11 小さな町にて
出発までの3日間、何をしていたかというと、特に何もしていなかった。
あの日以来アークもガルヴェインもサラフィナも忙しく、ろくに話もできなかった。一人で出歩くな、と釘を刺されていたので、どこに行くにも何をするにも侍女がいる。城下町を見て回りたい欲求はあったが、侍女の仕事を増やすのも忍びないし、行ったところで何かを買えるお金も持っていないので、城下町散策は却下した。出来ることと言えば、庭の散策かカドナ夫人のお喋りに付き合うくらいである。
カドナ夫人……アークの実母であるイザーベル・カドナ夫人は、色々な意味で豪快な人だった。20歳の時にアークを産んだそうだから現在47歳。多少の皺は目立つものの、とてもアラフィフとは思えない綺麗な肌で、シミひとつない。化粧品は何を使っているんだと聞きたくなった。健康的な美人で、顔つきはやはりアークに似ている。体中に生気がみなぎっており、午前中はサラフィナのマナー指導、合間に夫人同士のお茶会を愉しみ、午後は乗馬、城下町への視察、へまをした文官へのきついお叱り、日に3冊は進めるという読書……をほぼ完璧にこなしている。ご主人、つまりアークの父親は既に他界しているが、息子の成長を陰で見守りつつ、裏で領主の仕事を手伝っている、公私ともに順調なスーパーウーマンだ。
「あのバカ息子とバカ甥が、従者様にご迷惑をおかけではないですか?」
最初にご挨拶に伺った折、開口一番そう言われた。
「いいえ、私の方こそご迷惑をおかけしております」
「まあ、人が嫌がることしかしないひねくれ者と、気が利かない朴念仁を前にご謙遜なさるなんて、従者様はお心が広うございますわね」
ともすれば嫌味とも取れかねないその言い回しはなるほどアークによく似ており、疑う余地なくアンタら母子だよ、と喉まで出かかった感想を呑み込んだのもいい思い出だ。
そんな調子でおば様の長い世間話にお付き合いしながら愛想笑いを浮かべたり、意味もなく天蓋ベッドで惰眠を貪ったりしていた日々は過ぎ、いざ出発の朝を迎えた。
結局3日間は侍女2人に身の回りの世話を任せきりだった。さすがに入浴は初日以降一人でやらせてもらったが、他はすべてお願いした。特に髪の結い上げはありがたかった。中途半端な長さで、自分一人ではなかなかセット出来なかったからだ。今日は髪飾りをつけましょう、今日は編み込みましょう、と、彼女らも随分楽しんでいたようなのが救いだ。
出発のその日も身支度を手伝ってもらった。動きやすく丈夫なコットンシャツにパンツ、防寒も兼ねているというマントといういでたちだ。正直、今まで着せてもらっていた品の良いドレスが名残惜しい。ドレスなんて滅多に着られるものではないし、それらは皆繊細な刺繍や煌びやかな装飾品が施され、3日間でもお姫様気分を味わえたのだ。……もう「お姫様」という歳でもないか。
「僅かな時ですが、お仕え出来て光栄でした、従者様」
年上の侍女が、今にも泣きそうな顔で見送る。若い侍女に至ってはハンカチで顔を覆い、こぼれる涙を必死に拭っていた。
「大袈裟ですよ、お二人とも。こちらこそご丁寧なお仕事に感謝しております。ありがとうございました」
深々と頭を下げたら、侍女2人は慌てて平伏し始めたので、簡単な挨拶を送りその場を後にした。優しく朗らかな二人だった。ぜひまたお会いしたい。
門の前まで行くと、既にガルヴェインが待っていた。彼も私と同じようなコットンシャツにパンツにマントなのだが、佇まいは精悍で堂々としている。背景が西洋風なのも相まって、モデルの撮影でも見学しているような気分だ。均整のとれた体格だと、本当に何を着ても似合うのだ。
ピュオル領までは徒歩で3日ほどかかる。馬車を期待したが、ただでさえ黒の竜の従者様ご一行は目立つのに、馬車なんて盗賊に『襲ってください』と言っているようなもの、なのだそうだ。代わりに馬が一頭お供に追加された。栗毛の優しい目をしたその子は、フローブラッドというガルヴェインの愛馬だ。フローブラッドを撫でながら荷を乗せていると、サラフィナが駆け寄ってきた。
「マナミ様!」
数日会えなかっただけだというのに、長く別れていた親しい友のように抱き合う。
