第2幕「キュートな契約」
エミリーとイーサンは、バーから盗んだクッキーを頬張りながら森へと歩みを進め、その途中で道に迷っていた。エミリーは弟を軽く突き飛ばし、ささやいた。
「ダンテ、昔は君主だったんじゃない?……あるいは、その手前とか」「君主?あいつが?」イーサンは笑いながら、クッキーを空中に放り投げ、口でキャッチした。
「頭おかしいよ。ダンテは朝食に何を食べるかさえ決められないくせに」
「でも今、俺たち一体どこにいるんだ?」
イーサンは、その場所の最も信心深い人々の歌や祈りの声が聞こえなくなったという単純な事実から、自分が間違った道を進んでいることに驚きを覚えた。
森は湿ったベールのように太陽の光を飲み込み、葉の緑を灰色の色調と琥珀色へと変えていた。 ねじれた木の幹は石化した腕のようで、地面は低い霧に覆われ、その霧は泥のようにブーツにべっとりと付着していた。エミリーは半分かじったクッキーを噛むのをやめ、赤く充血した目で猫のような緊張感を持って周囲を警戒した。
「お兄ちゃん……」
彼女はささやき、イーサンの袖を強く引っ張った。
「この森は地図に載ってない。僕たちの地図にもね」
イーサンはクッキーの残りを吐き出したが、それは地面に落ちる前に霧の中に消えてしまった。
「地図? どんな地図? 俺たち、地図なんて持ったことないだろ、エミ!」
彼は笑い、まるで制御不能なコマのようにその場でくるくると回った。「落ち着けよ!森は森だ。お香の匂いを追いかければ――」
轟音の後、まるで世界が息を止めたかのような、重苦しい沈黙が訪れた。葉のざわめきさえも止んだ。エミリーはイーサンを力強く後ろへ引き寄せ、彼はクッキーを喉に詰まらせそうになった。
「見て……、」
彼女はささやき、霧が晴れた林間の空き地を指さした。そこには、ねじれた木の根や発光するキノコに囲まれて、一匹の白いウサギがいた。その毛並みは、木漏れ日の中で雪のように輝いていたが、最も目を引いたのはその目だった。大きく、深く、空中に浮かぶ血の滴のように、鮮烈なカーマインレッドの色をしていた。
「えっと……かわいい動物かな?」
イーサンは首を傾け、思わずハンマーを握りしめていた拳を緩めた。
「ほら、エミ?怖がるようなものじゃないよ。ちょっと軽く叩いてみるから――」
「手を出すな」
エミリーは目を細め、その赤い瞳が認識の光で鋭くなった。「堕落した森に白いウサギなんていないわ。あれは囮よ。」
ウサギは二人をじっと見つめ、ある種の知性、あるいは意識さえ感じさせる様子を見せたが、その場から動こうとはしなかった。ウサギは頭を横に傾け、耳をそっと震わせた。そして、笑った。それは動物の鳴き声ではなく、人間の笑い声だった。鋭く、メロディアスなその笑い声は、ガラスの鐘のように木々の間に響き渡った。
「くそっ、エミ……、」
イーサンは一歩後ずさり、ようやく事態を真剣に受け止めた。「笑うウサギなんて、『ツリーゾンビ』より厄介だ」——ウサギはそう名乗った。話す魔法の動物など極めて稀な存在であり、それゆえに魔女や強力な魔法使いの存在の方が信じやすいのだ。
「ディミンホ……」
ウサギは口をわずかに開け、鼻にかかった声を上げた。その声はかなり鼻声だったので、二人はそれが名前なのかと首をかしげた。 ウサギは、まるで儀式のような仕草で前足を上げ、森の薄明かりの中で、その深紅の瞳が灯台のように脈打っていた。再び口を開くと、その声は歪んで聞こえた。時にはフルートのように甲高く、時には煙草を吸う老人のように嗄れていたが、それでも二人は、威厳など微塵も感じられない、とても愛らしい声だと思った。
「私の名前はディミーニョ、ウサギのディミーニョ。私を助けてくれる人には、お返しをするよ!」
その話し方は確かに原始的で、マナを少し多く得た動物のようだった。エミリーは集中力を働かせてその哀れなウサギのマナを分析し、それが少し強めではあるものの、それほど大したものではないと気づいた。これは「マナクリーチャー」レベルなのか、それともそれ以下なのかと考えた。
「どんな助けが必要なの? 撫でてほしい?」
