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壊す者の痛み

掲載日:2026/02/13

 タカシが最初に世界の冷たさを知ったのは、五歳の誕生日だった。


 母、キョウコは、誕生日のために少しずつお金を貯めていた。パートの給料から、食費を削り、自分の服を買うのをやめ、小さなケーキを買うために必要な千五百円を工面した。タカシはそのケーキを見て、心から喜んだ。母の笑顔を見て、幸せだと思った。


 しかし、アパートの隣人は違った。


「また変なケーキの匂いがするわね。どうせ安物でしょう」


 すれ違いざまに聞こえてくる声。タカシには聞こえた。母は聞こえないふりをしていたが、タカシには分かった。母の手が震えていることが。母の目に涙が浮かんでいることが。


 タカシは、その時初めて気づいた。自分には何か特別なものがあることを。隣人の声が聞こえたとき、頭の中で何かが反応した。壁の向こうにある食器棚が、ほんの少しだけ揺れた。タカシが「壊したい」と思ったからだ。


 でも、タカシは壊さなかった。母が悲しむと思ったから。


 キョウコは若かった。まだ二十三歳だった。タカシを十八歳で産んだ。父親は逃げた。責任を取らなかった。キョウコは一人で育てると決めた。


 彼女は、その決断を後悔したことはなかった。タカシを愛していた。心から愛していた。でも、世界は彼女を許さなかった。


「若い母親ね」「計画性がないのよ」「子供が可哀想」


 近所の人々は、そう言った。表向きは優しかった。「大変ね」「何かあったら言ってね」と声をかけてくれた。でも、その裏側には侮蔑があった。見下しがあった。キョウコは、それを敏感に感じ取った。


 タカシもまた、それを感じ取った。母よりも、もっと強く。


 タカシのHSP特性は、生まれつきのものだった。人の感情が、まるで自分のもののように流れ込んできた。母が泣いているとき、タカシは母の悲しみを自分の悲しみとして感じた。隣人が母を馬鹿にしているとき、タカシはその悪意を肌で感じた。


 そして、その悪意に対して、タカシの中の「何か」が反応した。


 小学校に入学したとき、タカシは他の子供たちと違うことに気づいた。


 クラスメイトの一人が、タカシの服を指さして笑った。


「その服、お古じゃん。ダサい」


 タカシは何も言わなかった。ただ黙っていた。でも、その瞬間、頭の中で「壊したい」という衝動が走った。そして、クラスメイトの机の角が、音もなく砕けた。まるで最初からそこに亀裂があったかのように。


 誰も気づかなかった。タカシだけが知っていた。自分がやったのだと。


 でも、タカシは使わなかった。その力を。なぜなら、母が悲しむと思ったから。母が怖がると思ったから。


 キョウコは、タカシのために必死に働いた。朝はコンビニで、昼は清掃の仕事で、夜はファミレスで働いた。一日に十二時間以上働いて、月に十五万円を稼いだ。それでも足りなかった。家賃を払い、食費を払い、タカシの学用品を買うと、ほとんど残らなかった。


 キョウコは、自分のために何かを買うことはなかった。服は五年前のものを着続けた。化粧品は使わなかった。美容院には行かなかった。すべてをタカシのために使った。


 でも、世界は彼女を評価しなかった。


「あの人、いつも同じ服着てるわね」「みすぼらしいわ」「子供が可哀想」


 タカシは、その声を聞くたびに、胸が締め付けられた。母は何も悪いことをしていない。ただ一生懸命に生きているだけなのに。なぜ、こんなにも傷つけられなければならないのか。


 タカシが十歳のとき、キョウコは鬱病を発症した。


 きっかけは、職場でのいじめだった。ファミレスの店長が、キョウコに嫌がらせをした。シフトを急に削った。些細なミスを大げさに叱った。他のスタッフの前で、わざと恥をかかせた。


