17 不穏
※残酷な表現、流血シーンがあります。苦手な方はご注意ください。
こちらに来て、数え違いがなければ12日目の朝を迎えた。
今までの間、日本の生活のことが気にならなかったわけではない。
職場はどうなっただろうか。とうに1週間以上無断欠勤をしている。クビは当然覚悟しているが、前触れもなく放置された生徒やアルバイト講師が不憫でならない。室長が有事の時はオーナーがヘルプに入るが、それも長く続けてもいられないだろう。すぐに新たな室長が雇われていることを祈るばかりだ。
家族に関しては……実はあまり心配していない。冷たい娘だと思われるかもしれないが、今年で一人暮らし歴も10年になり、実家に帰るのはゴールデンウィークと盆・暮れ程度だ。2年前に妹が結婚し、しかも旦那さんが婿に入ってくれた。半年前には玉のように可愛い子供も産まれ、もはや実家に私の居場所はなかった。津田家は妹夫婦に任せればいい。
友人たちと会えないのは寂しいが、もっと寂しいことに、こちらに来て自分には、何を差し置いても会いたいと思える親友がいないことに気がついた。たまにお茶しながら、仕事の愚痴を言い合うか、旦那様や子育ての愚痴に付き合う程度だ。
そんな状態なので、正直なところあちらに戻されて三十路過ぎのニートになるよりは、こちらで黒の竜の従者様を演じている方が実は居心地が良かった。サラフィナに無事王位を継がせ、見事お役御免となった暁には、アークにでも頼み込んでどこかに働き口を斡旋してもらうつもりでいた。黒の竜の従者が人目に付くのがマズイのであれば、アークの城ででも住み込みメイドで働かせてもらおうか、とも考えていた。
あちらの世界に思いを馳せたせいか、どうにも寝覚めが悪くスッキリしないまま朝食を終えると、待っていましたとばかりにクローバーが部屋に訪れた。突然の訪問者がご嫡男だったとは思わず、侍女が取り乱しながらも壁際に控えたが、問題の少年は青い顔の侍女を気にした風もなく私に抱きついてきた。
「マナミ、今日こそおれと町に行こう!」
熱烈なデートのお誘いだが、私が勝手に返事をするわけにもいかない。クローバーには跡取りとして学ぶべきことがありそうだし、私の移動にはガルヴェインが付くはずだ。彼の許可を得なければ。
「今日はお勉強はないの?」
「あ……あるけど……午後から暇なんだよ! それに母上も許してくれたんだ!」
「そうなの。じゃあガルヴェインに聞いて、彼がいいって言ったら一緒に3人で行きましょうか」
「どうしてあいつの許可がいるの? ふたりで行こうよ」
ガルヴェインの名を出した途端、クローバーは分かりやすい嫌悪を表した。そういえばこの子は彼を侮辱した張本人だった。仲良くできる方が不自然か。
「クローバー……まだガルヴェインを反逆者だなんて思ってるの?」
膝に乗って甘えてくるクローバーを無理に前に立たせ、目線を合わせてまっすぐに見据える。うっと詰まるが、申し訳なさより対抗心丸出しの男の顔があった。
「ち、違うよ! だ、だってあいつ……マナミのこと狙ってるもん……」
あ、そっちでライバル視してるのか。幼いながらも、真剣に私に好意を寄せてくれているらしい。嬉しいが、犯罪の香りしかしないぞ。しかしやはり子供だ。勘違いも甚だしい。
「そんなことないよ。ガルヴェインは私の護衛だから傍にいるのが仕事なの。それに、もしもの時に誰も助けてくれないと、私もクローバーも危ないでしょう?」
「じゃあ、ジュスがついていけばいい?」
ジュスは確かにクローバーの従者だ。かの無双様はジュスを『相当の手練れ』と称賛したし、安心は出来そうだ。
「ジュスはいいって言ったの?」
「ジュスはおれの言うことなら何でも聞くよ!」
……オリエルさん、ちょっと子育て間違っていませんか? それとも帝王学の一環なのだろうか。
「駄目よ。きちんとジュスに頼んで、了解をもらってからにしようね」
「分かった」
言えば納得する素直なところはクローバーの長所だろう。彼が部屋を後にした隙に、私も慌ててガルヴェインを訪れた。
女性が男の部屋を訪れるなんて勘違いされるぞ、と朝っぱらからお説教を食らったが、それどころではない。口早に事の事態を説明した。
「そもそも勘違いされようがないでしょ、朝だし」
相手が私なんだし、という自虐的なセリフは胸の中だけで呟いた。
「……まあいい。ジュス殿が同行するなら問題ないとは思うが、私も距離を取って尾行しておこう」
