土曜日のショパン
土曜日の午後、これまでにないくらい落ち込んだあたしは図書館に来ていた。どれくらい落ち込んでたかって言うと――明日のレッスンには出たくない、そんなことを思っちゃうくらい。
◇ ◇ ◇
あたしがバレエを習いはじめたのは6歳のとき。
保育園の友だちが習っているのを羨ましがったあたしを、ママが近所のバレエ教室に連れていってくれたのがはじまりだった。レッスンを見学している途中から、やってみたくてうずうずして、はじっこで動きを真似していたのはいい思い出だ。
すぐにバレエ教室に入ったあたしは、最初は少し退屈だったバーレッスンも、体全体を動かすセンターレッスンも大好きになった。
小さなバレエ教室だったせいか、まわりの子は週に1回か2回のレッスンにあまり熱心ではなかった気がする。所詮は習い事、習っている今を楽しむだけで、それに一生を捧げるつもりなんかないと。
だけどあたしは違った。バレエを習いはじめてすぐに、あたしの将来の夢はバレエダンサーになった。
人一倍の熱心さでレッスンを受けて、先生にお願いしてレッスンのない日もスタジオを使わせてもらって、1人で練習したりもしていた。そのせいであたしは小さな教室から浮いたし、レッスンの結果ついてきた実力で、ひがまれながらも年に1度の発表会のセンターポジションをもらっていた。
そんなあたしの日常が変わったのは1年前の夏休みだった。恒例のサマースクールに参加していたあたしは、とあるバレエ団付属の研究所の人に話しかけられたんだ。話の内容は、俗に言うスカウトだった。
曰く、見たところあたしにはなかなかの実力がある。だけどコンクールでは見かけたことがないし、有名な教室や研究所の発表会でも見たことがない。もし今の教室より大きいところでやる気があるなら、うちの研究所に来ないかと。
そのときのあたしは、調子に乗っていたんだと思う。あたしが通っていた小さいバレエ教室の中では、確かにあたしが一番だった。あたしはそのことに自信を持っていたし、少なからずプライドもあった。今思うとかなりバカだった。まさに、『井の中の蛙、大海を知らず』って感じだったんだ。
スカウトの話に喜んだあたしは、とりあえず連絡先を教えてもらって、お母さんと先生に相談してみますと言った。心の中では、研究所に移ることはもう決定事項になっていたけど。
ママはあっさりOKを出してくれた。やるからには頑張りなさいよ、と言って。
バレエ教室の先生も、OKを出してくれた。いつかはこうなると思ってた、あなたをこのままここで踊らせるのはもったいないとも思ってた、寂しくなるけど、頑張ってねと言って。
驚いたのは、あたしが引き抜かれて別のところでバレエを踊ることになった、と報告したときのバレエ教室のみんなの反応だった。
みんな泣きながら引き留めてくれた。あたしの受けていた中学生クラスの前の、小学生クラスの子たちまで泣いていたのだ。行っちゃやだ、やめないで、とかなんとか言いながら。てっきり嫌われていたと思ってたあたしは驚いた。
そして、みんなの涙が、たとえ一時のテンションと集団ヒステリー的な何かの産物だったとしても、嬉しかった。あたしのことを少なからず慕っていてれたことも、それを示してくれたことも。
あたしは涙ぐんでいた先生と、泣いていた中学生クラスの子たちと、大泣きしていた小学生クラスの子たちに向かって、ありがとうございました、お世話になりました、と言った。ここで教わったことは一生忘れません、とも。
あたしも感傷的になっていたのかもしれない。挨拶をしてる途中で涙をこぼしたあたしを見て、みんなが一層わんわん泣き出した。
結局その日は全然レッスンができなくて、小学生クラスの子たちを迎えに来ていたお母さんたちを観客にして、みんなで『ミッキーマウスマーチ』を踊って終わった。(『ミッキーマウスマーチ』は発表会で小学生低学年が踊る定番の踊りだった)