 キョウコは、耐えた。辞めるわけにはいかなかった。タカシを育てるために、お金が必要だった。でも、心は少しずつ壊れていった。


 タカシは、母の変化に気づいた。母が笑わなくなった。母が夜中に泣いているのを聞いた。母が朝起きられなくなった。


 そして、ある日、母は言った。


「ごめんね、タカシ。お母さん、もう疲れちゃった」


 タカシは、母を抱きしめた。そして、言った。


「大丈夫だよ、お母さん。僕がいるから」


 でも、母は答えなかった。ただ、涙を流し続けた。


 キョウコは、心療内科に通い始めた。抗うつ薬を処方された。でも、薬は効かなかった。彼女の心の傷は、薬では治せないほど深かった。


 タカシは、母を守りたいと思った。でも、どうやって守ればいいのか分からなかった。自分の力を使えば、母を傷つける人々を消すことができる。でも、それは正しいことなのか。母は、そんなことを望んでいるのか。


 タカシは、悩んだ。そして、結局、何もしなかった。


 中学生になったタカシは、母のために働くことを決めた。新聞配達のアルバイトを始めた。朝五時に起きて、新聞を配った。月に三万円を稼いだ。そのお金を、すべて母に渡した。


 キョウコは、涙を流して言った。


「タカシ、ありがとう。でも、あなたは自分のために使って」


 タカシは、首を横に振った。


「いいよ、お母さん。僕は、お母さんが幸せならそれでいい」


 キョウコは、タカシを抱きしめた。そして、小さな声で言った。


「ごめんね。本当に、ごめんね」


 タカシは、母の謝罪の意味が分からなかった。母は何も悪いことをしていない。なぜ謝るのか。


 でも、後になって、タカシは理解した。母は、自分が生きていることを謝っていたのだと。


 中学二年のとき、タカシはいじめに遭った。


 理由は、母子家庭だったからだ。理由は、貧乏だったからだ。理由は、タカシが大人しかったからだ。


 クラスメイトの何人かが、タカシを標的にした。靴を隠した。教科書を破った。机に落書きをした。そして、笑った。


「お前の母ちゃん、いつも同じ服着てるよな」「貧乏人」「可哀想」


 タカシは、何も言わなかった。ただ黙って耐えた。でも、頭の中では、何度も何度も「壊したい」と思った。


 いじめっ子たちの机が、一つずつ壊れた。椅子の脚が折れた。窓ガラスに亀裂が入った。でも、誰もタカシを疑わなかった。タカシは、いつも黙っていた。いつも静かだった。まさか、彼がやっているとは誰も思わなかった。


 でも、タカシは人を壊さなかった。物は壊したが、人は壊さなかった。なぜなら、母が悲しむと思ったから。


 高校生になったタカシは、もっと多くのアルバイトを始めた。コンビニで、引越しの手伝いで、夜間の警備で働いた。学校には最低限しか行かなかった。勉強する時間もなかった。でも、タカシは構わなかった。母を支えることが、何よりも大切だった。