「ご面倒をおかけします……」
買い物一つも勝手に出来ない、というのは思いのほか面倒なものだ。私が面倒なのではなく、他の人にまで迷惑をかけてしまうことが問題だった。
「気にするな。仕事だ」
事実だが、改めて言われるとカチンと来る。
そうですとも。ガルヴェインが私といてくれるのは仕事であって、好意でも親身でもない。もっと言えば、会話ですら仕事の一環かもしれない。期待なんかしない方がいい。後で傷つくのは自分だ。
「では、よろしくお願い致します」
外面の笑顔を張り付けて、精一杯丁寧なお辞儀をしてみせた。こうなったら出来る限り徹底的に他人行儀を心掛けよう。
オリエルの了承をもらっているとは言っていたが、念のため侍女に伝言を頼んだ。さしたる問題もなさそうで、侍女は二つ返事で見送ってくれた。町の人の様子もクローバーと親しげだったし、よくあることなのかもしれない。
その侍女にそれとなく聞いたのだが、オリエル式教育の一環として敢えて市井に出しているらしい。お貴族様というと、商人を城へ訪問させて注文するのが普通なのだが、世間を知るためにクローバーには自分で行かせる、ということだ。
午後を待ち、魔法使いが着るような黄土色のローブに着替えた。フードがついているので、自然と髪が隠せる仕様になっているのだ。
城門で2人と落ち合い、町へと繰り出した。背後にガルヴェインがついてきているらしいが、もちろん私には気配なんて察知できない。さりげなくジュスに目線を送ったが、整い過ぎた顔は薄い笑みを浮かべるだけだった。
クローバーと歩くときは手を繋ぐのが当たり前になってきた。繋いだ手を前後にゆらゆらと振りながら、実に楽しそうに鼻歌なんて口ずさんでいた。
「今日はどこに行くの?」
「ちょっと遠いんだけど、町外れに武器屋があるんだ」
「武器屋?」
幼いクローバーにとは結びつかない意外な場所につい聞き返してしまった。
「子供の練習用の剣があるんだ。町の方の武器屋だと取り扱ってないって言うから」
「へー、剣の練習なんてするの?」
「もちろん! おれ、父上みたいな強い軍人になるんだ!」
そういえばお父上は近衛軍団長だったか。オリエルも女性ながら剣を扱えるし、自然と武道に興味を持つのだろう。
といいつつ、私も武器屋は楽しみだった。もちろん使うことなんて出来ないが、現代の日本ではまずお目にかかれない剣や鎧を見るだけでも面白そうだ。
賑やかなマルシェを抜け、脇道に入る。さすがに脇道には人通りは少なく、帰る頃の夕方には少々怖さも感じさせるであろう薄暗さだ。こちらには電灯なんてものは当然ないし、大通りならかがり火が見受けられるが、小さな小道までは設置されていない。あまり武器屋で長居せず、明るいうちに城へ戻りたいものだ。
もう少しだよ、とクローバーが駆け出しそうになったとき、それまで無言で仕えていたジュスが一歩前に出た。
「……クローバー様、鼠がおりますが」
「何だよ……こんな時に……適当に退治して」
「え? 鼠?」
野ネズミでもいるのだろうか? 辺りを見回したら、物陰から武装した男たちが取り囲んできた。あまりに突然で、非現実的で、ポカンと口を開けてしまった。
「よう、色男。死にたくなかったら有り金置いてきな。お情けでラクに死なせてやるよ!」
「いいかてめえら、女とガキは殺すなよ!」
「お頭、今度は俺が先にヤらせてくださいよ? こないだの女なんて、お頭がヤり過ぎてガバガバだったんでさあ」
ぎゃはは、と下卑た笑い声が耳を汚す。反吐が出る、とはこういう時に使うのか、と妙に冷静に考えていた。テンプレート通りのゴロツキだ。ナイフをちらつかせ数で脅してくる。ざっと見た限り10人は下らなかった。
緊迫した事態なのに落ち着いていたのは、クローバーを守らなくては、という意識があったからだと思う。幼い少年がこんな場に遭遇して、さぞ怖がっているだろうと思ってクローバーを見下ろしたが、私以上に冷静な顔があった。至極面倒くさそうに横のジュスを見やる。
「うるさいなあ……ジュス、早くやっちゃってよ」
「御意」
恭しく一礼すると、ジュスは徐に腰のナイフを手に取った。
「てめえ、やんのかコラァ!」
凄んだゴロツキのひとりは、瞬きののちに喉元から大量の血を噴出させられていた。
ぎゃあああ、と空気をつんざく悲鳴は凄んだ男のものではない。彼は地に伏すより先に絶命しており、糸が切れたように力なく崩れ落ちた。
