これが結婚詐欺だとしても、それでも俺は彼女を愛したい。
『職業:結婚詐欺師』
履歴書に書かれていたその言葉に、俺は思わず目を疑った。
「えっと、ここに書かれてる職業って冗談か何かですか?」
「いえ、冗談ではなく、本当に結婚詐欺師なんです。自営業って書いて誤魔化そうかなとも思ったんですが……やっぱり正直に書いたほうがいいかなと」
「そうなんですね……。えーっと、こういった職業の方とお会いするのは初めてなんで正直驚いてます。それに……結婚相談所で紹介された方が結婚詐欺師だなんて、どうリアクションすればいいのか……」
とあるホテルのラウンジ。俺がそう言うと、対面に座った彼女はそうですよねと苦笑する。
俺が登録しているこの会員制の結婚相談所では、最初の面談で互いの履歴書を見せ合うのがルールになっていた。学歴、年収、家族構成、持病の有無。記載内容は相談所側で厳しくチェックされ、嘘が見つかると退会理由になる。
本当に結婚詐欺師として生計を立てているんです。彼女は落ち着いた声で言った。
「でも、この歳になってから、やっぱり結婚っていいなって思うようになったんです。職業柄、結婚というものに日頃から接しているからというのもあるかもしれません。信じてもらえるかはわからないですが……私、本当に結婚相手を探しにこの相談所に入会したんです!」
彼女はまっすぐ俺を見る。視線に怯みはなく、嘘をついているようには思えなかった。もちろん詐欺師だから嘘が得意という可能性が高いけれど。
俺の履歴書は平凡だ。会社員、両親健在、借金なし。平均よりは収入はあるし、長い独身生活で貯めている貯金もそれなりにあるが、騙す価値があるほど裕福でもない。
もちろん本気で結婚相手を探しているのは俺も同じだった。断る理由は十分にある。だが、結婚詐欺師だと知ってもなお、目の前に座る彼女はどこか魅力的で、一緒にいて心地よさすら感じた。
俺は彼女の履歴書をもう一度読む。整った文字。余計な装飾はない。それがまた俺の心を惹きつける。
履歴書の最後の欄、「結婚相手の条件」に目が止まる。そこに書かれていたのは、『仕事に理解がある人』という言葉だった。
*
その後何回かデートを重ね、俺たちは結婚を前提とした真剣交際へと進んだ。
結婚詐欺師の女性と聞くと、ミステリアスな女性をイメージする。だけど、彼女はそんなイメージとは真逆で、向日葵のように明るい性格で、よく喋り、よく冗談を言う子だった。
デートはいつも楽しく、笑い声に満ち溢れていた。彼女の冗談で俺はよく笑ったし、俺のくだらない冗談で彼女はよく笑ってくれた。よくいる普通の女の子。いや、俺みたいな男には勿体無いくらいの、素晴らしい女性。愛嬌がある。人懐っこい。彼女のよく通る笑い声は周りを明るくさせたし、その声を聞くだけで俺の心は愛しさでいっぱいになった。
だが、職業欄に書かれたあの五文字が頭を離れることはなかった。
だからこそ、彼女の小さな行動一つ一つが、小さな違和感となって俺の不安にさせた。彼女が俺の財布を覗き込む時も、身につけていた腕時計のブランドを確認している時も、家に招いた時、俺が目を離した好きに引き出しの棚を勝手に開けていた時も。
「私、実は親が残した借金があって、その返済のために結婚詐欺師をやってるんだよね。もしその借金がなくなったら、今すぐにでも結婚詐欺師なんてやめたいのに……」
「結婚詐欺師をやめたら、何になりたいんだ?」
「うーん、そうだなー。逆に聞いちゃうけど、もし私が無職になったら、養ってくれる?」
本当か冗談かわからない、そんな会話をしている時も。
彼女が俺を騙そうとしている決定的な証拠はない。むしろ、彼女は隠し事が苦手そうにすら見える。ただ、彼女の笑いの合間に、ほんの一瞬だけ俺を観察しているように見えるときがある。その視線が、仕事の目なのかどうか、分からない。疑いは、小さな棘のように残り、疑えば疑うほど棘は深く深く沈み込んでいく。