 キョウコの鬱病は、悪化していった。薬の量が増えた。病院に通う回数が増えた。でも、良くならなかった。


 タカシは、母の手を握って言った。


「お母さん、大丈夫だよ。僕がずっと一緒にいるから」


 キョウコは、タカシの顔を見て、微笑んだ。でも、その笑顔は、とても悲しかった。


 タカシが十八歳になったとき、高校を卒業した。大学には行かなかった。行けなかった。お金がなかった。


 タカシは、正社員として働き始めた。小さな物流会社で、倉庫作業員として雇われた。月給は十八万円だった。決して多くはなかったが、タカシにとっては十分だった。


 キョウコに言った。


「お母さん、もう大丈夫だよ。僕が稼げるから。お母さんは、ゆっくり休んで」


 キョウコは、涙を流した。そして、言った。


「タカシ、あなたは本当に優しい子ね。お母さん、あなたを産んで良かった」


 タカシは、母を抱きしめた。そして、思った。これで、やっと母を楽にしてあげられる。


 でも、それは間違いだった。


 タカシが一人暮らしを始めて三ヶ月後、キョウコは自殺した。


 アパートで、首を吊った。遺書には、こう書かれていた。


「タカシへ。ごめんなさい。お母さん、もう頑張れません。あなたは一人でも大丈夫。強い子だから。幸せになってね。愛しています」


 タカシは、母の遺体を発見した。冷たくなった母の手を握った。そして、声を出して泣いた。


 なぜ、気づけなかったのか。なぜ、もっと早く母を救えなかったのか。なぜ、自分の力を使わなかったのか。


 タカシは、自分を責めた。母を傷つけた人々を消していれば、母は死ななかったかもしれない。でも、タカシは何もしなかった。ただ、耐えることだけを選んだ。


 母の葬儀は、ひっそりと行われた。参列者は、タカシ一人だった。誰も来なかった。母を助けてくれた人は、誰もいなかった。


 タカシは、墓の前で誓った。もう二度と、大切な人を失わない。もう二度と、守れなかったと後悔しない。


 でも、その誓いは、まだ具体的な形を持っていなかった。タカシは、まだ世界を壊す覚悟を持っていなかった。


 タカシは、母の死後、三年間を一人で過ごした。仕事に打ち込んだ。何も考えないようにした。感情を押し殺した。


 でも、心の中には、常に母の姿があった。母の笑顔があった。母の涙があった。そして、母を傷つけた人々への怒りがあった。


 タカシは、その怒りを抑え続けた。でも、それは簡単なことではなかった。毎日、職場で、街で、人々の悪意を感じ取った。HSPのタカシには、人々の裏側にある醜さが見えた。


 でも、タカシは壊さなかった。なぜなら、母が望まないと思ったから。母は、優しい人だった。誰かを傷つけることを嫌っていた。だから、タカシも壊さなかった。


 二十一歳の春、タカシはレイナと出会った。


 それは、駅のホームだった。タカシは仕事帰りで、疲れていた。ホームのベンチに座って、電車を待っていた。


 そのとき、車椅子の女性がホームに入ってきた。レイナだった。


 彼女は、一人で車椅子を操作していた。エレベーターから出てきて、ホームの端に向かっていた。でも、途中で車輪が溝に引っかかった。レイナは、困った様子で車輪を動かそうとした。


 タカシは、立ち上がって声をかけた。


「大丈夫ですか?手伝いましょうか」


 レイナは、顔を上げてタカシを見た。そして、微笑んだ。


「ありがとうございます。助かります」


 タカシは、車椅子を押して、レイナをホームの安全な場所まで移動させた。レイナは、お礼を言った。


「本当にありがとうございます。最近、この駅を使い始めたばかりで、まだ慣れてなくて」


 タカシは、レイナの笑顔を見て、心が温かくなるのを感じた。母の死後、初めて感じる温かさだった。


「いえ、困ったときはお互い様ですから」


 レイナは、もう一度微笑んだ。そして、言った。


「もし良かったら、また会えたら嬉しいです」


 タカシは、頷いた。


 それから、タカシとレイナは、何度も駅で会った。偶然ではなかった。タカシは、レイナが来る時間に合わせて駅に行った。レイナもまた、タカシが来ることを期待して駅に来た。


 二人は、話をするようになった。レイナは、タカシに自分のことを話した。


 レイナは、二十歳だった。大学生だった。でも、一年前に交通事故に遭い、下半身不随になった。


 事故の日、レイナは友人と一緒に横断歩道を渡っていた。信号は青だった。でも、信号無視をした車が突っ込んできた。レイナは跳ね飛ばされ、背骨を損傷した。脊髄が傷つき、胸椎から下が麻痺した。


