黒い人
8月9日。曇り、時々晴れ。
ミケは時々、何もない遠くを見ている。茂みの奥だったり、家の影だったり、場所は時々で違う。不意に何もないソコを一、二秒見つめたかと思うと、突然興味を失ったようにプイッとその場を去る。去った後で、一瞬だけチラリとそちらに視線を走らせて、そしてそれが最後。今度こそさっぱり忘れ、いつもの調子で「ベーちゃん、どうしたの?」と駆け寄ってくるのだ。
ちなみにミケはネコの名前ではない。上山朔夜という十歳の少女のあだ名だ。靖明だけがそう呼ぶ。
そして、ベーちゃんというのは、ミケだけが呼ぶ靖明のあだ名だ。「セイメイ」といえば「安倍晴明」。だからべーちゃなのだそうだ。未だに意味がわからないが、こういった突拍子もない展開はミケにはよくあることなのでもう気にしていない。ミケがそう呼びたいなら呼べばいい。猫の粗相を本気で怒る猫飼いは、真の猫飼いではない。真の友の言動に一々悪意を見出すものではないというのも、それと同様の学びであろう。
ちなみに朔夜が「ミケ」なのは、もちろんビジュアル由来で、初めて会ったその日の朔夜が黒・白・茶色の三色で構成されていたからだ。背中の真ん中まである真っ黒の髪(たいていお下げに結えられている)、白いTシャツ、キャラメル色のカーゴパンツ。三毛猫カラーの内訳はおおよそそんな感じ。
どういうわけか、その時ミケは屋根の上にいたし、そんなこともあって三毛猫にしか見えなかった。
決して初対面の挨拶時に「ベーちゃん」とかいうダサい呼び名をつけられたので、反射的に苛立ちを返したとかそういうことではない。朔夜自身、「ミケ」というあだ名を気に入ってるようだし。何も問題はない。
しかもミケのすごいところは、いつ会ってもお約束の如くこのカラーを備えているところだ。
つまりミケは靖明と初めて会ったその日、たまたま三毛猫カラーだったわけでなく、いつ何時如何なる時でも三毛猫カラーを搭載しているのだった。
理由は単純。
毎朝の着替えで服の組み合わせを考えたくない。買い物に時間をかけるのも嫌。
上記の理由でミケは同じ服ばかり何着も持っているのだそうだ。冬になれば素材がもふもふになり、夏になればサラッとコットンになったり、そういう違いはあるそうだが、基本の色と形は変えないようにしているらしい。
面倒って。
あまりにも女子らしからぬ女子である。ミケと靖明は同い年だが、靖明はミケ式の考え方で服を選ぶ子を他に見たことがない。男子も女子もそれなりにオシャレに目覚め始める年齢じゃないか?十歳というのは。
しかしミケはそういったことを一切気にしない。自分が他の人にどう見られているかとか。他の人に自分自身をどう見せたいかとか。全く興味がないのだ。
ちなみに靖明は、気になる。自分がどう見られるかも、こう見られたいという自分像みたいなのもガッチリある。
靖明はいわゆるハーフというやつだ。母親が西欧の人で、父親が日本人。骨格は母親譲り、頭が小さくて手足が長く、身長も他の子に比べると随分高い。目や口といった細部のパーツはどちらかというと父親に似た。長いまっすぐなまつ毛とか。すっきり爽やかな目元とか。髪は烏の濡れ羽色。瞳は灰色っぽい青。狼とかハスキーみたいな色で、靖明は自分の体の中で、瞳の色が一番好きだ。
それはともかく。
靖明は持って生まれた素材という点で大優勝していた。そんなに手を加えなくても百点満点を取れる美貌とスタイルを持っていた。ちょっと着る服に気を遣って、髪の毛をちょちょいとイジって、口数少なく謙虚に振る舞う。それだけでアンニュイな美少年が完成した。
勉強も頑張った。生活態度も。家の手伝い、友だち付き合い。話し方、笑い方。努力の甲斐あって、今のところ靖明は全方位にウケがいい。
見た目や周囲の評価を気にするのは、靖明のせいで両親が離婚したという事実があるからだ。穏やかで優しくて頭が良くてそれなりに稼いでくる自慢の父親に靖明がバツを付けた。母親は靖明より三歳年上の姉も連れて二人で家を出た。父からは妻と娘を奪ったことになる。それならば手元に残った自分にできることといえば、優秀な自慢の息子になること以外にないではないか。