教室をやめたあと、研究所の人に連絡をとったあたしは、早速練習に来てくれと言われた。連絡をした翌日、レッスンバッグを持って指定のスタジオまで行った。
まず驚いたのはその大きさだった。天井は高くて広いし、壁も四方鏡張りだった。そんなスタジオがいくつもある研究所は、今までにない興奮をあたしにもたらした。
ここで、踊るんだ。あたしのバレエで、このスタジオを埋めつくしたい。そんなことを考えてわくわくした。
あたしの考えがいかに甘いものだったかを思い知らされたのは、このあとすぐのことだった。
ひとまずレオタードに着替えたあたしは、レッスン場に入ってすぐに、男の先生に髪をシニヨンにしてないことを指摘された。あたしが通ってたバレエ教室では1つにくくっていればよかったから、それをそのまま言うと、それではダメだと返された。
道具を持ってないと言うと、呆れたようにため息をつかれ、すでにレッスン場に並んでいた女の子の内1人に、あたしにシニヨンのやり方を教えて道具を貸してやれと言った。常識知らずのバカな子扱いが悔しかった。
あたしはその子と更衣室に戻って、慣れないシニヨンを作った。かなり不格好で恥ずかしかった。女の子は親切に教えてくれたけど、必要以上に話しかけてきたりはしなくて、1人には慣れていたはずのあたしはどうしようもない心細さを感じた。
その日のレッスンで、あたしは色々なことを知った。最たるものが、あたしの実力なんて全然大したことがないということ。同じクラスでレッスンを受けた子たちはみんなとても上手で、アームスの使い方も体型も何もかもが洗練されていた。
4人ずつ順番に踊ったセンターでのアンシェヌマンも、みんなとてもきれい細やかで、今まで自分の踊りに持っていた自信とかその他色々が完璧に打ち砕かれた気がした。
レッスンが終わったあと、更衣室に入ってから火がついたようにおしゃべりを始める女の子たちの間で、ぐしゃぐしゃのシニヨンをほどいて髪を降ろし、泣きそうになっていた顔を隠した。
──泣くな、泣くな。ここで泣いたら負けだ。
同じクラスにいた子たちの前で泣き出さなかったのは、あたしの唯一のプライドだった。
その日から約1年。あたしは高校生になった。
相変わらずの劣等感を感じながらも、負けたくない一心で研究所に通い続けている。でもそんな気持ちでいるせいか、最近レッスンを心から楽しめていない気がする。
原因は他にもある。なぜかここ最近、思うように体が動かないことがあるからだと思う。わかりやすくできなくなったのがピルエットだ。以前なら一回転や二回転は余裕、三回転だって普通にできたのに、今じゃ全然できなくなっちゃった。一回転でさえ危ういときがある。そんなことでつまずいていられないのに。
半年後には研究所の発表会がある。あたしが通っていたバレエ教室の発表会とは規模が段違いに大きい。衣装はバレエ団のお下がりだし、それなりに大きいホールで、なんと入場料も取ってやるらしい。去年の発表会は、まだ研究所に入りたてだったから参加させてもらえなかったけれど、今年はあたしも出させてもらえる。といっても、ソロとかじゃなくて同じクラスの子たちと12人で踊る『レ・シルフィード』だけど。
そのシルフィードの練習が1ヶ月前から始まってて、土日は両方レッスンが入っている。講師には2年くらい前に引退したけどまだまだ現役で通用しそうな海外のダンサーさんを招待して、あたしたち向けに少し振りを変えてシルフィードを教えてもらっている。そんなことは前の教室ではなかったし、とてもいい経験をしているのはわかる。
わかるけど、あたしにとって今一番辛いのがこの練習だ。