 レイナは、病院で何ヶ月も過ごした。リハビリを受けた。でも、医師は言った。「歩けるようになる可能性は、ほとんどありません」


 レイナは、絶望した。泣いた。怒った。でも、やがて受け入れた。車椅子での生活を受け入れた。


「最初は本当に辛かったです」とレイナは言った。「でも、今は前を向いています。車椅子だからって、人生が終わるわけじゃないから」


 タカシは、レイナの強さに感動した。そして、同時に、レイナの痛みを感じ取った。レイナは強がっていた。本当は、まだ辛いのだと。


 でも、レイナは決して弱音を吐かなかった。いつも笑顔だった。いつも前向きだった。


 タカシは、レイナに惹かれていった。


 二人は、付き合い始めた。レイナの方から告白した。


「タカシさん、私、あなたが好きです。車椅子の私でも、いいですか?」


 タカシは、迷わず答えた。


「僕も、レイナさんが好きです。車椅子とか関係ありません。あなた自身が好きです」


 レイナは、涙を流して笑った。


「ありがとう。本当に、ありがとう」


 タカシとレイナは、幸せだった。


 二人は、週末に一緒に過ごした。映画を観に行った。公園を散歩した。カフェでお茶を飲んだ。


 車椅子での移動は、簡単ではなかった。バリアフリーではない場所も多かった。でも、タカシは気にしなかった。レイナを押して、どこへでも行った。


 レイナは、タカシに感謝した。


「タカシ、いつも本当にありがとう。私、あなたと一緒にいると幸せ」


 タカシは、レイナの手を握った。


「僕も、レイナと一緒にいると幸せだよ」


 でも、世界は二人を祝福しなかった。


 タカシとレイナが街を歩くとき、人々の視線を感じた。同情の視線。哀れみの視線。好奇の視線。


「可哀想に」「大変ね」「彼氏、偉いわね」


 人々は、そう言った。善意のつもりで言った。でも、その言葉は、レイナを傷つけた。タカシを傷つけた。


 タカシは、HSPの特性で、人々の本音を感じ取った。


「あんな子と付き合うなんて」「介護が大変そう」「若いのに可哀想」


 タカシは、怒りを感じた。でも、抑えた。レイナのために抑えた。


 レイナもまた、人々の視線を感じていた。でも、彼女は強かった。気にしないふりをした。


「タカシ、大丈夫。私、気にしてないから」


 でも、タカシには分かった。レイナは傷ついているのだと。ただ、それを見せないようにしているだけなのだと。


 二人は、一緒に暮らし始めた。タカシが二十二歳、レイナが二十一歳のときだった。


 アパートを借りた。バリアフリーの部屋を探した。でも、なかなか見つからなかった。車椅子対応の物件は少なかった。家賃も高かった。


 タカシは、仕事を増やした。休日も働いた。レイナのために、少しでも良い部屋を借りたいと思った。


 やっと見つけた部屋は、駅から遠かった。エレベーターはあったが、古かった。でも、二人にとっては十分だった。


 レイナは、タカシに言った。


「タカシ、無理しないでね。私、あなたが倒れたら困る」


 タカシは、微笑んだ。


「大丈夫だよ。レイナのためなら、何でもできる」


 二人の生活は、幸せだった。


 朝、タカシは早く起きて、レイナの朝食を作った。レイナは、感謝の言葉を言った。


 タカシは、仕事に行く前に、レイナの介助をした。着替えを手伝った。トイレを手伝った。


 レイナは、最初は恥ずかしがった。でも、タカシは優しかった。いつも、レイナの尊厳を大切にした。


「レイナ、何も恥ずかしいことじゃないよ。僕たち、恋人だから」


 レイナは、涙を流して言った。


「タカシ、ありがとう。あなたがいなかったら、私、生きていけない」


 タカシは、レイナを抱きしめた。


「僕も、レイナがいなかったら生きていけない」


 二人は、お互いを支え合った。


 夜、タカシが仕事から帰ると、レイナは夕食を作って待っていた。レイナは、車椅子でも料理ができるように工夫した。低い位置に調理台を設置した。タカシが手伝った。


 二人で食卓を囲んだ。他愛のない話をした。笑った。


 タカシは、この時間が何よりも幸せだった。母を失ってから、初めて感じる本当の幸せだった。


 レイナもまた、幸せだった。事故で失ったものは多かった。でも、タカシと出会えたことで、新しい人生が始まった。


