来訪者④
「それじゃあ一旦ここでお別れだね、ジラルドさん。僕はこれから馬屋に寄らないといけないから。人に見られないように馬を戻してこなくちゃ」
丘の中腹、ランバン邸の城門がもうじき見えるという所でジュリアンが言った。
「何食わぬ顔で部屋に戻って、衣装を着替えて、食堂であなたをお迎えする。以上。だーれも気づきやしない。じゃ、またあとで!」
「ちょっと待ってくれ、ジュリアン君」
「え? 何?」
先立とうとした少年を引き留めると、ジラルドは坂の上を顎で示した。
「少し間に合わなかったみたいだね。・・・・・・お迎えが来ているよ」
ジュリアンがその方向を探ると、少し先の岩陰から茜色が翻った。女中服を身に纏った少女が坂道を慌ただしく駆け下りてくる。その勢いときたら、スカートの裾をはためかめて走る姿が赤い蝶々に見えたほどである。ジラルドは彼女が躓いて坂を転がり落ちるのではないかと肝を冷やした。
ジュリアンはその少女の顔を確認して安心したのか、緊張していた表情を緩めた。
「なーんだ良かった、アンは”大丈夫”だよ」
笑って、アンに向かって歩みを進める。アンはあっという間に2人のもとへ辿り着き、息も絶え絶えにジュリアンに向かって
「こらーっ!」
と力の限り叫び、つぶらな目で睨んだ。
「か、勝手にお城を抜け出すのはよしてくださいな!いつまで経っても、どんなに待っても坊ちゃんがお部屋にいらっしゃらないので、アンはとてもとても心配しました!」
「ごめんね、アン」
「お馬の先生に伺ったらお稽古はとっくに終わったと言われ、旦那様のお耳に入れるわけにもいかず、もうこのままではジラルド様との会食に間に合わないと思って・・・・・・」
「アン、そのジラルドさんだよ」
「・・・・・・えっ、ああっ、も、申し訳ありません・・・・・・!」
どうやらジュリアンを心配するあまり、彼の後ろを歩いていたジラルドの存在に気が付かなかったようだ。捲し立てるような説教がぴたりと止まって、アンは目も口も真ん丸にして一瞬呆然とした後、しどろもどろになりながら謝罪した。もともと赤い頬がさらに紅潮して林檎になった。
ジラルドはこの少女のことを知っていた。ジュリアンよりいくつか年上の女中で、女中長モローの娘でもある。物心つくころからランバン邸に従事し、主にジュリアンの身の回りの世話を担当しているらしい。
だからジュリアンの話題にはしばしば彼女が登場するし、彼の周りでうろちょろしているのである。
頬と同じくらい真っ赤な女中服の裾をつまんで、アンはジラルドにお辞儀した。
「申し訳ありません、大変お見苦しいところをお見せしました。ようこそいらっしゃいませ、ジラルド様。ええと・・・・・・」
アンは突然口ごもった。視線がジラルドとジュリアンの間をいったりきたりしている。ジラルドは合点がいった。ジュリアンが言った通り、「アンは大丈夫」らしい。
ジラルドは健気な少女にできるだけ優しく声をかけた。
「君の案内は必要ない。城はもうすぐそこだろ、私はひとりで行くさ」
「で、ですが・・・・・・」
「2人で部屋に戻りなさい。早くしないと、ジュリアン坊ちゃんが城を抜け出したことがバレてしまうよ」
「そうだよ、アン!僕、父さんとマダム・モローにこっぴどく叱られちゃうよ!」
ジュリアンも口を挟んだ。その必死の説得に、アンの女中としての使命感は、ジュリアンへの母性にとうとう打ち負けたのだった。アンはジュリアンに特別甘い。彼の悪戯を告げ口できず、ついつい見逃してしまう。ジュリアンはそれを知っていて彼女の優しさに甘えているのだった。
アンはジラルドに頭を下げた。
「有難うございます!ジラルド様」
「いいから。急ぎなさい」
「はい、では、失礼いたします。行きましょう、坊ちゃま!」
「またあとで、ジラルドさん!」
ジュリアンは馬の手綱を引きながらジラルドに手を振った。おそらく裏門からそっと侵入するつもりだろう。
ジラルドは2人が見えなくなるまで待ってから、ゆっくりと歩き出した。