そのことを父に打ち明けたことはないが、何か察するものはあったのだろう。今回の夏休みど田舎ショートステイがそれを裏付けている。
ネットに「因習村」とか書かれてもおかしくないくらいの、どことなく閉鎖的なこの集落の貸屋に荷物を置いてまもなく。家を貸してくれた父の知人によって紹介されたのが、ミケだった。
いや、本当はミケの兄を紹介してくれるはずだったのだが、堂々たる居留守を使われ代打で呼ばれたのがミケだった。屋根の上で干される布団の気持ちになってみたかったとかいう、常軌を逸した試み真っ最中のミケは、良くも悪くも人との間に距離を置きがちな靖明の心の壁に、バカデカい風穴を開けてくれたのだった。
話してみるとミケは、とても思慮深い子どもだった。それが人への思いやりにうまく発動されることは少ないが、しかし思慮深いことに変わりはない。考えすぎるがゆえに、トンチキに走るが、他人へ迷惑をかけることはほとんどない(心配をかけることはままある)。無遠慮、浅慮、失礼を搭載した距離なしの同年代フレンド(仮)たちに比べたら、ミケはとんでもなく付き合いやすい子だ。
悔しいと思う間もなく、あっという間に靖明は朔夜と打ち解けた。自惚れでなければ、朔夜の方も靖明に好感を持っているようだった。
一つ断っておくが、男女の好感ではない。靖明と朔夜の間にあるのは、互いを一つの個として尊重しあう純粋な人類愛のようなものだ。
とにかく、靖明は「ベーちゃん」と呼ばれるのが全く気にならなかったし、朝から日暮れまでミケと遊ぶのがごく自然なことになっていった。
ミケと一緒だとなんでも楽しかった。
空き地に群生するクローバーの中に四つ葉どころか五つ葉がある謎に、二人で頭を傾げ、お決まりの花冠を作ろうとして失敗して。アザミで編み物をする絵本を思い出し、二人で恐る恐る挑戦しようとして編み棒がないことにアザミを抜いた後で気がつき、笑い転げた。現代の子どもが縄文土器を作れないのはおかしい!と拳を握ったミケに付き合って、粘土質の土を崖から取ってきてこねてみたり。色々、やることは多かった。
何せこの鳴不村、東京では中々見ない手付かずの自然がそこら中に、さあどうぞ!とばかりに広がっている。その反面、テレビやインターネットの電波は貧弱で、娯楽になるような商店や施設も無い。
スマホ依存で子どもの脳に悪影響が…!みたいな現代問題がまるで存在しないこの村で、ミケは間違いなくオンリーワンの逸材だった。同い年の子どもはミケの他にも何人もいたけれど(村を案内された際に紹介された)、皆、こう言ってはなんだけれど凡庸というか…ミケに会う前、靖明が想像した通りの「田舎の子ども」のテンプレートそのもので、「東京?都会じゃん!」「男のくせにチャラチャラしてんなー」「えー、かっこいい!ねぇねぇ、有名人に会ったことある?」「雑誌とか載ってそう、スカウトとかされんの?」……と、まぁ、こんな感じ。しかもこれがけっこうキツめの方言で発されるわけで。一言喋るたびに「わ、すげぇ!標準語しゃべってら!」と笑われるのにも辟易した。
そんなこんなで、早々に靖明は友だちはミケだけでいいやと見切りを付けた。
ミケは訛ることもできるし訛らないこともできるタイプの子だった。暇な時にテレビのアナウンサーの真似をして癖のない話し方を覚えたとかなんとか。方言を喋らせれば、村のどの子どもよりも流暢で、よくその辺の畑にいるお婆さんとベラベラと外国語のような言葉を喋っている。
ミケを自分にばかり付き合わせるのも悪いかなと思わないこともなかったが、当の本人が「私、いつもは一人。誰かと遊ぶくらいなら本読みたい」とあっさり手を振った。続いて、「ベーちゃんは一緒にいて楽なの。変だねぇ」と笑った。
変はないだろう、と思ったがそれ以上に嬉しく思ってしまったので、靖明は憎まれ口を閉まって、
「そうだねぇ」とミケの隣に座って小さく笑うに留めた。
ミケの興味は多岐に渡る。字が書いてあるなら絵本でも辞書でも読む活字中毒であると同時に、体験派とでもいうのか、雑木林に突っ込んでいってカエルやヤモリを捕まえたり木登りしたり、畑仕事を手伝ったり、磯遊びしたり、体を動かして自然の中で遊ぶのも好きなようだった。