「タカシ、私、あなたと出会えて本当に良かった」


 タカシは、レイナの手を握った。


「僕も、レイナと出会えて本当に良かった」


 でも、幸せな時間は、長くは続かなかった。


 タカシが二十四歳のある日、仕事で遅くなった。残業が入った。いつもなら、レイナに連絡を入れるのだが、その日は忙しくて忘れてしまった。


 タカシが帰宅したのは、夜の十時だった。いつもより二時間遅かった。


 アパートの前に、パトカーが停まっていた。救急車が停まっていた。


 タカシは、嫌な予感がした。走った。階段を駆け上がった。


 部屋のドアは開いていた。警察官が立っていた。中から、フラッシュの光が見えた。


 タカシは、部屋に入った。


 そして、見た。


 床に倒れた車椅子。血だまり。そして、レイナの冷たい体。


 タカシの世界が、止まった。


 警察官が、タカシに話しかけた。でも、タカシには何も聞こえなかった。ただ、レイナを見ていた。


 レイナは、血まみれだった。服は破れていた。体には、無数の傷があった。


 警察官は、説明した。強盗が入ったこと。レイナが抵抗したこと。犯人がレイナを暴行し、殺害したこと。


 タカシは、膝から崩れ落ちた。レイナに駆け寄った。冷たい手を握った。


「レイナ、レイナ、起きて。お願い、起きて」


 でも、レイナは答えなかった。もう、二度と答えることはなかった。


 タカシは、声を上げて泣いた。叫んだ。


「なんで、なんで、なんでなんだよ!」


 警察官が、タカシを引き離そうとした。でも、タカシは離れなかった。レイナの手を握り続けた。


 やがて、タカシは気を失った。


 病院で目を覚ましたとき、タカシの世界は変わっていた。


 もう、何も残っていなかった。母も、レイナも、すべて失った。


 タカシは、ベッドに横たわったまま、天井を見つめた。そして、思った。


 なぜ、自分は生きているのか。なぜ、自分だけが残されたのか。


 そして、怒りが湧いてきた。


 母を傷つけた人々への怒り。レイナを傷つけた社会への怒り。そして、レイナを殺した犯人への怒り。


 タカシは、決めた。


 もう、抑えない。もう、我慢しない。もう、許さない。


 タカシは、病院を出た。警察に、犯人の情報を聞いた。


 犯人は、すでに逮捕されていた。名前は、公表されていなかった。でも、タカシには分かった。どこにいるかが分かった。


 タカシは、拘置所に向かった。


 そして、心の中で、犯人を思い浮かべた。


 次の瞬間、犯人は消えた。


 拘置所の独房で、犯人の体が、音もなく消失した。まるで最初からいなかったかのように。


 警察は、パニックになった。でも、説明できなかった。監視カメラには何も映っていなかった。ただ、犯人がいなくなっただけだった。


 タカシは、それで終わりだと思った。でも、違った。


 怒りは、消えなかった。


 タカシは、母を傷つけた人々のことを思い出した。アパートの隣人。ファミレスの店長。中学のいじめっ子たち。


 タカシは、一人ずつ消していった。


 隣人は、自宅で消えた。店長は、店の裏で消えた。いじめっ子たちは、それぞれの場所で消えた。


 誰も気づかなかった。ただ、行方不明になったと思われた。


 でも、タカシの怒りは、まだ収まらなかった。


 レイナを傷つけた社会への怒り。同情と偏見の視線を向けた人々への怒り。


 タカシは、街を歩いた。そして、人々を見た。


 彼らは、普通に生活していた。笑っていた。幸せそうだった。


 でも、タカシには見えた。彼らの心の中にある醜さが。偽善が。悪意が。


 タカシは、思った。こんな世界、壊してしまえばいい。


 タカシは、建物を壊し始めた。


 オフィスビルが、音もなく崩れた。ショッピングモールが、消失した。警察署が、跡形もなく消えた。


 人々は、パニックになった。何が起きているのか分からなかった。


 政府は、緊急事態宣言を出した。自衛隊が出動した。


 でも、タカシを止めることはできなかった。


 自衛隊の戦車が、タカシに向かって砲撃した。でも、砲弾はタカシに届く前に消えた。


 戦闘機が、ミサイルを発射した。でも、ミサイルは空中で消えた。


 タカシは、無傷だった。攻撃はすべて効かなかった。