イーサンはゆっくりと手を伸ばし、指先がディミーノの真っ白な毛皮に触れようとした。ウサギは小さな頭を傾け、従順なふりをしたが、その深紅の瞳は、レンズの下で燃える炭のように、より一層輝きを増した。 イーサンが気付くより早く、ディミーニョのふっくらとした足から小さな爪が現れ、彼の手を氷のように冷たい力で掴んだ。ウサギは彼の肩へと飛び乗り、まるで森全体が目を閉じたかのように、周囲の世界が暗くなった。
「ディミーニョは、君が魔法使いになりたいかどうか知りたいんだ!」
二人の視線がぶつかり合ったが、その言い方は、まばたき一つせずに尋ねるあの可哀想な少年の想像をはるかに超えるものだった。
「魔法使いって……どういうこと?」
「魔法使いとは、魔女や邪悪な敵、悪や邪悪な力と戦う力を持つことだ! その見返りに、君に願いを一つ叶えてやる!文字通り、何でも!その代わり、君は魔女を狩らなければならない!ディミーニョの爪の冷たい締め付けは、まるで霊的な手錠のように彼を焼き尽くした。イーサンは、何かが自分の心を引っ掻くのを感じた。物理的なものではなく、まるで記憶が容赦ない風に翻される葉っぱのようだった。
「なぜそんなに魔女を狩りたいんだ? 彼女たちはとても強い存在だ……と思うけど」
イーサンは、その提案に恐怖を感じながらも、妹のことが気になり、彼女の居場所を探そうと周囲を見回した。彼女からの物音はもはや聞こえず、辺りは静まり返り、空気がオレンジ色に染まっていることに気づいた。時間が止まったのか?!
「時間? ど、どうして?!」
「ディミンが言ったように、ディミンは君が想像もつかないような願いを叶えることができるんだ。富の力も!」
イーサンは呆然としていた。ウサギが言ったことのほとんどを理解できず、様々な可能性を考えた末、ある提案をした。
「承諾するよ。でも、欲しいものは後で決めてもいい? どういう仕組みなんだ?
「とても簡単だ!それはサービスだ、後で願ってもいいぞ!!!!」
ウサギの喜びの叫び声が、時間が止まった静寂の中に響き渡った。もしかすると、これは単なる幻に過ぎないのだろうか?イーサンは慎重に考えた。琥珀色に染まった静止した世界は、不気味なジオラマのように見えた。エミリーは数歩離れた場所で動かないまま、赤い瞳をイーサンに釘付けにしていた。その表情は、彼には読み取れなかった。恐怖か?警告か? 空中に凍りついた葉が、彼の顔に爪のような影を落としていた。ディミノはイーサンの手を離し、まるでスローモーションで踊るかのように円を描くように跳んだ。その足跡は地面に光る痕を残し、少年の額にある印と同期して脈打つルーンの円を形成していた。
「魔女狩りって……楽しいわ! 魔女たちって、死にたくない物語なのよ、わかる? 存在し続けると頑なに主張する、木のしこりのようなもの。そして私? 悲しい結末が大好き!」
イーサンは、まるで気流に引きずり下ろされるかのように、胸に重くのしかかる見えない契約の重みを感じた。彼は自分の手を見た。片方の手にはペンダントが握られていた。魔法のガラスドームに包まれたその中央には、脈打つ球体が鎮座し、そこでは幽玄な色が、まるで生きている霧のように舞い踊っていた。
「こ、これは何だ?ペンダントか?何のために?」
「お前の魂だよ、バカ!これからは魔女を殺すことで、この形でそれを『背負う』ことになるんだ!それが俺たちの取り決めだっただろ?魔女を殺すんだ」
ペンダントは、イーサンの高鳴る鼓動に合わせて脈打っていた。ガラス球の中では、幽玄な色たちは踊っているのではなく、戦っていた。赤と青の色が嵐の波のように激しくぶつかり合い、彼は中から聞こえてくるような、かすれた叫び声を確かに聞いた気がした。
「俺の……魂?」
イーサンは喉を鳴らし、その物体を握る指が震えた。「これって、何かの悪趣味な冗談か?魂なんて…装飾品に入れるようなものじゃないだろ!」
「いやいや!お前の魂なんてとっくにそこになんてないよ。これは、魂がなくても生き続けられるようにするためのものさ!魂なしで歩くなんて、想像できるか、ハハ!」
ディミーニョはクスクスと笑ったが、今度はその音が四方八方から同時に聞こえてきた。まるで森全体が彼を通して笑っているかのようだった。ウサギがペンダントに息を吹きかけると、球体からホログラムが投影された。そこには、エミリーを養うために市場からパンを盗んでいる、数年前のイーサンが映っていた。 映像はぼやけ、その後、彼が妹に「ママが戻ってきたよ、エミ!ただ……旅に出てるだけなんだ!」と嘘をついている様子が映し出された。