だが、彼女が俺の冗談で笑うとき、肩と肩とを触れ合わせるとき、彼女を愛する気持ちは俺の中でどんどん大きくなっていった。過去に何度か女性と付き合ったことはある。それでも、こんな気持ちになるのは初めてだった。
ある日、彼女が何気なく「あなたの今までの恋バナを聞く限りだと、なんか損得で恋してるって感じがする」と茶化してきたことがあった。俺はなんだよと笑い返しながらも、その言葉は思いがけなく胸に突き刺さった。
俺はずっと、損をしない恋だけをしてきた。もっと正確に言うなら、好きになる前に、俺が相手を好きになった分だけ相手も俺のことを好きになってくれるのかを測っていた。
好きだと言う前に、相手の温度を測った。連絡の頻度、言葉の選び方、視線の長さ。同じだけ好かれていると確認できてから、ようやく一歩踏み出した。時間を使うなら、それに見合うだけの愛情を。優しさを差し出すなら、同じ量の優しさを。
損をしない恋。俺はそれを賢さだと思っていた。
もし彼女が本当に俺を騙しているのであれば、俺の気持ちはどうしようもないほどに一方通行で、決して帰ってくることはない。損得で考えれば、確率的には損しかしない可能性の高い愚かな恋だった。
それでも。彼女が俺を騙しているんじゃないかと疑いながらも、俺は彼女に会いたいと思う。裏切られるかもしれないと考えながら、それでも手を伸ばしたくなる。
もうこれが詐欺でもいい。
彼女と過ごしていた何気ない瞬間に、俺の頭にふとそんなことを考えが浮かんだ。それとともに俺は気がついた。俺は今まで、自分が愛されることばかり、考えていたことに。
今まで貯めてきた金が消えてもいい。これから稼ぐ金が消えてもいい。それを差し引いても、俺はすでに受け取っていた。誰かを本気で好きになるという体験を。彼女が詐欺師でもいい。俺を騙すつもりで近づいたのだとしてもいい。
これが結婚詐欺だとしても、それでも俺は彼女を愛したい。
そしてある日、俺は彼女を呼び出した。彼女はいつものように笑って現れた。
「どうしたの? そんな真剣な顔して」
俺はポケットから小さな箱を取り出す。
「先に言っておく。もしこれが詐欺でも、構わない」
彼女は瞬きをした。
「俺はもう、十分に得をしている」
言葉にすると、妙に静かだった。
「たとえ金を全部持っていかれても、それでもやっぱり、俺は君を愛してる」
彼女は冗談を言わなかった。俺は箱を開き、指輪を差し出す。
「結婚してください」
逃げ道は用意していない。初めて、自分の全部を差し出すつもりで、俺は彼女を見た。彼女は驚いた顔のまま、しばらく何も言わなかった。……ずるいですね、とだけ呟いて、視線を逸らした。
その場で答えは出なかった。
俺たちはそのまま俺の家に戻った。言葉は少なかったが、沈黙は重くなかった。夜は静かに更け、気づけば俺たちは同じ布団で眠っていた。
*
翌朝、目が覚めたのは遅い時間だった。俺は隣に目を向けると、そこに彼女の姿はいなかった。天井を見上げ、俺は昨日の光景を思い出す。指輪。言葉。覚悟。
やはり結婚詐欺だったのか。家にある財布や通帳のことが一瞬頭をよぎったが、不思議と胸は軽かった。その事実が、俺は少しだけ誇らしかった。それはつまり、俺が彼女にいったあの言葉が、本当に嘘偽りのない真実だということだから。
寂しさはあった。それでも、後悔はなかった。
俺はゆっくりと伸びをして、寝室を出る。リビングの扉を開けた時、かすかな音が聞こえた。鼻歌。どこか間の抜けた調子。台所のほうからだった。
一瞬、これは夢の続きかと思った。足を進め、リビングに入ると、机の上に二枚の紙が置かれているのが目に入った。一枚は婚姻届。もう一枚は、俺たちが初めて出会った時に交換した結婚相談所の履歴書。
台所では、彼女がエプロン姿でフライパンを振っていた。こちらに気づかず、鼻歌の音程を外している。
俺は履歴書を手に取り、ふと職業欄に目を落とした。そこには、以前見た文字の上に、少しだけ太いペンでこう書き足されていた。
『職業:結婚詐欺師改め専業主婦(希望)』