 タカシは、自衛隊の基地を壊した。戦車を消した。戦闘機を消した。


 政府は、絶望した。どうやってもタカシを止められないことを理解した。


 世界中のニュースが、タカシのことを報じた。「日本で未知の破壊現象」「謎の存在が都市を破壊」


 各国の政府は、日本政府に支援を申し出た。アメリカは、軍を派遣すると言った。


 でも、日本政府は断った。これ以上の被害を広げたくなかったからだ。


 タカシは、首都を破壊した。


 国会議事堂が消え、官公庁が消えた。


 政府機能が麻痺した。日本は、統治不能の状態に陥った。


 タカシは、次に経済を破壊した。


 銀行が消えた。証券取引所が消えた。主要企業の本社が消えた。


 経済が崩壊した。通貨が無価値になった。


 タカシは、次にインフラを破壊した。


 発電所が消えた。水道施設が消えた。通信網が消えた。


 都市機能が停止した。人々は、食料も水も電気もない状態に置かれた。


 暴動が起きた。略奪が起きた。人々は、生き残るために戦った。


 でも、タカシは止まらなかった。


 タカシは、すべてを壊した。すべてを消した。人類が築き上げた文明を、すべて破壊した。


 何ヶ月もかかった。でも、タカシは疲れなかった。怒りが、彼を突き動かし続けた。


 やがて、世界は理解した。


 タカシを止めることはできない。タカシに抵抗することはできない。


 人類の新しいルールが生まれた。


 タカシに接触しない。監視しない。研究しない。攻撃しない。刺激しない。


 ただ、恐怖と共存する。


 タカシは、破壊を続けた。でも、徐々にペースが落ちた。


 なぜなら、壊すものがなくなってきたからだ。


 都市は廃墟になった。文明は崩壊した。人々は、原始的な生活に戻った。


 タカシは、廃墟の中を歩いた。そして、思った。


 これで、母とレイナは報われるのか。


 でも、答えは出なかった。


 ある日、タカシは廃墟の中で、一人の女性と出会った。


 彼女は、白い杖を持っていた。目が見えないようだった。


 タカシは、彼女を見た。彼女は、タカシの方を向いた。でも、目は見えていなかった。


 彼女は、言った。


「そこに、誰かいるの?」


 タカシは、答えなかった。でも、彼女は続けた。


「あなたが、あの人ね。世界を壊した人」


 タカシは、驚いた。どうして分かるのか。


 彼女は、微笑んだ。


「分かるの。あなたの痛みが、聞こえる」


 タカシは、何も言えなかった。


 彼女は、タカシに近づいた。そして、手を伸ばした。


「触っていい?」


 タカシは、頷いた。でも、彼女には見えなかった。だから、タカシは声を出した。


「いいよ」


 彼女は、タカシの顔に手を触れた。そして、涙を流した。


「痛いのね。とても、痛いのね」


 タカシは、その言葉を聞いて、初めて自分の感情に気づいた。


 怒りではなかった。憎しみではなかった。


 ただ、痛みだった。


 母を失った痛み。レイナを失った痛み。すべてを失った痛み。


 タカシは、崩れ落ちた。地面に膝をついた。そして、泣いた。


 彼女は、タカシの頭を優しく撫でた。


「いいのよ。泣いていいのよ」


 タカシは、声を上げて泣いた。何年も抑えてきた感情が、一気に溢れ出した。


 彼女は、ずっとタカシの側にいた。何も言わなかった。ただ、そばにいた。


 やがて、タカシは泣き止んだ。そして、聞いた。


「あなたは、誰?」


 彼女は、微笑んだ。


「私の名前は、サヤカ」


 サヤカは、タカシに自分のことを話した。


 彼女は、生まれつき目が見えなかった。そして、十代の頃から、徐々に耳も聞こえなくなっていった。進行性の難聴だった。


 サヤカは、人生の多くを、暗闇と静寂の中で過ごした。でも、彼女には特別な能力があった。


 感情を感じ取る能力。人の痛みを、まるで自分のもののように感じ取る能力。


 サヤカは、言った。


「私、ずっと人々の痛みを感じてきたの。同情されることも、差別されることも、すべて感じてきた」


 タカシは、サヤカを見た。そして、思った。彼女もまた、傷ついてきたのだと。


 サヤカは、続けた。


「でも、私は壊さなかった。痛みを抱えたまま、生きてきた」


 タカシは、聞いた。