「やめろ!」
イーサンはペンダントを壊そうとしたが、それは壊れそうにすらなく、ひび一つ入らなかった。
「そのすべてが、そこに詰まっているんだ」
ディミーニョは囁き、彼の肩に飛び乗った。
「魔女を狩れば狩るほど、球体は満たされていく……そして、君が嫌いなものを消し去る力も強くなる。その記憶を消したいか? 願いさえあればいいんだ!」
イーサンはペンダントの重みが増すのを感じた。物理的な重さではなく、魂の重みだ。球体が脈打つたびに、彼の何かが吸い取られていくようだった。
「エミリーは?」
彼は、袖から数センチのところで手が石化したまま動かない妹を見つめた。
「彼女もまた……飾り物になっちゃうの?!」
「彼女は武器だ、魂じゃない!武器はペンダントにはならない……道具になるんだ。ただし……
ディミーニョは言葉を切り、緊張感を漂わせた。
「……君がそう望まない限りはね」
イーサンが答える前に、空中で何かがパチンと音を立てた。ペンダントにひびが入り、球体の内側から聞き覚えのある声が響いた。
「イーサン……これを破壊して!」
それはエミリーの声だったが、凍りついたエミリーではなく、歪んだ、年老いた、苦痛に満ちた姿だった。ペンダントは粉々に砕け散り、イーサンは後ろへ吹き飛ばされた。マナの塵が収まると、彼はエミリーが立っているのを見た。彼女は深紅を帯びた黒い槍を手にしており、もはや凍りついてはいなかった。むしろ、怒りに満ちていた。
「このバカ!何をしたの?大丈夫?ウサギはどこよ!?」
彼女はイーサンの襟首を掴み、ぼろ人形のように振り回した。
「ウサギと契約なんて、一体何を考えてるの?! そんなの、くだらないおとぎ話みたいなことよ!」
イーサンは笑おうとしたが、ペンダントから響くエミリーの声がまだ耳に残り、顔は震えていた。
「あいつ……あいつ、僕に物事を消せるって言ったんだ、エミ。悪いこととか。あの時、ママのこと嘘をついた時みたいに……」
「それで、それを信じたの!?」
エミリーは彼を突き飛ばして放り出し、彼は木の根につまずいた。
「喋るウサギなんて、二通りの場合しかありえないわ。神様の変装か、魔女か。どっちだと思う?
イーサンはただ、絶望に満ちた自分の顔が映り込むほど強くハンマーを握りしめることしかできなかった。この日を忘れることはできないだろうと確信していたが、妹に影響が及ばない限り、すべては大丈夫だと信じていた。
明らかに呪われた森の中を歩き続けると、森は彼らの周りで曲がりくねっているように見え、木々が傾いて腐った秘密を囁いているかのようだった。 腐った土と発酵した糖蜜の臭いが濃厚な空気は、喉にまとわりついた。霧は今や渦を巻いて舞い、瞬く間に消え去る儚い形を形作っていた。その不気味な舞踏の真っ只中で、その家は姿を現した。まるで森の奥底から生えてきたかのような、歪んだ木造の建物だった。 苔むした瓦と脈打つ地衣類に覆われた屋根は、片側に傾き、今にも崩れ落ちそうだった。窓にはバリケードが張られていた。歪んで虫食いの跡が残る扉には、緑青の生えた真鍮の取っ手がついていた。それは、母が亡くなった後に彼らが住んだ家のものとそっくりだった。
イーサンは足を止め、暗闇の中で血の匂いを嗅ぎつけたかのように光るハンマーを、指でぎゅっと握りしめた。
「これは単なる家じゃない」
」彼は唸り、赤く充血した目で細部を一つ一つ探った。「これは囮だ。魔女は場所に住むんじゃない、エミリー。彼女たちは……懐かしさの中に潜んでいるんだ」
エミリーは答えなかった。彼女の足は地面に根を張ったかのようで、煙突から立ち上る灰色の煙をぼんやりと見つめていた。その匂いは彼女のものであった。黄金色のジンジャーブレッド、指の間からこぼれ落ちる溶けた蜂蜜、母がまだ笑っていた冬の台所を満たしていたあの香り。彼女の胃が鳴り、その感情を裏切った。
鏡に映った二人は後ろを振り返り、近づいてくる一団を見た。霧のせいで詳細は見えなかったが、背丈の異なる二人ほどの人数だった。