その中で不意に、太陽の位置が季節で違う理由はなんでかとか、どうしたら地球が丸いって証明できるのかとか、そういう疑問に行き着き、考え込み始めたりする。
ミケはたぶん天才気質なんだと思う。だから他の普通の子とは話が合わないんだろう。
靖明は割と頭はいい方なので(そうなるよう努力してるので当然だが)、一緒にいて気が楽なんじゃないかなと思う。
「私の目に映る地球は全然丸くない。凸凹してるし、どっちかというとカクカクした平面に見える」
「それは、地球がミケに比べるとものすごく大きいからじゃないかな」
「でも丸いという事実を全く知覚できないのは変だと思う。なんか証拠が欲しい……あ、図形にはルールがあるから、球にもあるんじゃない?球と円は違うけど…なんだろ…立体…」
ブツブツ。
ミケが思考の深くに潜るのはいつも瞬き一つの間で、そうなると一旦キリのいいところまで行かないと戻ってこない。場所がどこでもいきなりその場で固まってここじゃないどこかをぼぅっと見ながら、軽く曲げた人差し指を唇に軽く押し当てて、時折「うーん」「んー」と唸りながら首を捻る。
その間、靖明はこの三毛猫カラーの女の子の頭の中はどうなっているんだろうと想像する。
靖明とは違う思考回路をしているんだろうな、と思う。シャツ一枚とっても、靖明と朔夜は全然違う思考回路を通って選ぶのだから。
ミケの見てる世界を見てみたい。
この前は、道路から生えてる雑草を小一時間眺め回していた。何がそんなに彼女を惹きつけたのだろう。
ミケにとっては、この小さな村でさえ飽きることない不思議なもので満ちているのだろう。
なんだかそれって、幸せなことなんじゃないかな。面白いことがミケにはたくさんあるんだ。ミケを取り囲む広くて大きな世界を想像する。一つ一つがキラキラと輝く虹色の世界だ。
そんなミケの近くにいると、靖明もなんだか心が軽くなる。良い子の鎧は重たくって、ミケの軽やかな足取りについていけないから、早々に脱ぎ捨てた。鎧を着てようが着てなかろうが、ミケにはどうでもいいみたいだった。人の服なんて知ったこっちゃない子だもの。なんせ自分の服だって然程気にしちゃいない。まぁ、それもそうだよな、自分の毛皮の模様を気にする猫なんて見たことない。
ミケが何か気にする時は、それがミケの琴線に触れた時だ。今のところは自然関係が多い。潮の満ち引き、重力、空はどこから宇宙になるのか、なんで青く見えるのか、土の中に石が埋まってるのは何故なのか、崖はどうやって出来たのか、何故崩れるのか。
だから、時々ミケが不思議そうにどこかその辺を見て、プイッとそっぽを向くのも、何か気になることがあったけどすぐに別のことを考え始めたんだろうなくらいに思っていた。
しかしミケと朝から晩までくっついて歩いてる内に、段々そうではないかもしれないと思い始めてきた。
ミケは、一度不思議そうにしたら、必ずその後にシンキングタイムが発生するのだ。気になったことがあったのに、瞬き一つでそっぽ向く、というのは実にミケらしくない。
今も。
靖明が写真を撮っていた大きな杉の木の…左に少し逸れた薮を不思議そうに見遣って、それからスッと視線を切るようにカメラを持つ靖明にピントを合わせた。
「ベーちゃん、今日、いっぱい写真撮るね」
とてとて。
ほら。
薮のことなんてもうどうでもよさそう。一瞬でもミケの気を惹く何かがあったはずなのに。
「朝から天気が良いし、風も気持ちいいから」
「風が気持ちいいのって写真に写るの?」
楽しそうにクスクス笑うミケはぶっちゃけ可愛い。子どもみたい…いや、正真正銘、子どもではあるんだけど。なんというか、こう、無邪気というか…無垢というか。
なんだか少し照れ臭くなって、靖明は気分を誤魔化すためにチラリと藪を見た。
「さっき何か見てなかった?あの辺」
靖明が視線で薮を指すと、ミケはキョトンと目を見開いた後、「あ〜…」と歯切れ悪く呻き声のような鈍い声を漏らした。
珍しい。
ミケは頭の回転が早いから、思考を言語化するスピードも速い。口籠ることなんて、いままで無かったんじゃないか?