「マナミ様、ピュオルまでは遠いです。どうぞお気をつけてください」
「ありがとう。サラフィナもあんまり無理しちゃ駄目よ。休むのも大事なお仕事なんだからね」
「はい、マナミ様! では今日のダンスのレッスンはお休みにしてしまおうかしら」
もちろん冗談だろう、ふふふと小さく笑った。特にやつれた様子も見受けられないし、良い指導を受けているのだろう。笑顔が明るかった。抱き合いながら別れを惜しんでいると、アークがげんなりした様子でやってきた。
「何やってんだ。殿下、母上がお待ちですよ」
「そうでした! ではマナミ様、本当にお気をつけて。ガル兄様、よろしくお願いします」
勢いよくお辞儀をし、駆け足で城へと戻っていく。途中一度振り返り手を振ってくれた。サラフィナが城に入ったのを確認して、アークが口を開いた。
「ピュオル公と面会が叶ったら戻ってきてくれ。俺は俺で動いておく」
「本当に会ってくれると思う?」
「思っているから行かせるんだろう。ただし自分勝手な行動はするなよ。ガル、頼む」
「分かっている」
アークに見送られながら、私たちはピュオルへと出立した。
街道を往く旅なので、当然幾人かとすれ違った。私の髪を見て驚愕でひれ伏す人もいたし、訝しげな目を向けるだけの人もいた。私に挨拶を、と近寄ってきた人には、営業用の愛想笑いと挨拶を返す。馴れ馴れしく話しかけられることもあったが、そういう人は大概ガルヴェインのひと睨みですごすごと立ち去った。
道中特に何事もなく、のんびりと遠足を楽しむようなものだった。舗装されていない土の道だが、当然ながら獣道よりずっと歩きやすく、スピードも私に合わせゆっくりめだったし、重い荷物はフローブラッドが持ってくれている。ガルヴェインは饒舌ではないが話しかければ返事をくれるし、道を歩きながら地名やら近くの村の名前やらを教えてくれた。思っていた以上に平穏だった。
日も傾きかけた頃、最初の宿泊地であるコルラという小さな町に到着した。どこから伝わったのか、黒の竜の従者が訪問することを町民が既に知っていて、温かい歓迎を受けた。私は野宿覚悟でいたのだが、町長がぜひに、と自宅に招待してくれ、お言葉に甘えることになった。
温かで豪勢な食事をご馳走になり、お城のものとまではいかないものの、ふかふかで清潔なベッドで眠りに就けた。順風満帆な旅に、私は幸福を感じていたのだ。―――朝までは。
いざ出発しようとする私を、町長とその奥方が引き止めた。奥方の手には大きな箱がある。
「黒の竜の従者様、狭いあばら家で恐縮ですが、昨夜はお休みになれましたでしょうか?」
町長はいやにへりくだってにこやかに手もみなどしている。妙な雰囲気だ。
「ええ、もちろんです。ご厚意、ありがとうございました」
ガルヴェインはフローブラッドを呼びに馬小屋へ行ってしまっている。早くこの場を立ち去りたかった。
「それはようございました。こちらはささやかですが献上品です。どうぞお納めください」
奥方が持っていた箱を差し出してきた。
「いいえ、受け取れません。お気持ちだけで充分です」
実際貰っても重くなるだけだし、邪魔なのだ。何度かあげるいらないのやり取りを繰り返していたら、奥方が耐え切れずに声を出した。
「では黒の竜の従者様、何とぞ我が町に幸福をお与えくださいませ」
瞬時に、彼らの魂胆を悟った。
「ここらの土地は元来痩せていまして、今年は雨も少のうございますでしょう。町民は皆飢えに苦しんでおりますのよ。ああ、そうだ。町共有の井戸が枯れてしまいましてねえ、新しい水源を1つ2つ見つけてくださいよ。黒の竜の従者様、どうぞご慈悲をお与えくださいませ」
奥方は、私に報告するのがさも当然の権利であるかのように、得意気に惨状を語ってくれた。町長は妻を咎めるどころか、一緒になって気味の悪い愛想笑いを浮かべている。
眩暈がした。言葉も返せなかった。
「……まさか、一宿一飯の恩を忘れ、何もせずお発ちになる、なんてことは、ありませんよねえ?」
奥方の目に狂気が生まれる。思わず一歩下がったが、背に衝撃があった。いつの間にか、壁際に追いやられていたのだ。
彼らが怖い。顔は真剣そのもので、下手に断れば何をするか分からない雰囲気だ。怖い―――怖い!