シルフィードのレッスンは、招待した海外のダンサーさんと元々研究所のレッスンをしている男の先生がしている。といっても男の先生の方はほとんど海外のダンサーさんの言葉を通訳しているだけだけど。
あたしはこのレッスンでしょっちゅう怒られている。海外のダンサーさんには「あなたはシルフィードの踊りの性質を理解していない」とかわけのわかんないこと言われるし、男の先生にはレッスンが終わったあとに「周りをよく見て、もっと合わせろ」とか「音楽をよく聞け」とか言われる。あたしは注意されたら言葉通りにしてみようと努力してる(つもりだ)けど、先生たちから見たら全然納得できる出来にはなっていないらしい。
でも今日はほんと、特にひどかった。何がって、あたしの怒られっぷりが。
別にあたしだけがいつも怒られてるわけじゃない。他の子だって、「アームスが雑」とか「テンポが遅れてる」とか、細かいところはけっこう言われたりしている。
でもあたしに対してはどう考えたって多すぎ。海外の先生には「やればできるはずなのに、どうしてやらないんだ」とか言われて、他の子たちが見ている前で自分の短いソロパートを何回も何回も踊らされた。しかも最後には「もういい、やめなさい」とか言われて。このやろう、って思いながら、あたしはその場で涙をこぼさないようにするのに必死だった。
やっとレッスンが終わって、音速で着替えて帰ろうとしていたあたしを呼び止めたのは男の先生だった。あたしのピルエットの調子がよくないことに気づいてたらしく、居残って練習するように言われた。
あたしは絶望的な気分で「はい、わかりました」と返事をして、居残ってピルエットの練習をした。当然、精神的に最悪のコンディションだったあたしは、1回も三回転をきちんとできなかった。二回転だって数えるくらいしか成功しなくて、先生がいちいちアドバイスしてくれてるのもよく聞こえなかった。頭がガンガンして、顔が熱くって。
かろうじて泣かなかったけれど、この居残りは今日のあたしに致命的なダメージを与えた。
先生がため息をつきながら「もういいから、今日は帰れ」と言ったのに対しても、いつもなら帰れとか言うなら、居残りなんてさせんなバーカ!と心の中で罵るのに、今日はそれすらできなくて、「ありがとうございました」と小さく呟いてレッスン場を出るので精一杯だった。
早足で入った更衣室には、当たり前だけど誰もいなかった。
──あたし、何やってるんだろう。
空っぽの更衣室にしゃがみこんで、ノロノロとトウシューズを脱いでいたとき、ふと思った。頬を熱いものが伝うのに気づいたら、もう止まらなかった。
あたし、なんでまだバレエやってるんだろう。あんなに怒られて、嫌な思いしてるのに。大して上手でもないのに、なんでまだ続けてるんだろう。
「──もう、やだ……」
ふと口からこぼれた言葉に、あたしは自分でびっくりして、それと同時に傷ついた。
あたしがこんなことを言うなんて。1年前の自分なら考えられなかった。小さな教室の真ん中で、センターポジションにふんぞり返っていたあたし。あのときは自信もプライドもあった。周りに嫌われてると思ってても(実際は違ったみたいだけど)1人で大丈夫、と思える強さがあった。
でも今は違う。1年経つのに途中から入ったクラスにいまだになじめなくて、先生に怒られてばっかりの、二回転もまともにできないあたし。
ああどうしよう、涙がなかなか止まらない……。
しばらく涙を流したあと、どん底まで落ち込んでいたあたしは史上最低スピードで着替えを終わらせて研究所のスタジオを出た。でもそのまま家に帰る気にもなれなくて、1回も行ったことがなかった、研究所から10分の所にある市立図書館に足を向けたんだ。
◇ ◇ ◇
