噂話2
だが、
「それと俺が院長になるとかならないとか、関係ないだろ?」
「大ありよ。彼らにしてみれば、すっぱり切られる可能性が大きいんだもの」
「切る? 俺が?」
彼は今度こそ本当に驚いた。
「切って、うちの外科を潰すって?」
明石もそんなことを言っていた。
それだけの価値のある科なのか、と。
「まさか。そうじゃなくて他の大学に切り替えるってことよ。例えば貴方の出身大学のジッツにするとか。あるいは独自ルートで募集するとか」
ジッツというのは、大学医局の関連医院のことである。
「どうして?」
「今、頼んでいる大学が法外に高いから」
彼は微かに微笑む。
「他に頼んだって来るわけないだろ。そもそも高いのは仕方ないじゃないか、こんな辺鄙なところに来てもらってるんだから」
それでなくても新医師臨床研修制度の導入以来、人事権を失った大学医局は人員不足のために地方病院から撤退しつつある。
どこの病院も医師を確保するのに汲々としていた。
「ここが辺鄙だって思ってるのはお義父さんと貴方だけよ」
「え?」
「少なくとも、貴方が院長になる頃には、ここは辺鄙じゃなくなってる」
詩織は二枚目のブラウスをたたんだ。
「元々、陸の孤島と呼んでるのは地元の人だけ。駅前には百貨店もあるし、コンビニもここ数年でものすごく増えてるし。それから将来のことについても杉山の小父様が長い間、相当頑張ったわ」
杉山というのは村山の親戚で、代議士である。
彼は色々奔走して、計画中の路線の駅をこの病院の横に呼び込むことに成功した。
電車自身は随分前から、彼らの住む町よりさらに北西にある二つの市町が計画し、経済的な事情などで何度も計画が止まったり、遅れたりしながらようやく通ることになったものだ。
実際、その駅をどこに作るかで町を二分、三分するほどの論争があったと聞く。
「……それで都会になるって?」
村山は笑う。
「逆だ。こっちに人が来るんじゃなくて、外にこの町の人が出て行きやすくなるだけのことだ。毎年、畑に猪が降りてくるような土地柄だぜ?」
「風光明媚、森や山があって、自然があってというのが辺鄙っていうなら、そこはあまり変わらないかもしれない。だけど」
詩織はハンカチの角にアイロンの先を丁寧に当てた。
「水面下で県が動いていた、路線の終点を変更するという話が最近噂で入ってくるようになったの」
村山が首をかしげると、詩織は頷く。
「予定よりも南下して、中津川まで伸びるらしいわ」
さすがの村山も息を呑んだ。
彼の住む町の南から私鉄が西へとJRまで走っているが、所要時間は四十分。そこから名古屋までは、特急に乗り換えてもさらに一時間強。併せて二時間足らずだ。
だが、新しい路線は、北から降りてきて病院の側から東に折れ、そのままある程度のところで南下して中津川に行く。ということは、
「リニアが停まる駅まで乗り換えなしに五十分。そこから東京まで五十分、名古屋まで十分よ。そうなったら僻地とまでは言わないでしょ?」
村山は茶碗に残ったご飯粒を食べ、番茶を入れて洗う。
そしてそれを飲み干してから、詩織を見つめた。
「だから?」
「……今と同じ金額を提示して、貴方の大学に一度打診してみてごらんなさい。まったく相手にしてもらえないか、それとも多少興味を持ってもらえるかわかるわ」
「いや、それは」
色々な意味で絶対無理な話だ。
「それが駄目でも、他に手を挙げてくれる大学の目処はついてる」
「だったら、俺が院長にならなくったって、他の理事さんが……」
言ってから彼は気づく。
義兄の出身大学が、部長や医長を派遣しているのと同じであることに。
「今はみんな遠慮して言わないわ。だけど、時代が変わって、今以上に費用対効果を考えていくようになればうちも変わる。本当にお金をかける必要があるのはどこなのか。提携大学の医局か、勤務している先生や看護師さんか、それとも患者さんか」
誰に遠慮して言わないのかを詩織は口にしなかった。
(……だけど)
不意に村山は哀しくなる。
「そんなことぐらいで、俺に院長をさせるとかどうとか考えるものなのかな?」
