招待2
(あ、いけない)
不意に我に返った村山は、時計に目をやってから慌てて立ち上がった。
そろそろ出勤しないといけない時刻だ。
皿とコーヒーカップを洗い、ネクタイを締めてから家を出る。
持っていくのは携帯、財布にキーホルダー、それにハンカチと弁当箱。
首筋に多少の警戒をしながら歩くこと五分。
「おはようございます」
挨拶をしつつ、関係者用の入り口から入って靴を履き替える。
(うん、大丈夫)
数時間しか寝ていない割には元気だ。
まだ興奮が冷め切ってないせいなのだろうか……
(……あ)
ふと、前を歩く見慣れた女性の後ろ姿を見て、村山は足を速めた。
「おはようございます」
呼びかけると、オペ室勤務の看護師である古谷が、優しい笑顔でこちらを向く。
村山より二つ年上で、色が白く少しふっくらした物腰の柔らかい女性だ。
頭の回転が速く、色々なことに良く気の付くタイプで、手術室の中でも外でもてきぱきと業務をこなすのでかなり頼りになる。
「おはようございます、村山先生」
「あ、あの」
微妙に緊張しながら村山は彼女の左に並んだ。
「古谷さん、お願いがあるんだけど……」
「先生のお願い、久しぶりですね」
にっこり笑った顔にちょっとドキドキする。
「あの、その、いつものことなんだけど、明石先生に聞いておいて欲しいことがあって」
前からちょくちょく使う手だ。
普通なら自分で明石に確認すれば済むようなくだらない事でも、過去幾度となく古谷に頼んで精神的負荷を軽減させてもらっていた。
特にこの間、明石と二人で飲んで以来、彼とは顔を合わせづらいのでとても助かる。
あの日村山は泥酔し、恥ずかしいことに朝、明石に蹴り起こされるまで前後不覚に眠っていた。
前の晩に口走ったことは全て覚えていたのでなお始末が悪い。
詩織には泊まりなら連絡ぐらいよこせと叱られるし、ほんとうに散々な夜だった。
「昨日、交通事故で入院した竹村さんのことなんだけど、明石先生は……」
「村山先生」
だが、普段ならにこにこしながら聞いてくれる彼女が、どうしてかその目を泳がせた。
(……?)
不思議に思い、彼女の視線の先である左後ろを振り向いて村山は驚く。
「わっ!」
十字路の左手廊下に、不機嫌を絵に描いたような明石が両手を白衣のポケットに突っ込んで睨んでいたからだ。
「貴様」
大股で側に来ると、彼はいきなり村山の襟首を掴んだ。
「そういうことを、何でわざわざ看護師経由で確認する?」
「え、いやその……」
「前から思ってたんだ、その姑息な逃げ方が無茶苦茶むかつく」
どうやら過去に同じ事をしていたのも、既にばれていたらしい。
「す、済みません、なんか怒られそうな予感がして……」
「何度も言うが、俺はお前のそういう卑屈なところが大っ嫌いだ」
目の端に、顔色を失った古谷の姿が映った。
(……可哀想に)
村山が彼女の立場でも確かに見ていて怖いだろうと思う。
「とにかく、何でも自分でやれっ! 報告や確認だけじゃないっ、手術だってそうだ、人から言われるまでじっと待ってないで、縫合も吻合も自分からやらせてくださいと頼めっ!」
明石は今回の件に関係のないことまで怒り出した。
おどおどしている古谷が気の毒だ。
いや、彼女だけではない。明石の怒鳴り声に驚いたのだと思われる職員が飛び出してきて、みなこちらを注視していた。
「その、腐った性根を一年以内にたたき直してやる」
「え?」
「来いっ!」
引きずられるようにして村山は廊下を歩いた。
というか、歩かされた。
「お前、今日の予定は? 検査は入ってるか?」
エレベーターに乗ると、明石は襟を離してネクタイの結び目付近を握った。
「け、検査はありませんが、午後にムンテラが二つあって……」
「ムンテラは家族か、患者か?」
「入院してる患者さんですが……」
あらぬ方向にネクタイを引っ張られて首が痛い。
「なら、今から行って、時間を夕方に変更してもらえ。病棟の方は三宅先生にお願いしておく」
「ええっ?」
「とっととラウンドしたら、手洗いして第三手術室に九時四十五分だ、いいな?」
村山は二度驚いた。
「助手のピンチヒッターですか?」
「違う、見学だ。佐々木もいるから狭いんで、麻酔の邪魔にならんように注意しながら俺の後ろか横に立っとけ。カンファレンスで寝てなけりゃ、術式はわかってるな?」
今日はこの病院には珍しく、右開胸食道亜全摘、頸部以外の二領域リンパ節郭清及び胃管再建術が予定されていた。
亜全摘とはいえ、本来なら大学病院に送るようなきわどい症例だったが、明石が手を挙げて部長から許可をもらったと聞いている。
「でも、そうなると救急はどうなるんです? 俺、当番なんですが」
「来てから考えろ」
一瞬村山は喜びかけたが、すぐにそれは沈静化した。
「……あ、でも」
「でも、何だ?」
「前立ちは当然医長ですよね?」
「そうだ」
エレベーターを降り、医局へ犬のように引きずられる。
かなり恥ずかしい格好なので、人に見られないことを願うしかなかった。
「怒られますよ、俺。……こんなところで何してる、暇なのか、暇なんだったら患者さんを五人渡すぞ、とか言われそうな気が」
「五人ぐらい引き受ければいいじゃないか」
明石は勝手なことを言った。
「俺が決めたんだ。お前に拒否権はない」
彼は立ち止まってネクタイを離し、そして突き飛ばすように村山の胸を押した。
「そもそもお前が見たいというから面倒を承知でセッティングまでしてやったのに、いつまで経っても見学したいの一言もないってのはどういうことだ?」
「えっ!」
確かにそんなことを言った記憶はある。
「俺はな、人から指示されるまで座ったまま動かんような、やる気のない男が大嫌いなんだよ!」
「も、申し訳ありません、改めます」
「お前はいつだってそうだ。ここに来て一年になるが、ちっとも変わらない」
「済みません」
「何だその顔はっ!」
「済みませんっ!」
明石の迫力に微妙に後ろに下がると、さらに彼は怖い顔になった。
「今日からしばらく、この俺がサポートしてやるって言ってるんだ。泣いて喜ぶならともかく、そんな不平顔されるいわれはないだろうがっ」
「は?……」
呆気にとられて口を開けた村山を一瞥した明石は、村山を置いて医局に向かった。
「ぼさっとするな、さっさと着替えろっ」
「は、はい」
何がなんだかわからないまま、村山は慌てて明石の後を追った。