そんな感じで、あたしは図書館に来てるんだけど。正直、用事は無いからどうしたらいいかわからない。うん、まあ適当にブラブラしてみるか。
そうやってしばらくうろついていたら、いつの間にか周りにあった本棚は消えていた。【会議室1】とか【会議室2】って書かれたドアがいくつか並んでいる。
どうやら違うフロアに来ちゃったみたいだ。どうやって戻ろうかなーと考えていたら、廊下の奥の方からピアノの音が聞こえてきた。
「あ、この曲……」
『レ・シルフィード』の曲だ。明るく弾む、風の妖精の曲。レッスンではオーケストラの演奏の録音を使っているから、すぐにわからなかった。
発表会のためのレッスンは怒られてばっかりでつらいけど、『レ・シルフィード』そのものは嫌いじゃない。何人もの風の妖精がふわふわと幻想的に、そして悪戯っぽく可憐に舞う、そんな感じが好きだ。衣装も好き。背中に小さな羽が付いた、足首近くまである白くてふんわりとしたロマンチック・チュチュ。頭にはスズランの花冠を飾って、本当に妖精そのもの。バレエっていう芸術の雰囲気を、すごく高めてくれる。本物のダンサーはたとえTシャツにジーンズでも、身体ひとつで役柄を表現するって言うけど、やっぱり衣装は大切だ。あたしが思うに、衣装は踊る側の気分をかなり上げてくれる。
シルフィードの曲をどんな人が弾いているのか気になって、あたしは音のする方へ歩いて行った。
──ここだ。
音が流れてくる扉には【娯楽室】という文字。そういえば、こういう所を借りてピアノ教室を開いている人もいるって聞いたことがあったな。弾いてるのはピアノの先生なのかも。そっと【娯楽室】のドアを開けて、中を覗きこむ。
「あ……」
部屋の中でピアノを弾いていたのは、あたしより少し年上くらいの年の、男の人だった。
男の人がピアノを弾いてるところって、初めて見る。身体全体を動かして、まるでダンスみたいに、優雅に弾いている。なんだかとってもきれいだ。
そうだ、シルフィードのイメージってピアノの方がつかみやすいかも。
「……なんか、用」
ふいに声が聞こえて、ぼんやりしていたあたしは部屋の中に意識を戻した。そして、さっきまでピアノを弾いていた男の人がいつの間にか弾き終わってこっちを見ているのに気がついた。
「ーーっ!」
やばい、恥ずかしい! 覗くだけのつもりが部屋の入り口でぼーっと突っ立ってたせいで完全に不審者になっちゃった! いや、覗くだけでも怪しいけどさ!
「だから、なんか、用か」
男の人がまた口を開いた。あ、なんか答えなきゃ!
「あ、ごめんなさい、シルフィードの曲が聞こえたから覗いちゃっただけです。気にしないで、弾いてください!」
「……気にしないで弾けって……。そんな所にいられたら気が散るから、聞きたいなら入って聞いてよ」
「いいんですかっ?」
語気荒く言ってから、自分が今ひどい顔をしていることを今更思い出した。更衣室で大泣きしたからまぶたの腫れぼったさは史上最高になってるはずだ。
どうしよう……でも、今日だけならいいよね。きっともう会うこともないだろうし。
「お邪魔します……」
あたしが部屋に入ってドアを閉めると、男の人はピアノに向き直った。一瞬の間のあと、ピアノか音が流れ出てくる。男の人の身体が、波打つように動いて旋律を生み出す。
あ、この曲も知ってる……よく、バーレッスンのグランバットマンとかで使う曲だ。ダイナミックで情熱的な感じの、足を素早く振り上げるグランバットマンにはぴったりの曲。
生のピアノの音なんて、あたしは数えるほどしか聞いたことがない。こんなにうずうずするものだったなんて。外国のバレエ学校とかでは、レッスンを生のピアノでやると聞いたことがある。こんな音を聞いてレッスンできるなんて、羨ましすぎる。研究所のスタジオも設備はいいけれど、レッスンはCDの音楽だ。