そのことは詩織が彼を慰めようとしてつけた理屈で、本当は彼の欠陥を皆が見抜いており、それで長にするのを逡巡していると考えた方が論理的だ……
詩織は溜息をついた。
「涼ちゃんが気にしてなさそうだから私が言うまでもないって思ってたけど、貴方に対する毒のあるうわさ、あれはさすがに酷すぎると常々思ってたの」
「え?」
ごちそうさまと言って立ち上がりかけていた彼は、眉をひそめてシンクに食器を運ぶ。
「あ、流しに置いておいてね。後で洗うから」
「それはいいけど、続きを言えよ」
「……手術が雑だとか、任せられないとか」
「ああ」
女房がそんなことを知っているというのは堪える。
「……誰から聞いた?」
詩織が何も言わないので、村山は溜息をついた。
「姉さん?」
答えは返ってこなかったが、間違いなさそうだったので彼はさらに深い溜息をついた。
あの心配性の姉がどんな思いをしているかを考えるとやはり辛い。
「大丈夫よ、お姉ちゃんも私もその噂は完全に払拭されたって聞いてるから」
水桶に規定量の台所用中性洗剤を入れ、水流で攪拌しつつ水を溜めてから食器をつける。
「むしろ今では、本当はものすごく手技が上手だったのを奥ゆかしく隠してたって話になってるし」
村山は皿を取り落としそうになった。
「……そうなのか?」
「とても手術の上手な先生が貴方をこっそり絶賛したのを、陰で聞いていた他の先生が皆に話して広まったらしいわ」
どうしてか目眩がする。
「……それにしてもよく知ってるな」
詩織はアイロンのスイッチを切り、村山が洗い始めた皿を拭くために台所にやってきた。
「涼ちゃんぐらい、何も聞こえない耳を持ってる人も珍しいのよ? それが悪いっていうんじゃないけど」
誰かにも似たようなことを言われたような気がする。
「だけど、俺の前で俺の悪口言う奴なんていないだろ」
「そういうことに敏感な人は、そういうことを喜んで報告してくれる人や、味方になって消火に当たってくれる人を普段からチェックして準備するものなの」
詩織は眉をひそめる。
「全ては開示されて貴方の前に投げ出されているのに拾ってみようとしないのは、貴方がそれについて有意義性を感じていない、それだけのことよ」
苦笑いを返した村山に、少し言い方がきつかったと思い直したのか、彼女は少し口調を変えた。
「だって、どうしてか涼ちゃんって、昔から自分に対してのマイナス評価に対しては自虐的に振る舞おうとするんだもの」
心のどこかがしくりと疼いた。
「ま、この話は終わりにしよう。もう解決したんだし」
詩織は頷く。
「……私が言いたかったのは、貴方が院長になると困る人ばかりじゃなくて、逆にそれを望んでいる人もいるってこと」
彼は洗剤を少しスポンジたわしに付け、ジョッキを丁寧に磨く。ガラス器具を濯いだときに、残った油やスケールなどで水滴がガラス表面に残るのはプライドが許さない。
「いわれのない中傷は無視してもいいから、そういうポジティブな声もたまに注視してくれるといいなって思って」
確かに彼には「いわれのない中傷」を「自分が悪い」と思いこもうとする傾向がある。
その歪みについては、どこかの段階で修正しないといけないこともわかっていたのだが……
「ね、この頃、圭介くんや萌ちゃんとはあまり会わないのね」
話題が変わったと思い、村山は安堵する。
「うん」
「……何か気になることがあるの?」
「別に。会いたいのはやまやまだけど、忙しくて無理なだけ」
詩織は少しほっとしたように頷いた。
「だったらいいの」
「……なにそれ?」
彼は眉間にしわをよせた。ひょっとして、話題が完全に変わった訳ではなかったのか?
「何か俺の知らないことで、気になることがあるのか?」
「別に」
詩織は首を振った。
「あの二人と付き合うようになってから、涼ちゃんは良い方向に変わってる。だから、ずっと仲良くしていて欲しいと思っただけよ」
前後の会話の繋がりからして何となく妙だとは思ったが、詩織は言うべき事と言わない方がいい事を明確に仕分けするタイプの人間だったので、問いつめても無駄だと知っていた。
「心配しなくても多分、一生の付き合いだと思う」
「そう」
柔らかな微笑みに、今度こそ彼はその話題を打ち切った。