ミケはなんと言おうか一頻り迷った後、「畑行こう」と、坂の方を指差した。
ミケの言う「畑」は、ミケの祖母が管理している畑だ。東京の小学校の校庭二個分はある大きさで、靖明らが借りている家の隣にある。というかそもそも借りている家というのがミケの叔父さんの家で、つまりそこを含め広大な一帯の土地がミケの祖父母の持ち物ということだ。田舎、すごい。
ミケは靖明と並んで畑の見晴らしの良い土の上に座った。畝の手前にある通路のようなところだ。踏み固められているそこに、並んで座り、ミケは一度辺りをぐるりと見回した。それから「う〜ん」と困ったように口籠もり、隣の靖明をチラリと見上げて口を開いた。
「なんか……時々、黒い人がいて」
「黒い、人?」
「うん……。なんていうか、こう…真っ黒なの。暗がりで黒い服だからそう見えるっていうのじゃなくて、のっぺり黒いっていうか。あ、ほら、アニメでよくある真っ黒い犯人みたいな」
「あー、うん、イメージはなんとなく」
某国民的推理アニメに登場するアレか、と、靖明は頷いた。頷いた、が。
「え、おばけとか幽霊とか、そういう話?」
え、ミケってまさかの霊感少女だったの?ガチガチの理系女子だと思っていたけれど、まさかのまさかセンシティブ女子?
困惑した様子の靖明に、朔夜も困った様子で眉を下げた。
ぐ。
そんな顔をされると、取り乱すのが申し訳ないような気になるじゃないか。
靖明はこれまでに培ってきた完璧な表情管理で、努めて穏やかに微笑んでみせた。
「真っ黒ってことは顔も見えないんだ?時々って言ってたけど、全部同じ人なの?」
靖明の微笑に心がほぐれたのか、ホッとしたようにミケの表情がゆるんだ。
よし、よくやった、俺。
「顔はわかんない。見えたことがないっていうか、いつもいきなり視界の端にチラッと映るだけなの。さっきは、誰か大人の人が雑木の影にしゃがみ込んだように見えて。人ならともかく猪か熊ならヤダなと思って隙間から覗いてみたんだけど、いなかったから。あぁ、またいつもの『黒い人』か、って思って。それだけ」
ふぅ、言い切った。みたいな満足げな顔をしたミケに、「いやいや、全然『それだけ』でまとまる話じゃなくない?」と心の声がこぼれ出そうになったのを、一生懸命靖明はこらえた。
「えーと。ちなみに、他にはどんなところで見たことあるの?」
んー、とミケは右上を見ながら思い出すように口を開いた。
「学校のトイレとか?目の前で誰かが横切って先にトイレに入っちゃって、それでずっと待ってたんだけど全然開かないから。よく見たら鍵も閉まってないし、開けたら誰もいなかった」
「え、こわ」
「さっき横切ったの誰だったのかな?って思い出そうとしても、なんか黒かったなってことしか思い出せなくて。ちょうど逆光になる時間だったから、そのせいだったのかも?って思って。普通にトイレ行きたかったからそのまま入って、クラスに戻ったんだけど、後から思い返したらやっぱりちょっと変だったなって」
「俺だったらそのトイレには入らないけどなー…。そっか、なんか変だったなって一応思いはしたんだ」
「うん」
センシティブ疑惑が綺麗さっぱり払拭された。
普通、目の前で誰か入ったはずの個室が空だったら怖いと思う。なんだ、誰もいないじゃん、じゃあ使っちゃおうとはならないだろう。
他にも、浜の岩場の影に誰かが行くのを見たり、小屋の中に入っていく姿を見たりしたらしい。しかし確認しに行くと、いずれも姿形は無い。袋小路になっている場所でも、先のトイレの個室のように不思議と誰もいないのだそうだ。
「変だなぁとは思うけど、別にチラッと見えるだけで怖い感じとか全然しないし、気にしなきゃ無いのと一緒だから」
豪胆である。いや、大雑把なのか?
