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夢の後に  作者: 中島 遼
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噂話1

 すこぶる元気な胆石患者と、ヘルニア、虫垂炎以外は以前として執刀する事はなかったが、それでも難易度の高い手術の助手をする機会は増えた。

 おざなりな手術を数多く見てもさほど得るところはなかったが、上手なそれを一つ見れば数段レベルがあがる。

 明石の腹腔鏡下噴門側胃切除術を勝手に覗きに行ったために、医長たちの機嫌が目に見えて悪くなったこともあったが、それでも時間を縫って村山は研鑽にいそしんだ。

(……だけど)

 以前から引っかかっていた言葉がある。

(およそ外科医なら、雑なのか素早いのかぐらいは見ればわかる……か)

 村山の激しいコンプレックスは、自分が赤の他人から好かれるはずがないという視点からスタートして物事を見るように彼を育てた。

 それ故、部長や医長の彼への軽蔑に近い対応は、それ以上の連関を検討することなく彼の中では諦めとともに消化されてきた。

 しかし、改めてその言葉の次を考え、それ以外の明石の言葉をつなげてみたとき、奇妙な図式が現れてきたのだ。

 彼に上部消化管手術をさせる理由は、彼にそれを断らせるため。

(干されているとも言われた)

 そして……

(俺が院長になると困る?)

 微妙に陰謀めいたこの状況は、一体何を目的に構築されているのか……

「明日も遅いの?」

 遅い晩ご飯を食べていると、少し離れた場所で洗濯物をたたんでいた詩織が場所を移し、ソファで村山のカッターシャツの取れかけたボタンを繕い始めた。

 ハモの唐揚げを口に入れかけていた彼は、我に返って返事をする。

「……ああ」

 部屋は二十畳程度だが、ダイニングとリビングは数段の階段と手すりで十畳ずつ半分に仕切られており、リビングは階段二つ分ほど下になる。

 そして、村山が食事をしているダイニングテーブルは詩織の座るソファとは手すりこそあれ、距離的には二メートルほどの近さだったので会話には不自由ない。

 ただし、ダイニングが高い位置にあるので、彼の位置からは詩織の頭頂を眺めることになった。

「何時頃になるの?」

「わからない」

「どうして遅くなるの?」

「長くなりそうな手術があって」

「そう」

 彼女は手元に目をおとす。

「それならいいけど」

 少ししてから詩織の言葉に不審を感じて、彼は飲もうとしていたビールのジョッキを置いた。

「……どういう意味だ?」

 詩織は糸を結んで、糸切りばさみで端を切る。

「危ないこと、してないんならいいかなって」

「危ないこと?」

「……突然、刃物が飛んできたりとか、刃物入りのゼリーを持って帰ってきたりとか、そういうのじゃなければ」

 細川はまだ見つかっていない。

 もちろん、村山は細川とは現世においては何の関係もないので、通り魔に襲われたと言い張り、事実警察もそれを認めている。

 だが高津の見舞い用ゼリーについては、警察は知らないが詩織は知っていた。

 処分しようと家に持って帰ってきて金属と生ゴミに分別しているところを、彼女に見られたからだ。

 咄嗟に言いつくろったが、彼の言葉を詩織がまったく信じていないことは明白だった。

「だからあれは、ちょっと手が滑って刃がゼリーに入ってしまっただけだって」

「だったらいいの」

 しばらくはまた静かになる。

 村山はビールを飲み干してご飯をよそった。

 白菜の浅漬けがあったのでそれを少し茶碗に乗せる。

 詩織は裁縫道具を片づけると、それらを所定のタンスの引き出しに仕舞うために立ち上がった。

 そして引き続きアイロンを出して、プラグをコンセントに差し込み、アイロン台の前に座る。今度の位置は横顔が見えた。

「当てなくてもいいよ、どうせオペ着に着替えるし」

「……通勤中はワイシャツ一枚でしょ?」

「たった五分程度だって」

「意外にみんな見てるものよ」

 仕立て用生地をもらったので仕方なく作ったワイシャツだったが、今後夏の間は形状記憶シャツにしておこうと彼は思った。

「今日は早く寝る?」

「うん、明日はかなりハードだから」

「仕事は楽しい?」

 不思議な問いに彼は詩織に視線をやった。

「何故?」

「……別に。楽しければいいなって思って」

 理解は不能だが詩織が心配していることがわかったので、彼は彼女を安心させるために悩んでいないが悩ましい事実を口にしてみる。

 それで悩みを勘違いしてくれれば御の字だ。

「……なあ、もし」

 彼は二膳目のご飯をよそう。

「俺が院長になれなかったら、どうする?」

「え?」

 びっくりしたような顔で、詩織が顔を上げた。

「ならなかったら?」

 彼はもう一度繰り返した。

「なれなかったら」

「どうして?」

「何となく、みんながそれを望んでいないような気がするから」

「お義父さんのこと?」

「いや、そうじゃないけど」

 詩織はアイロンを台に置いてから、改めて彼を見つめた。

「じゃあ、どなたが?」

 どうしようか一瞬悩んだが、言ったところで実害はないだろう。

「部長とか、医長とか」

 するとどうしてか詩織は微かに眉をひそめた。

「……どうしてだと思う?」

「さあ、俺が頼りないからじゃないかな」

 詩織は黙って再びアイロンを当て始める。

 そして、畳まれたワイシャツが三枚目になった時、不意にこちらをじっと見つめた。

「理由はあるのよ。多分」

「え?」

「涼ちゃんは、そういうの疎いからわからないかもしれないけど」

「どういうことだ?」

 詩織はブラウスの袖にアイロンを当てた。

「……今、外科にドクターを派遣してくれている大学に、うちがどれだけ上納金を支払ってるか知ってる?」

「上納金って?」

「ごめん、言葉が悪かったわね、大学との共同研究費という名の寄付とか、ドクター一人当たりの派遣料とか、医局に戻る際の交通費、学会出張費用、その他諸々」

「……それは、知らない」

 詩織は手でその数字を示す。

「下に0がこの右手の指の数だけ。ちなみにこれは年間の金額で、この中にドクターの給与は含まず」

 それは想像以上に大きな額だったので、彼は驚いた。

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