「そこまでにしておいた方が身のためだ」
町長と奥方の背後から、凍えるような低い声が響いた。
「ガルヴェイン!」
不意を突かれ一瞬呆然とした町長らの間を押しのけ、ガルヴェインに駆け寄った。勢いで胸に飛び込むような形になってしまったが、恥ずかしさよりも来てくれた安心感の方が強かった。
「他者にすがり己は何もしない怠惰な愚か者に、畏れ多くも黒の竜の従者様がご慈悲をお与えになると思っているのか?」
ガルヴェインの静かな覇気に、びりびりと空気が揺れた。町長は気圧されその場に座り込んだが、奥方は気丈にも食って掛かってきた。
「あ、あんたみたいなお偉い貴族様に何が分かるんだい! こっちは毎日必死に生きてるんだよ! 少しくらい恩恵にあずかったって、バチは当たりゃしないよ!」
「恩恵にあずかるために、お供の護衛は殺してもいい、というわけか」
ひっ、と奥方が息を飲む。何のことか分からずガルヴェインを見ると、ちらりと外へと視線を動かした。合わせて外へと振り向くと、フローブラッドが呑気に草を食んでいる横で、数人の男性がうめき声を上げながら倒れていた。
「手加減はしたが、骨や顎は砕けたかもしれん。天罰と思って諦めろ」
奥方も力なく座り込んだのを見て取ると、ガルヴェインは私の肩を抱いて外へと促した。
逃げるように町を後にしても、しばらく何も言えなかった。
黒の竜の従者に多大な期待を持つ、という言葉の意味を理解したつもりになっていた。何も解っていなかった。彼らを責められなかった。藁にもすがる思いで、恥も外聞も投げ捨てて私に頼み込んだのだ。『黒の竜の従者』に。
「……バシュフミナは貧しい」
私を気遣ってか、ずっと無言だったガルヴェインが独り言のように呟いた。
「土地が痩せているのは事実だ。気候も寒く、雨も少ない。これといった特産品もない。腹が減っていると、心まで荒むものだ」
その気持ちは痛いほどに分かる。平和な日本での給料日前の危機感程度と比べるのはおこがましいが、精神をすり減らす苛立ちは経験済みだ。
「せめて、痩せた土地でも育つ作物でも品種改良できればいいんだけどね……」
ふと、飢饉に瀕し、さつまいもを栽培させた歴史を思い出した。似たような作物はないか聞こうと顔を上げると、ガルヴェインはきょとんとしていた。
「ヒンシュ……何?」
「ああ、ひんしゅ、かいりょう。例えば寒さに強い作物と、水が少なくて育つ作物とを掛け合わせて、両方の利点を持った新たな作物を作ること。上手くいくとは限らないし、長い時間がかかるけど、やらないよりはましでしょう?」
難しい言葉をかみ砕いて説明していると、塾を思い出す。小学生の低学年の子は、ちょっとした会話に出てくる単語の意味も聞いてきたものだ。懐かしさで頬が緩んだが、ガルヴェインは鱗が百枚くらい落ちた目をしていた。
「ど、どうしたの?」
「……そんなことが可能なのか?」
「こちらの世界で出来るかどうかは分かりませんよ。でも、あちらでは行われていました」
ガルヴェインは鼻息荒く、そうか、と呟いた。彼が興奮するなんて珍しい。
「戻ったら、ぜひアークに言ってみてくれ。それがバシュフミナを救うかもしれない」
「せ、成功するかどうか分かりませんよ? 時間もかかるし……私だって詳しくは知らないですよ?」
「やらないよりはまし、だろう」
いやに熱く私を見つめてきた。て、照れる。そういえば先ほど、肩を抱かれなかったか? 思い出すなり身体中に熱が走り回った。
「今後、何か思い当たることがあったらどんどん口にしてくれ。あちらの世界で行われている何気ない出来事が、こちらにとっては重大な意味を持つのかもしれない」
深緑の瞳には、何か確信めいたものがあった。沈んでいた私の気持ちの真ん中に、ガルヴェインの放つ光がほんわりと柔らかに灯される。町での仕打ちなんて、もはや頭の隅に追いやられていた。それよりも、私が知る地球の知識を残さず伝えてあげたくなった。
「君の言葉こそが、黒の竜の従者の『救い』なのかもしれないな」
優しく微笑むガルヴェインに、私の方こそ救われた。
毎度ご覧くださりありがとうございます。
さつまいものくだりはご存じ江戸時代のあれです。
歴史上の人物のお名前を出して良かったのか分からなかったのでぼかしています。