またいつの間にか音楽が消えていた。自然と俯けていた顔をあげて、お願いをしてみる。
「あの、もう一度シルフィードの曲を弾いてほしいんだけど……お願いできますか?」
「シルフィード……?」
「あの、さっき弾いてた曲だよ。バレエの『レ・シルフィード』の」
「ああ、『華麗なる大円舞曲』か」
男の人が聞き慣れない仰々しい感じの言葉を言った。
「なにそれ?」
よっぽどアホみたいな顔をしていたんだろうか。男の人が小さく吹き出してから(失礼なヤツだ!)、答えてくれる。
「さっきのワルツの題名。ショパンのワルツ第一番変ホ長調作品18『華麗なる大円舞曲』」
「そんな名前なんだ……」
「まあ、名前っていうか、区別するための番号。それ弾けばいいの?」
「うん、できればっ……弾いてくれるの?」
こくり、と男の人がうなずく。あの曲をまた聞ける。……あの曲で、踊りたい。
心の中から自然にわき出てきた欲求に、あたしはなんだか安心した。良かった。さっきまではあんなに落ち込んでたけど、もう『踊りたい』っていう気持ちが出てきた。
──ああ、うん、そっか。
「別に、いいんだ」
たとえ踊りが上手くなくても。自己満足にしかならなくても。今はそれでもいいんだ。ただ、自分の欲求のままに踊ることが、最近のあたしには欠けていたんだと思う。だからあんなに普段のレッスンが楽しくなかったんだ。
「……いいの?弾かなくて」
ふいに聞こえてきた男の人の声に驚いて顔を向けると、なんだか残念そうな表情でこちらを見ていた。おお。初めてマトモに顔見たけど、かっこいい。これであんなにきれいなピアノを弾くなんてモテそう。ていうか問答無用でモテるんだろうな。
頭の中で少し間抜けなことを考えながらも、あわてて答える。
「ううん、今のは違うの。ピアノは弾いてほしいよ。ただ……」
部屋の床をちらりとみる。フローリングか。さっきまでレッスンだったからトウシューズには滑り止めでとしてつけた松ヤニが残っているはず。髪の毛は、シニヨンはほどいたけどポニーテールのままだし、下は動きやすいロールアップしたジーンズ。うん、これなら大丈夫。
「トウシューズ履きたいから、少し待っててくれるかな」
イケメン青年は少し面食らったような表情で、またこくりとうなずいた。イケメンはどんな表情でもイケメンなんですかね。なんだか腹立たしくなってきた。
トウシューズを履いて準備ができたあたしは、イケメン青年に協力してもらってピアノを部屋のはしっこに寄せた。グランドピアノじゃないけど、そこそこ重かったからね。
「……踊るつもり?」
イケメン青年が聞いてきた。トウシューズ履いといて今さらな感じだけど聞かれたからには答えますよ。
「うん、そのつもりだけど。ダメかな。あっ、もしかしてこの部屋でそんなことしたら怒られる?」
「いや、たぶんダメじゃ……ない、けど。その格好でいいの?」
どうやらレオタードを着ないのかたずねてるらしい。
「着替えるのもめんどうだし、このままでも踊れるから」
「そう……」
そう呟いたイケメン青年はなんだか残念そうに見えた。研究所では黒いシンプルなレオタードって決まってるから、着替えても面白くないと思うけどな。
「じゃ、おねがいします」
「うん……」
部屋のすみにスタンバイして、あたしが声をかけると、イケメン青年がピアノの鍵盤に手をかける。
しん、とした緊張を含んだ静寂のあと、軽やかな音色が響いた。一小節、二小節、数えてから足を踏み出す。『レ・シルフィード』は言わば群舞だから1人だとちょっと踊りにくい。けれど今はあたしが自由に踊りたいだけだから、少しの勝手はOKだろう。
イケメン青年が弾くきれいな音が、あたしの踊りに馴染んでいくような気がした。ふわふわと宙に浮くように跳ねて、悪戯っぽく細やかにトウで足を捌く。かと思えばゆったりと漂うように身体を揺らして上半身を傾げる。シルフィードのポーズは独特なのだ。
