石先生に気がありますよ、絶対」
村山が部屋に入ると、佐々木と明石が顔を上げてこちらを見た。
(……あ)
ふいっと明石は立ち上がり、村山と交代で部屋を出て行く。
何となくその後ろ姿を見送った彼に、佐々木が話しかけてきた。
「最近、お前と明石先生、ちょっと親密そうな感じだったけど、そうでもないのかな」
「……はあ、まあ」
何と答えていいのかわからずに村山は椅子に座る。
「ま、その方がいいと思うよ。部長も医長も明石先生のこと、かなり怒ってるから距離を持った方がいいって」
「怒ってる?」
嫌ってると怒ってるの表現の違いについて、村山は今一度考えた。
「そりゃそうさ、院長の前であんな恥かかされて」
佐々木は何だか嬉しそうに言った。
「その上、最近やたら難易度高目の手術をしたがるだろ? あれは癇に障るんじゃないかな」
「……どうしてですか? 専門医取得のためだと聞きましたが」
本当はそうでないことを知ってはいたが、一応建前を話しておく。
「明石先生はあの歳まで専門医取得に関心を示してなかったんだぜ? それが突然資格が欲しいとかって何だよ、って感じなんじゃない?」
何となく村山のせいで明石の悪口が言われているようで居心地が悪い。
「部長たちにしてみれば、鼻持ちならないってとこだろ。執刀を許可してるのは、いつかミスるのを待ってるのさ」
村山は苦笑した。
「あの人が偉そうで鼻持ちならないのは今に始まったことじゃないでしょう?」
すると佐々木は目を丸くした。
「……お前が明石先生の悪口を言うの、初めて聞いたよ」
それはそうだろう。明石の話題など以前は口にする事すらできなかった。
「そうでしたっけ?」
「いや、その方がいい。距離を置くべきだと思うよ。だってさ……」
本当はこの空いた三十分の間に溜まっている事務仕事を処理したかったのだが、仕方なしに耳を傾ける。
「どうせそのうちやめて出て行くんだ。それより、ずっとここにいる部長についた方が絶対に有利だし……」
佐々木が何やかやと話しているのを聞きながら、村山はパソコンのマウスにそっと手を伸ばした。
「……明石先生、ここをやめるんですか?」
そして自然な感じで身体を四十五度ほど回転させてディスプレイを視野に入れ、パスワードを打ち込みアプリケーションを起動させる。
「わかんないけど、ひとところに居着くタイプじゃなさそうだろ?」
「……確かに」
と、そのとき不意に村山は、数日前の詩織の言葉を思い出した。
(……そういうことに敏感な人は、そういうことを喜んで報告してくれる人や、味方になって消火に当たってくれる人を普段からチェックする、か)
「佐々木先生」
「何だ?」
「あの、変なことを聞いて申し訳ないんですけど」
「だから何?」
ものすごく勇気が必要だったが、他の誰よりも聞きやすいのは確かだと自分に言い聞かせる。
「その、俺について、何か他に明石先生が言ったりしてることってないですよね?」
佐々木はとても嬉しそうな顔をした。
「俺自身は最近は聞かないが、噂としては耳にするぞ。卑屈だとか、人に媚びすぎて嫌な野郎だとか」
村山は頷く。そこまでは既知の範囲だ。
「明石先生以外は?」
佐々木は少し不思議そうな顔をした。
「お前、そういうの、全然気にしないタイプなんだって思ってたけど、そうでもないんだ?」
気にしないというよりは、気がつかないだけである。
「気にしますよ、人間だし」
「何の情報がいい? 俺はだいたい何でも知ってるぜ」
どうしてか佐々木は目を輝かせた。
「うーん、何だろう」
言いづらくて言葉を選んでいると、佐々木が笑った。
「お前の浮気相手?」
それは聞きたい情報ではなかったが、話の糸口になるかと思い村山は頷く。
「あ、例えばそんなのを」
「ってことは、あれ、本当だったのか?」
「え?」
どきりとして村山は佐々木を見る。
「あれって?」
「だから浮気の話だ」
慌てて手を振る。
「してませんよ、そんなの」
「本当か?」
「当たり前です」
そんな噂が立ってしまった相手とは誰だろうと村山は想像を巡らす。
「……っていうか、それ、誰なんです?」
「誰だと思う?」
じらされて、仕方なしに村山は小声で固有名詞を出す。
「……古谷さん?」
「え?」
驚いた顔に、もう一度手をばたばたと振る。
「いや、だから、それは俺が勝手にいいなって思ってるだけで、古谷さんは全然関係ないんです。そりゃ、会話するときにちょっと嬉しかったりはするけど、それでもその程度のことで……」
しどろもどろになると、佐々木は真面目な顔で首を振った。
「……古谷さんって、オペ室のおばさん?」
おばさん、と言うが、佐々木とほぼ同じくらいの歳だ。
「オペ室の古谷さんです」
「そりゃ、ないだろ。カモフラージュにしてももう少し相手を選べよ」
呆れたような声に、村山は少しむっとする。
「古谷さんは可愛いじゃないですか」
「女子高生と噂立ててるお前が、わざわざそんな子持ちの太った年増を相手にする訳ないだろ」
村山は目を見開く。
「女子高生?」
「そう。」
「誰が、誰と?」
「お前がその子と」
「その子って?」
佐々木はにやにやと笑った。
「それを聞きたかったんだ。いいチャンスだから吐けよ」
「って言われても」
実際問題として、彼が話をすることができる女子高生は唯一萌だけなので、噂がたつなら彼女しかいない。
こんなおっさんと噂を立てられてしまった萌を気の毒に思う。
(……詩織が気にしていたのはそれか)
彼が「いわれのない中傷」 を気にして、彼らと行動することをやめたのかもしれないと考えての問いだったとすれば辻褄が合う。
「確かに、俺の友人の高校生が風邪を引いたときに、その彼女と一緒に彼への見舞いを駅デパに買いに行ったことはありますけど、噂がたつにしても寂しい感じの距離感ですし」
高津に遠慮して、彼だって萌とは少し距離を空けて歩くように気をつけてはいるのだ。
(……時々、うっかり忘れることもあるにはあるけど)
「第一、その女子高生は嫁さん公認の友達ですよ?」
「なんだ」
ひどくがっかりしたような顔で佐々木はふうと溜息をつく。
「俺にも言えないようなことなんだな」
思わず村山は笑った。
「俺、若いのは駄目なんです。年増盛りが好きなんで」
「……そうなのか?」
「三十歳未満は正直論外です。俺が今の嫁さんと結婚したのも、あいつ、年齢より少し老けて見えるからで……」
村山が言いつのったときである。
「失礼します」
ノックの音がして部屋に看護師の遠藤が入ってきた。