…でも。
「……………ね、じゃあさ、なんでさっきその場で言わなかったの?気にしてないならさ」
畑に場所を移して、更に周囲を確認して。まるで黒い人に話を聞かれるのを避けるような動きをとっていたじゃないか。
恐る恐る尋ねた靖明に、ミケは一拍置いてからニコッと笑った。いつもの屈託ない笑顔じゃなくて、含みのある大人の笑みだった。え、ミケ、君って本当滋味深いね。引き出しの量がすごいったらない。
「私にとっては『気にしない』『いないもの』だけど、向こうがそうとは限らないじゃん。まぁ、『いる』としたらの話なんだけど」
実証できない内は否定も難しいよね、とミケは笑う。
「見えなくなってもまだ近くにいるかもしれない。いないかもしれないけど。確かめる方法がないし…まぁそもそも深入りする気も興味もないから……」
んー…と、ミケは考え込むように右に頭を倒した。
「だから…なんとなく距離をとってみようかと思った、のかな。ソレの話をするなら、その場を離れてからの方がいい気がして。なんだろうなぁ…うーん、さっきのあの場所ですぐ話題にするのが嫌だったっていうか。なんか……あやふやだったソレが、私とべーちゃんの会話で今度こそしっかり形を持ちそうな感じがして」
「あー、ヤダね、それは。うん、うん。そうだね、ミケのやり方でいいと思う。俺もそう思うよ。なんとなく」
なんとなくね。
なんとなく、ミケの言わんとしてることが肌で感じられて靖明は速攻でコクンと頷いた。
確かになんか嫌な感じだった。見えもしない何かが、話題にすることで明確な形を取る。なんとも説明しづらい不気味な予感が、体の内側にゾワリと走る。
厭だな、という感覚。
「好き」の反対にある「嫌い」とはちょっと違う感じの「イヤ」。触れるとこちらにうつるんじゃないか、と思うような。そういう。
「あぁ、それは『ケガレ』だね」
「けがれ」
父と二人、六人掛けのデカくて重そうな木のダイニングテーブルの長い辺に向かい合わせに座って、夕食の真っ最中。
靖明は夏野菜カレーを食べながら、今日のダイジェストを父に報告していた。この鳴不村に来てからというもの、毎日の定番になった報告会。メインはいつも『本日の朔夜さん』だ。
朔夜をミケと呼ぶ特権は靖明だけのものなので、うっかり他の人が呼んでしまわないよう、靖明は朔夜と二人きりじゃない時はミケのことをちゃんと「朔夜」と呼ぶようにしている。
東京にいた時は、とりたて報告するような真新しいこともなかったので、適当に音楽をかけたり外国の番組を流したりしてなんとなく食べていたのだけど、この村に来てからは毎日ほとんどミケと一緒なのでこれでもかと話題に溢れている。
そんなわけで、今日の最大のトピック、『黒い人』の話を父に聞かせていたところ、話を聞き終えた父は優しい微笑を浮かべて「それはケガレだね」と言ったのだった。
「その『黒い人』が、じゃなくて、黒い人への朔夜さんの対処の仕方が、ね」
「たいしょ」
「昔から日本にある考え方が、彼女にはきちんと根づいているんだね。良いことだと思うよ」
「えっと、なんか、神道的な話?」
靖明の父親の実家は、古くから続く由緒正しい神社の神主の家系である。父はそこの三男坊で、結婚を機に家を出たこともあり、ほとんど生家の話を口にすることはない。今よりもっとずっと靖明が小さい頃は、年末年始に家族四人で父の実家に泊まったりもしていたらしいのだが、靖明にその記憶はない。
東京の家に神棚はないし、父が信心深くしているところもあまり見ない。そんな父から出るには珍しい言葉だった。
軽く首を傾げた靖明に、父は微笑みながらこくりと一つ頷いてみせた。
「穢れ、不浄という考え方がこの国には昔からあってね。死や血、出産には穢れがあると言われていて」
言いながら、途中、父はスプーンを口に運ぶ。丁寧に咀嚼、飲み込んで、一呼吸。それからまた口を開く。父は、所作が美しい人だ。ただし、家事はからっきし。特に料理なんて目も当てられない。このカレーも靖明が作った。もちろん、ちゃんと美味しい。
「えーと、なんだったかな、確か…そうそう、穢れは生死や病に関わるものが多くて、避けたり清めたりするのが通例なんだ。ご遺体の放置も、怪我の放置もどちらも良くないのは分かるよね。汚いから、とかではなく、純粋に危険なんだよね。社会や人間の心身にとって」
道端に打ち捨てられた何かの死体。まともな手当てもされず、汚い布を巻いただけの傷口。
靖明はそんなものを少し想像してみて、それから一つ頷いた。
不衛生という言葉が近いけれど、それだけでは言い表せない感覚がある。本能的に『良くない』という感じがする、というか。