どうしてあたしがシルフィードのレッスンであんなにダメ出しされたのか、ちょっと分かるような気がしてきた。シルフィードは風、空気の精だ。妖精だから人間じゃない。
だから普通の踊りじゃダメというか、『地に足がついていない』感じを表現しなきゃいけない。リズムの取り方も独特で、気がついたら浮かんでいた、みたいな風に踊らないとダメみたいだ。
あとは周りとの息の合わせ方。1人ひとりが上手に踊るのはもちろんだけど、細かい手足の角度やターンの速度、並ぶ間隔とかもかなり重要なんだ。思えばあたしは自分がきれいに踊れるように心を砕くので精一杯で、呼吸まで周りと揃えようとはしていなかったかもしれない。
……やばい、なんかまた落ち込んできた。
色々と考えながら踊っているうちに、曲は終盤に差し掛かっていた。最後は12人でポーズを決めるから、1人だと少し間抜けだけど自分のポーズを取る。あの真っ白なロマンチック・チュチュを履いてるように想像して、ゆっくり膝をついて。左腕を上げながら顔も腕と一緒に動かして、上半身を前傾気味にする。伸ばしたピアノの音が消えると同時に、取ったポーズのまま静止する。うん、これで完璧。
たっぷり3秒は静止したあと、床に倒れこんで息を吐いた。肋骨が我慢していた分まで動き出す。今日はいつものレッスンにプラス居残りまであったからな。1曲集中して踊っただけですごく疲れた。
……でもなんか楽しい。疲れすらもここ最近は感じなかったいいものに思える。思えばあたしは、研究所に来てからずっと、意地を張っていたのかもしれない。負けたくない気持ちだけで踊ったって、いい踊りができるわけなかったんだ。
うん、とりあえず落ち込んでいた気持ちはどこかへ行った。明日のレッスンに出たくないとはもう思わない。たくさん怒られて注意されてムカついても、また頑張っていけそう。今までにないくらい前向きなあたしがいた。
「……今の、何て踊り」
ふいに声が聞こえて驚いた。そういえばこの人にピアノをお願いしたんだった。
「あ、ピアノ弾いてくれてありがとう。今のは『レ・シルフィード』って言って、風の妖精の踊り。『レ』だから大体10人くらいで踊るんだけどね」
「ってことは『ラ・シルフィード』もあるのか」
へええ、よく知ってるなあ。『レ』っていうのはフランス語の定冠詞の複数形。らしい。だから人数が多いものなんだ。『ラ』は女性名詞の定冠詞の単数形。『ラ・シルフィード』は1人のシルフィードが主人公のバレエ。
「そうだよ。『ラ・シルフィード』の方はちゃんとした幕物で、悲恋のお話」
「へえ」
そのあとあたしは1時間くらい、【娯楽室】の床に座り込んでイケメンピアノ青年と話した。顔をあんまり見なければイケメンってことは意識せずにすんで、色んな話をしてもらった。あたしがグランバットマンの曲として覚えていた曲は、ショパンの英雄のポロネーズとかいう曲らしい。ピアノも色々と弾いてもらって、よくプリエとかアダージョで使う曲がショパンの有名な夜想曲だということも教えてもらった。
あたしも国やバレエ団ごとに違う『白鳥の湖』のエンディングのこととか、バレエのヒーローはヘタレが多いとかの下らない小ネタを披露したり、リクエストされて(というかピアノは弾くから踊れと脅されて)イケメンピアノ青年も知っている有名どころの踊りを披露したりもした。
話は楽しかったし、最近の鬱々とした気分を吹き飛ばせたのですごく名残惜しかったが、携帯で時間を確認したらいつもなら家に帰っている時刻を優に6時間は過ぎていたので、帰ることにした。
「もう時間が遅いから帰るね。ピアノいっぱい弾いてくれてありがとう。話もたくさんできて良かった」