私は目を疑ったが、ゴロツキといえど場馴れはしているのだろう。異様な状況ながら男たちは咄嗟に身構え、慌てふためきつつも色男を探すために周囲を見回した。
「ちくしょう、どこに消えやがった!」
怒りからか恐怖からか、震える声を発した男は直後に喉を押さえて地に転がる。男が立っていたはずの場所にジュスがいて、息をつく間もなく隣の男の胸元にナイフを投げつけた。
ひとり、またひとりと、いとも簡単に大地に転がっては大量の血を流していく。数える程度に減ってしまったゴロツキたちは、皆歯の根が合っていなかった。そのうちのひとりが武器を捨て踵を返したが、背を向けた直後ジュスが羽交い絞めにして喉を掻き切ってしまった。
ジュスのあまりの冷酷さに目を覆いたくなるが、血の海よりも恐ろしかったのは、この惨状を前にして、眉ひとつ動かさないクローバーの様子だった。恐怖ですくんでいるのではない。汚物を見るかのような冷めきった眼で斬り捨てられていく男たちを眺めている。
我を忘れたゴロツキの1人が、力のない私たちをターゲットに移し変え、やけっぱちの怒号と共に襲いかかろうとしたが、ナイフを私たちに向けた瞬間地に倒れ込んだ。その背にはジュスの放ったナイフが深々と突き刺さっている。じわりと大地が赤に染まっていく。
目の前にもたらされる『死』に気が狂いそうだった。この人たちは何故、人を殺して平気な顔をしているのか。躊躇も遠慮もなく、人の生を終わらせられるのか。ジュスだけではなく、10歳そこらのクローバーですら!
知らず足が震えてその場にへたり込む私を、こともあろうに笑顔でクローバーが支えてきた。
「大丈夫か、マナミ? すぐ終わるからもうちょっと待ってて」
―――笑顔で言える言葉じゃないでしょう!
先ほど倒れ込んだゴロツキはまだ息があるようで、苦しそうに手を伸ばしてきた。その手は赤に染まっている。思わず一歩退いてしまった。ズルズルと最期の力を振り絞り数センチ這ってきたところで、クローバーは面倒くさそうに辺りに落ちていたナイフを拾い、振り上げた。切っ先は瀕死の男に向いている!
「だめえっ!」
咄嗟にクローバーの振り上げていた手にしがみついた。腰を抜かした状態でよく間に合ったものだった。私の必死の制止に、クローバーはきょとんとしている。
「どうして止めるの? 誰かに雇われたわけでもない盗賊なんて、生かしていても意味ないじゃないか」
「……なんてこと言うの……」
もはやクローバーの顔すら見ることが出来なかった。澄み切ったアメジストの瞳が美しすぎて怖い。誰よりも冷酷なのは、間違いなくこの少年だ。
がしり、と膝辺りに感触が広がった。ゴロツキが藁にもすがる思いで、私の服を掴んできたのだ。途端に黄土色のローブが赤黒い血に染まっていく。
「……ッ!」
悲鳴すら上げられなかった。クローバーが舌打ちして男の手元にナイフを振り下ろそうとした矢先、脇辺りに風圧を感じた。風は男の喉に突き刺さり、哀れな男の命の灯火を断ち切った。ゴロツキの物とも、ジュスの物とも違うナイフが男の命を奪っていた。
私の背後から、どれほどの距離からなのか、無慈悲なほどに正確に、『無双』も人を殺めることができるのだ……
「終わりました」
忠実な人形は、息が乱れた様子もなく相変わらずの無表情で主人の前に跪いた。その衣服に赤いシミは見当たらない。彼はあの斬撃の中、返り血ひとつ浴びずに任務を遂行したのだ。
「ちょっと手間取ったね」
「数が多かったもので。申し訳ございません」
「マナミが震えているんだ。早く帰った方がいい」
幼い子供にでも話しかけるような優しい声のクローバーに言われて、やっと全身ががくがくと震えていることに気がついた。少年の小さな手がふわりと差し伸べられるが、それを取ることなど出来なかった。ひとりで立ち上がろうとして震える脚ではうまくいくはずもなく、ふらついたところをジュスに支えられた。人の死の匂いが染みついたその胸に。
「―――ぃやっ……」
「怯えておいでなのは分かりますが、ご辛抱ください。せめてクローバー様の前では」
私にだけ届くほどの微かな囁きで、私は仕方なく頷いた。全身に力が入らなくて、否応なしにジュスに身を預けることになる。細身と思っていたその手は力強く私の肩を抱き、じんわりとぬくもりを伝えてくる。
こんな温かい手をした人が、どうしてそれを容赦なく奪えるのだろう……
いつの間にか、私の意識は闇に呑み込まれた。