「自分の命を健全に、清浄に保つため。属する社会を維持するため、守るため。穢れの概念は役に立つんだ。危ういものには近寄らない。触れない」
靖明の父は一度スプーンを置いて、己の目を指差した。
「異質なものを見ない。見られない。見たことを悟らさせない」
それから耳を指す。
「安易に聞きいれない。受け入れない」
それから口。
「吸わない。言葉で形作らない。存在のきっかけを与えない」
そして優しく笑う。
ミケが畑で見せた、大人っぽい笑い方の方だ。
「穢れはそうして避けるもモノ。忌むべきモノ。だから、朔夜さんの動き方、考え方は素晴らしいと思うよ。あるはずのないモノ、どうにも異質なコトに対して、軽はずみな行動は慎むべきだから」
そして何事もなかったかのように、いや実際何事も起きていないのだが、父は再度スプーンを取り、米とカレーを丁寧にすくった。
「もし穢れに触れてしまったら、その時は朔夜さんと一緒に僕のところへ来るんだよ。これでも…………だからね、………くらいならできるよ」
「…うん、ありがとう」
靖明は物分かりの良い顔で頷いた。
実際はよくわかっていない。何故かわからないが、「これでも」の後がよく聞こえなかったからだ。音として耳には届いているのに、脳が上手く処理してくれなかったような感じ。いまいち聞き取れないというか、意味が伝わらないというか…。
だが、恐らく『神社の子だから何かしら対処できる』というようなことを言ったに違いない。文脈から察するに、だけど。
ちなみに、よくあるのだ。こういうことは。
父の言葉が一部聞き取れなかったり、…そう、後は、母や姉の言葉が。彼女たちの言葉は、何故かいつも聞き取れなかった。まったく全部が、というわけではないけれど、ほとんどの会話で要所要所が抜け落ちてしまう。日本語で喋っているのはわかるのに、どうしてか内容が頭に入ってこない。ノイズがかかるとか、知らない単語を使ってるとか…そういうわけでもないのに。
靖明が聞き取れていないことを感じると、母は露骨に眉を顰めたし、姉は面倒臭そうに嘆息した。間に入ってくれたのは父だけだったが、仲裁の言葉もよく理解できなくて、それさえ理解できない自分を目の当たりにする度、靖明は落ち込んだ。自分がとんでもない欠陥品のグズだと自覚するのは、わりとキツい。
両親が離婚して、母が姉を連れて家を出て父と二人だけの暮らしになって、靖明の世界はゆっくりと正常さを取り戻していったが、それでも時々こうして言葉が耳を滑っていくのは変わらない。
今でももちろん落ち込むけど。
実は最近はそこまででもない。
ミケの存在が靖明を浮上させてくれる。
だって、ミケときたら、本当にめちゃくちゃなんだ。
ミケの言葉を、靖明は全部余すことなくきちんと聞き取ることができる。頭に入ってこない、なんてことがない。ただ、ちゃんと聞き取れているのにも関わらず、その上で、尚、ミケの言動が理解できないことは多々ある。周りを置いてけぼりにして、意味のわからないことを堂々と言ったりやったりするミケを見てると、多少言葉が理解できないくらい全然大した問題ではないんじゃないかって思えてきた。
理解し合うために言葉は便利だけど、それよりも心が通う方がずっと正しい。
言葉が伝わらなくったって、一つの行動が十のことを語ってくれることもある。
今だって父の言葉は完璧に聞き取れたわけじゃないけど、靖明を安心させようとしてくれた気持ちだけはちゃんと伝わってきた。
それが嬉しかったから、靖明も「ありがとう」の気持ちをこめて頷いた。
会話の細部はひょっとしたら噛み合ってないかもしれないけど。でも、父もふにゃっと笑ってカレーを口に運んだから、これでいいんだ。
「明日ね、朔夜のおばあさんの畑でじゃがいも掘るんだって。俺も行ってくる」
「芋掘りかぁ!軍手とか長靴とかいるかい?」
「なんにも。靴が汚れたら洗い場に行こうって言ってくれたし、そもそも汚れるのが嫌なら最初から裸足でくればいいよって」
「あはは、お父さん、朔夜さんのそゆとこツボだなー!」
「野性味あるよね」
「いやー、健全だね、すごいことだよ」
あっはっは!と爆笑する父に、ちょっとだけムズムズした。
ミケのすごいところはもっと色々ある。ある、けど、全部を伝えるのがもったいないような、自分だけの記憶であってほしいというか、自慢したい気持ちと伏せておきたい気持ちが混ぜ混ぜマーブル模様。
「靖明と来れてよかったよ、鳴不村」
目尻に浮かんだ涙を拭う父に、靖明もふにゃっと笑いを返した。
「そうだね」
明日のミケは裸足かな。
どうだろう。
想像して、靖明はクスリと笑みをこぼした。