「……もう帰るのか。また来週も来なよ」
なんか誘われたけどイケメンの気まぐれということで無視しておこう。今日は楽しかったけど、頼んでピアノを弾いてもらったのと同じくらいはあたしも踊ったからイーブンなはず。
前のバレエ教室をやめるときにわかったけど、あたしは人付き合いが上手くない。せっかくここでいい出会いをしても、あたしは人への気遣いもバレエ以外の夢中になれることも知らない。友だちを作ろうなんてどだい無理な話だ。
あたしはレッスンがない日はこの辺りまで来ないし、(家は研究所から電車を乗り継いで1時間半くらいだ)イケメンピアノ青年のピアノのおかげで元気になったあたしには彼は必要ない。はず。彼もそう。
だから。
「ううん、もうたぶん来ない。今日来たのも偶然だし。本当にありがとうね」
そう言って、あたしは家に帰った。
◇ ◇ ◇
それから5ヶ月。
あの土曜日の翌日、普通の顔をしてレッスンに行ったあたしに研究所の子たちが話しかけてきてくれた。
前日にひどく注意された上に、居残りまでさせられたあたしを心配してくれたらしい。それをきっかけに、研究所の子たちと少し仲良くなれた。話すことがバレエのことばっかでも悪口を言われたりしないし、あたしのことを心配してたんだと言ってくれた。
それからは、以前よりも素直な気持ちになれたからか、レッスンで注意されたり怒られたりする回数が減った。シルフィードを教えてくれてた海外のダンサーさんにも、最後のレッスンのときには誉めてもらえるまでになれた。あたしはそのとき本当に嬉しくて、心から笑って「サンキュー」と答えた。
研究所の男の先生にも誉めてもらえた。
先生の話によると、あたしのピルエットの不調は、体型の変化によるものだったらしい。お尻や胸が膨らんできて、それまでのバランスの取り方では上手くいかなくなる時期があるんだとか。
その時期を、あたしは男の先生のスパルタと居残り練習で乗り越えることができたらしい。
それならそうと最初の居残りのときに言ってくれ。そう思ったけど、感謝はしておこうと思う。今ならこの先生は言葉が少し足りないだけで、生徒思いのいい先生なんだとわかったから。
そんな感じで、大体全てのことの流れが良くなったあたしは、今日、発表会の本番を迎えていた。
3部あるうちの1部で無事にシルフィードを踊り終わったあたしは、皆と衣装を着たままホールのロビーに来ていた。記念写真を撮っておこうという話になったんだ。
「それじゃ撮ろっか。タイマーは10秒だからね、いくよーう」
デジカメを手すりの付いた壁の上に置いて、呑気な声で合図したのは今あたしと一番仲の良い百花。あたしは覚えてなかったけど、研究所に来た初日にシニヨンの道具を貸してくれたのも百花だったらしい。仲良くなってからしばらくは、それを覚えてなかったことをねちねちと愚痴られた。一緒にトウシューズを買いに行くことで許してもらった。(あたしと「デートがしたかった」とのことだった)
パシャッ
フラッシュが光って、10秒の緊張がとける。みんなが止めていた動きを再開して、しゃべりはじめる。
「六花、2人で写真撮ろうよー」
間延びした声で言ってきた百花に返事をしようとした、そのとき。
「お前、六花っていうのか」
聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「え……」
振り返ると、あの土曜日のイケメンピアノ青年が立っていた。どうしてここにいるんだろう。ていうか顔が怖いよ、何があったんだろう。
「ああ、その節はどうも……」
「どうもじゃない」
穏便にすませようとしたのに、怒ってるみたいでスパッと切られた。なんでだ。
