2 目覚めの朝
目が覚めたとき、すべてが見知らぬ世界だった。
さらなる混乱を避けるために、隣の男性はひとまず置いておいて、ゆっくりと首を正面に戻す。丸く見開いたままの目を一度瞬かせ、深呼吸。これは夢で、まだ寝ぼけていて、目を開けたらいつもの薄茶の狭い天井が広がるはずだ……
淡い期待を込めて恐る恐る目を開けたが、やはり見覚えのない景色がそこにあった。
(昨日はお酒も飲んでいない、いつも通り帰宅した……はず。……じゃあ、ここはどこ?)
落ち着くためにもう一度深呼吸し、見渡せる限りそこを眺めやった。
部屋はかなり広い。住んでいるアパートは8畳の1DKなのだが、2部屋ぐらいは余裕で収まってしまうほどだ。私が寝ているベッドは……布団派なのでよく分からないが恐らくはキングサイズで、シーツも真っ白で清潔だ。微かに石鹸の香りすら漂ってきそうだ。
右手奥には大きな本棚が見える。棚にぎっしりと並べられた本たちは、娯楽作品など一つもなさそうな厳粛な雰囲気を醸し出している。その隣は趣を感じさせる重厚なクローゼットがある。シンプルな外見だが洗練されていて、安っぽい印象など全く与えない。遠目でもそれらが高価で品の良いものだと分かる。
ふと、よもやの事態を想像し、毛布をそっとめくって自分の身体を確認したが、お気に入りのパステルピンクの小花柄のパジャマがしっかり私を包んでいた。第一ボタンまで閉じられていて乱れもないし、身体に違和も感じない。寝るときにブラは外しているので上半身は心もとないが、パンツははいている。大丈夫、寝ている間に奪われる……なんてことはなかったようだ。
部屋の左側を見渡そうとして、未だ微動だにしない男の人の横顔が目に飛び込んできた。
きれいな人だった。
見目麗しい美少年……という意味ではなく、むしろ精悍で、寝顔なのに鋭さや無骨さを感じさせる。瞳は閉じられたままだが、鼻はすらりと高く、意志が強そうに引き締まった唇も美しい。野性的な美形……といったところだろうか。短く切り整えられた赤錆色の髪と、目鼻の彫りの深さから察するに、恐らく外国人だろう。地理は苦手なので大雑把なたとえだが、いわゆるラテン系に近いかもしれない。
私が今まで見てきた男性の中ではとびきりのイケメンで、抜群にタイプだった。……顔で判断するのも失礼な話だが。
当のイケメンは、私がまじまじと見つめているというのに穏やかな寝息を立てたままだった。あまりに無防備なので、もしかしたら他人など気にしていられないほど疲れが溜まっているのかもしれない。彼を起こしてしまわないで良かった。驚いて叫び声をあげなかった自分を褒めてあげたい。
さて、これからどうしようか……
ここがどこかも分からないし、何故見知らぬ部屋で、しかもイケメンと隣り合わせて寝ていたのか、皆目見当がつかない。
(とりあえず申し訳ないけど彼を起こして、事情を説明してみるか? ……英語通じるかなあ……)
中学レベルで止まっている英単語を羅列しながら隣の肩に手を伸ばしかけた。
刹那、手首は強く掴まれ、それが痛いと思うより早く頭の上に押さえつけられた。
何が起こったのか、何も見えなかった。
瞬きの間に、自由だったはずの逆の手も頭上に押さえつけられ、合わされた両手首を細い紐で縛りつけられた。その紐が、どこからどう取り出されたのかも分からない。ただ、手首に食い込むような感触があって、初めて縛られたのだと気付いたのだ。
呆けた視界に端正な顔が飛び込んできた。その目に睡魔はひとかけらもない。ただ怒りと侮蔑の色が浮かぶだけだ。一瞬だけそれらに隠れていた驚愕を読み取れたのは、普段から生徒相手に感情を読み取る癖をつけていたからかもしれない。
下腹部の辺りが重苦しいのは、彼が乗り上げているからだ。俗に言う、マウントポジションという格好だ。重苦しいのも当然で、彼は非常に体格が良かった。薄いコットンシャツを着用しているが、その上からでも隆起した胸板が見える。意識したら途端にものすごく重くなった。足なんて動かせる気配すらない。
そこまでの情報が出そろって初めて、隣で穏やかに眠っていたはずの彼が、音もなく私に乗りかかってきたのだと理解できた。
いつ? どうやって? どう動いたの? ……何が起きたの?
脳内は同じ言葉が何度も巡るだけだ。声が出ないのは、恐怖からなのか混乱からなのかもはっきりしない。
呆然として指先すら動かせないでいる私など歯牙にもかけず、彼は流れるような所作で腰元からナイフを取り出し、何の躊躇もなく私の胸を引き裂いた。
「―――っ!」
痛い! と身構えた私に、痛みは一向に訪れなかった。反射的にぎゅっと閉じた瞼を恐る恐る開くと、無残に切り裂かれたのはパステルピンクのパジャマだけだった。肌と胸が顕わになっていたが、恥ずかしいなんて感じていられなかった。空気はそれどころではないほどに緊迫していたし、寸分のズレもない正確な彼のナイフさばきに、えもいわれぬ恐怖を感じていたからだ。彼は馬乗りのまま、厳しい観察の視線を私の肌に投げつけている。
このまま犯されるのだろうか。
それともその価値すらないと、ナイフを心臓に突き立てられるのだろうか。
声も、涙も出なかった。事態が唐突すぎて、完全にキャパシティを超えている。
彼の視線が、胸元から顔に移る。冷酷に光るダークエメラルドの双眸と目が合い、背筋が凍りついた。ひっと息を呑んだ気がするが、そもそも息をしていたのかどうかも曖昧だった。氷の視線を油断なく発しながら、彼は静かに口を開いた。
「どこから侵入した?」
「…………は?」
思わず『それを知りたいのは私です』と言い返しそうになった。
日本語が話せるんだ、とか、落ち着いていて脳髄にまで響く深い声だ、とか、頭の隅で感嘆している冷静な自分はいたが、すぐに霧散した。
「とぼけるか、間者よ。雇い主は誰だ? 返答によっては楽に殺してやる」
ああ、そうなのか。
彼が私の両手を縛って、馬乗りになって、パジャマを引き裂いた―――恐らく武器の有無を確認した―――のは、私を間者と疑っているからだ。
理由が分かると、人間は意外に落ち着く。一度小さく唾を飲み込み、喉を潤した。大丈夫、話せる。
「ち、違います……間者なんかじゃありませ」
「右と左と、どちらが良い?」
食い気味に遮られた。こちらの言葉など関係ないようだ。案の定、私の返答を待たずに続けた。
「右手と左手と、どちらを切り落としてほしいか、と聞いている」
言いながら、ベッドの脇に置いてあったと思われる剣を手に取り、鞘から引き抜く。漫画や映画でしか見たことのない中世ヨーロッパの剣が、陽光に反射して煌めいた。
いい加減、もう泣き叫んでもいいよね?
みっともなく取り乱してもいいよね?
あ、あ、と声にならないうめき声を上げるだけの私に、彼は一瞥をくれると、するりと剣を―――
「ガル、俺今日の乗馬パスしたいんだけど」
妙に飄々とした声が、無遠慮にドアを開く音と共に、突如部屋に降り注いだ。