第二十三話 パン屋の朝は早く。
―――朝日に照らされる二つの背中が街を駆けてゆく。
「思いっきり遅刻してるじゃん。」
小麦の香ばしい匂いが風に乗ってやってくるのを正面で受けながら、サフィアと会話する。おなかが鳴りそうなぐらいいい香りだ。
「だって、スイキ……ずっと寝てたから起こそうにも起こせなかったんだもん。」
確かに、俺もサフィアを看病していた時は起こそうにも起こせない、その葛藤はわかる。
「ところで、パン屋って結構近いよね?」
「うん。歩いて数分だからもうすぐだと思う……。」
と言っていると、
「おぉーい。」
手を振りながら、パン屋の店主が店前で看板を準備している。
ラストスパートを走り切る。
「すみません!!遅れました……ハァ……ハァ……。」
ずっと走っていたから呼吸が荒くなる。
「初日から遅刻とは度胸あるじゃないか。」
笑いながら冗談めかす店主の気遣いに、申し訳なさが猶更こみあげてくる。
「ごめんなさい。昨日の夜、熱を出してしまって……。」
店主の顔を見ると、心配そうな表情になる。
「そうだったのね。それは仕方ないけど……。今日大丈夫なの?」
俺は少なくとも大丈夫だ。サフィアの看病をしていて体力を使いすぎただけだったから、ある程度回復している。
「サフィアは大丈夫か?」
サフィアは元気に、
「うんっ。大丈夫だよ。スイキこそ大丈夫?」
例え元気じゃなくても、その微笑みだけで、一日頑張れると思えるぐらい心がいっぱいになる。
「あぁ。大丈夫だ。」
「スイキ君とサフィアちゃんは、二人とも仲がいいわね。」
久しぶりにサフィアのツンが来る予感がした。
「まぁ。こいつは私の使いに過ぎないですけどね。」
ほら見ろ。今日はいつにもまして直感が冴えているかもしれない。
―――店主は微笑ましく二人を交互に見つめると、
「じゃあ、遠慮なく働いてもらうからね。」
店主は扉を開けて、二人をこまねく。
―――「はい。じゃあ、このパンをそれぞれ棚に並べていって頂戴。」
工房が見えるレジのカウンターにずらりとパンが並ぶ。
「うまそっ。」
ふと言葉として気持ちを産み落としてしまうぐらい、美味しそうなパンの数々。
「そうでしょ?あと10分ぐらいで開店だから、急いでね。」
「はい。」
サフィアも一緒に手際良く陳列していく。
「このパンおいしそ~。」
とサフィアの方を見ると、クロワッサンが多く焼かれている。
「それは結構人気あるから、溢れないようにきれいに並べてね~。」
「は~い。」
ここはドイツのはず。しかしフランス発祥のクロワッサン。何層にも重なった生地が織りなすあの食感は絶妙で、それを想起させるようなバターの芳しい匂いが、こちらまで漂ってくる。
「このパン、2個しかないですけど、足りるんですか?」
俺がとったトレーの上には二つだけのパンが一種類ある。見た感じ、チョコが挟まっている?
「それね。それは並べなくて大丈夫よ。あとでこっちにもってきて。」
ふむ。裏メニュ―的なパンなのだろうか。
「わかりました。」
―――パンを一通り並べ終え、先ほどのカウンターを見る。
「もうこんなに焼けたのか。」
先ほどより多くはないが、それでもトレーがいっぱいになるほどのパンが再びカウンターを埋める。
「これで最後だから頑張って。終わったらお礼のパンがあるから。」
そう言われてさっきの2つのパンを思い出す。あれか……?
「はーい。」
サフィアは嬉しそうにパンを並べていく。
「それにしてもたくさん焼くんですね。」
パンを並べながら店主に聞いてみる。ドイツ人はそこまでフランスのパンを食べるイメージがないのだが。
「そうね。この町はリベルテで研究されていた方が多くてね。そういう人たちが買って行ってくれるのよ。」
隣国。おそらく元の世界で言うフランスは、リベルテというらしい。そういえば、誰かが俺のエセ関西弁をリベルテの方言とか言っていたな……。まさかフランスは関西扱いなのか?