どうしようか焦ってたら、隣にいた百花が、「六花あとで話聞かせてよ!」と囁いてみんなの方へ行ってしまった。ていうか嫌なものが見えたよ。みんなニヤニヤしてこっちを見てる。さっきまでは可憐な風の妖精だったはずなのに、何でそんな下品な顔をしてるんですか。このままだと総じて恋バナに飢えてるみんなの餌食になる。
「……話をするならちょっと移動しませんか」
イケメンピアノ青年くんも周囲の好奇心たっぷりの視線に気づいたみたいで、あたしの苦し紛れの提案を了承してくれた。良かった、人並みに羞恥心のある人で。
ロビーのはしっこのベンチに腰かけると、さっそくイケメンくん(もうめんどいから省略)が口を開いた。
「なんであのあとの土曜日、来なかったんだ」
いきなりか。いやまあそう来るかなとは思ったけれども。
「なんで行かなきゃいけないの?」
そう返したらイケメンくんは絶句した。
「あたし帰るときに、もう行かないって言ったよ。あのときはすごく落ち込んでたから、あなたのピアノには助けられたけど」
「……俺のピアノをセラピー扱いでポイ捨てか」
唸るように言われた。ポイ捨てって。そうかもしれないけどさ。
「悪いけど、あたしはそういうやつだと思って。人と関わるのは苦手だから、あなたとはあの1回きりの良い思い出で終わらせたかった」
そう言った途端に、イケメンくん側の手首を掴まれた。ちょっと、痛いんだけど!
「俺は終わらせない。見つけたからにはそんな真似はさせないよ、六花」
強い口調で言い切られた。さりげなく名前も呼び捨てだ。なんだか不穏な空気を感じるので、あたしは話題を変えてみた。
「どうしてあたしがこの発表会に出るってわかったの?」
「出るのがわかってた訳じゃない。六花と会った次の週の土曜日、お前はあの場所に来なかった。だからあの辺にバレエ教室がないか調べたんだ。そしたらこの研究所しかなかったから、その次の週は研究所の前でお前が出てくるのを待ってたけど、いつまで経ってもお前は出てこなかった。そのあとは俺も時間が取れなくて、今日は最後の手段だと思って発表会に来たんだ。事前に調べて、演目に『レ・シルフィード』があるのは知ってたから」
話題を変えるつもりがなんだかヘビーな答えが返ってきてしまった。ああどうしよう。あたしは本当に、対人スキルは低いんだってば。
「……どうしてまた会いたいと思ったの」
やっと出した声はみっともなく震えていて、内容も何だか女々しくてキモいものだった。
「お前の踊りをまた見たくて。俺が弾くピアノで、また踊ってほしかった」
あたしの手を優しく握りながらイケメンくんが言う。恥ずかしくて居たたまれなくてどうしようもない感じなのに、手を離してほしいと思わない自分がいることに戸惑う。
「……あたし、踊ることしかできないよ」
「今はとりあえずそれでもいい。俺の前でまた踊ってくれるなら」
返ってきたのはまたもや不穏な返事だった。でも、もういいや。
「……それじゃあ、これからは友だちとしてよろしく」
持っていたトウシューズ柄のトートバッグ(これは百花とお揃い)から携帯を取り出して言うと、イケメンくんはなぜか一時停止してから「そう来たか……」と呟いた。何がどう来たんだろう。
イケメンくんのスマホとあたしの携帯で連絡先を交換する。イケメンくんの名前は神野大河というらしい。名前までイケメンな感じで結構なことですね。
「じゃあこれ。六花も来て」
満足げにスマホを確認した神野くんがそう言って差し出したのは、1枚のチラシとチケット。そこに書いてあったのはーー
『ショパンコンクール入賞の新星! 19歳の華麗なるピアニスト・神野大河』
「……なにこれ」
「俺のコンサートのチラシ」
「……は?え?ピアニストだったの?」
「だったら何だ?」
「はああああああ!?」
ああ神さま、あたしの新しい友だちはとんでもないやつだったみたいです。