「なんで?なんで壊さなかったの?」


 サヤカは、微笑んだ。


「壊しても、痛みは消えないから」


 タカシは、その言葉に衝撃を受けた。


 サヤカは、タカシの手を取った。


「あなたは、世界を壊した。でも、痛みは消えなかったでしょ?」


 タカシは、何も言えなかった。その通りだった。


 サヤカは、言った。


「痛みは、誰かと分かち合うことでしか、軽くならないの」


 タカシは、涙を流した。


「でも、僕には誰もいない。みんな、失った」


 サヤカは、タカシの手を強く握った。


「私がいるわ」


 タカシは、サヤカを見た。


 サヤカは、目が見えなかった。耳も聞こえにくかった。でも、彼女はそこにいた。タカシを責めなかった。裁かなかった。ただ、隣にいた。


 タカシは、聞いた。


「なんで、僕のそばにいてくれるの?僕は、世界を壊したのに」


 サヤカは、微笑んだ。


「あなたが、痛いから」


 タカシは、サヤカを抱きしめた。そして、泣いた。


「ごめん。ごめんなさい」


 サヤカは、タカシの背中を優しく撫でた。


「いいのよ。もう、いいのよ」


 それから、タカシは破壊をやめた。


 力は消えなかった。タカシは、まだ世界を壊すことができた。でも、壊さなかった。


 世界は、距離を保った。タカシに近づかなかった。でも、タカシを攻撃することもなかった。


 タカシは、サヤカと共に、廃墟の中で静かに暮らした。


 小さな家を見つけた。電気も水道もなかった。でも、二人には十分だった。


 タカシは、サヤカの世話をした。食事を作った。服を洗った。


 サヤカは、タカシの話を聞いた。母のこと。レイナのこと。すべてを聞いた。


 タカシは、少しずつ、心が軽くなるのを感じた。


 ある日、タカシはサヤカに聞いた。


「サヤカは、僕を許してくれるの?」


 サヤカは、首を横に振った。


「許すとか許さないとか、そういうことじゃないの」


 タカシは、聞いた。


「じゃあ、なに?」


 サヤカは、微笑んだ。


「ただ、一緒にいたいだけ」


 タカシは、サヤカの手を握った。


「ありがとう」


 サヤカは、タカシの手を握り返した。


「こちらこそ、ありがとう」


 世界は、崩壊したままだった。文明は、復活しなかった。人々は、恐怖の中で生きていた。


 でも、タカシにはもう、壊す理由がなかった。


 母は、戻ってこなかった。レイナも、戻ってこなかった。


 でも、サヤカがいた。


 タカシは、毎日、サヤカと共に過ごした。朝起きて、食事を作り、散歩をし、夜は話をした。


 サヤカは、タカシに言った。


「私、あなたと出会えて良かった」


 タカシは、サヤカを抱きしめた。


「僕も、サヤカと出会えて良かった」


 世界は、壊れたままだった。でも、タカシの心は、少しずつ癒えていった。


 痛みは消えなかった。母とレイナを失った痛みは、一生消えないだろう。


 でも、サヤカがいた。


 サヤカは、タカシを責めなかった。裁かなかった。ただ、隣にいた。


 それだけで、タカシは生きていける気がした。


 ある夜、タカシとサヤカは、廃墟の屋上に座って、星を見ていた。


 サヤカには、星は見えなかった。でも、タカシが説明した。


「今夜は、星がとてもきれいだよ」


 サヤカは、微笑んだ。


「そう。良かったわね」


 タカシは、サヤカの手を握った。


「サヤカ、これからもずっと一緒にいてくれる?」


 サヤカは、頷いた。


「もちろん。私、あなたの手を離さないわ」


 タカシは、涙を流した。でも、それは悲しみの涙ではなかった。


 感謝の涙だった。


 世界は、壊れた。タカシが壊した。


 でも、それでも、タカシの手を離さない人がいた。


 それだけで、タカシは救われた気がした。


 星空の下、二人は静かに座っていた。


 世界は、もう元には戻らないだろう。


 でも、タカシには、もう壊す理由がなかった。


 ただ、サヤカと共に、静かに生きていく。


 それが、タカシの新しい人生だった。


 彼は世界を壊した。


 それでも、彼の手を離さない人がいた。

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