「そうなんですね。リベルテは、食文化豊かですもんね。」
フランスは食文化に限らず、芸術も非常に多彩である。関西圏はある意味、食文化も豊かだし、一致する点はなくはないが……。
「そうね。私もこっちに来た時は、みんなカルトッフェルばかり食べていたから驚いたけど……今はだいぶ慣れて、私自身も食べるようになったけどね。」
「リベルテ」という国は、少なくとも今俺がいる国と友好的な国なのだろう。出なければ、”リベルテ”色をふんだんに出しているこの店はたちまち非難轟轟で、嵐のような軍勢につぶされるだろう。
そして何より、他国の研究者が自国で研究するとなっては、自国の研究技術が盗用されかねない。そのことに鑑みれば、「リベルテ」とこの国が友好外交をしていることは自然と導かれる。
「店主はここにきて長いんですか?」
ヘルト村の時は情報を引き出すのに一苦労したが、このパン屋の店主は気前よく話してくれそうだ。
「そうね。ここで売り始めてからなんだかんだ……5、6年かしら。」
―――カランコロンッ
「いらっしゃい。おっ。」
店主が嬉しそうにパンの工房からカウンターに出てくる。
「いつもありがとうね、ヴィッセおばさん。」
「あれっ。ホテルの受付のおばさんじゃん!」
サフィアはすでにパンを並び終え、カウンターにいるが、一瞬でわかったらしい。
ホテルのおばさん?普段暗いところにいて顔がよくわからなかったが、意外と老いていない印象を受ける。
「おやおや。奇遇だね君たち、ここで働くことにしたのかい?」
「あれ、おばさんの知り合いだったの?」
店主は口を隠すように手を当て、驚いている。
「ああ。今私のところに泊まっていてね……。」
その一言で店主が俺とサフィアを細い目で見る。
――別にやましいことはしてないんだけどな……。
ホテルのおばさんは、クロワッサン5つとバゲット1本、サンドイッチを1つ、トレーにのせる。
「はい、お願いね。」
「おばさん、いつもこれだよね。こっちで用意しておこうか?」
店主が気を利かせるが、
「いいのさ。棚からパンを一つずつ取っていくのも、楽しみの一つだからねぇ。」
それを楽しみとするのはわからなくはないが……。
「あ、おばさん。そういえばこの子達、昨日の夜熱出したって言ってたけど、なんか聞いてる?」
ホテルのおばさんには何も伝えていないから、知らないだろう。
「あぁ。知っているよ。けど回復魔法を使える方がきてねぇ。その人が治してくれると言っていたからそのまま部屋番号だけ伝えたよ。」
なるほど。ハイリンネさんが部屋番号まで知っていたのは、おばさんが教えたからだったのか……。
おばさんの表情は来店してからほとんど変わらない。俺らの熱の話を聞いても微動だにしなかった……。
「そうだったのね。はいお釣り。ちゃんとホテルの掃除とかしなよ?」
「いつもしとるから大丈夫さ。」
そうしておばさんが店を出る間際、こちらに視線を飛ばしたような気がした。何かを戒める、いや、店主に何かを伝えているように見えた。
「毎度あり〜。」
おばさんが出て行ってからは、次から次へと客が入ってくる。
「まあ、レジは任せるよ。私は明日の分を今から仕込むから、わかんないことあったら聞きな。」
そういって工房へ戻っていくが、店主の口調はどこか申し訳ないような気がして、いつもの朗らかさがなかった。
――「いらっしゃいませ〜。」
そうして、パン屋から始まる1日はとてつもなく長く感じた。
――正午過ぎ
「お疲れ様。」
店主がコーヒーを淹れて、今朝見たパンと一緒に持ってくる。
「あ、このパン……。」
「そう。このパンは冷やしておいた方が美味しいからね。」
この世界には冷蔵庫というか、家電自体がないらしいが、クーラーボックス的なものがあるのだろうか。
―――あるいはパン屋のおばさんが氷の魔法を使えるとかね……。そんな感じ全然しないけど。
「食べていいんですかっ?」
聞くと同時にサフィアはパンを片手にしている。
「食べて食べて。頑張ってくれてたし。明日もよろしくね。」
そういえば、ここにはどれぐらい滞在するか考えていなかった。それは後でサフィアと相談した方がいいだろう。
「はいっ!美味しいパンのためならいくらでも頑張れますっ!」
サフィアの意気込みは店主に響いたのか、嬉しそうな笑い皺を作る。
「嬉しいこと言ってくれるね。お金については今日の売り上げ次第で決まるから、明日でもいいかな?」
正直、お金のことは今はあまり気にしていない。こうしてパンをもらって食べられているわけだし。
――問題はどちらかというと、昨日の熱と教授のこと、そしてぶった斬られた教授に対する尋問。それが最優先だ。加えて、サフィアの毒は効力がなくなったと言っていたが、改めて調べてもらった方がいいかもしれない。
「はい。大丈夫ですよ。」
「じゃあ、お疲れ様。気を付けてね。」
店主の「気を付けて」という言葉に表じゃない何かがありそうな違和感を覚えながらも、店を後にする。
「おいしかったね。コーヒーまでもらっちゃったし。」
ドイツはコーヒーがよく飲まれているから、サフィアも飲んだことがあるのだろう。しかし、ブラックだったのが少し彼女にとっては減点だったらしい。
「ん~、ミルクも入れてほしかったけど、ここ最近はミルクの値段が高いって言ってたからね……。仕方ないね。」
ということは乳牛に何かあったのか、あるいは搬送時に何かあったか。
「こればかりは市場の問題だからどうしようもないね。」
と頭を切り替える先は図書館。
「よし。そろそろ向かうか。」
二人そろえた足は、戸惑うことなく、ためらうことなく、リューベリヒ市立図書館に進んでゆく。




