事件
読んでいただき、ありがとうございました。
夕日に照らされた空は血のように赤く、浮かぶ雲は痣のような紫色だった。
穏やかな海の中に、真っ赤に照らされた一隻の船が、波に揺らされながら、半分沈みかかっていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ・・・。一人で来るんじゃなかった・・・。私だけではどうすることも・・・。」
彼女が海中にいるソレと目が合った瞬間である。船が、大きく揺れ動いた。
『ドス!!!』
「きゃあああああああああああああああ!!!」
船、彼女の悲鳴、夕日共々・・・真っ黒な海へと沈んでいった。
―――――
2025年、6月某日。メールに書かれた喫茶店に、この度の依頼人である社長はいた。
「待っていましたよ、先生。・・・この犯人を調べてほしくて。」
テーブルに並べられたのは、傷だらけの人間の写真。被写体は若い女性のようだった。
体の至る所に切り傷がついている。何かに噛みつかれたような跡が。噛みつかれただけでない。柔らかい部分はえぐり取られていた。
「本当に、私が確認していいんですよね?」
「もちろん。ひとりで向かった海で起きた事件です。犯人は海の生き物に違いありません。それに、ちんたらと捜査を続ける警察を待っているわけにはいかないので。」
一発で大金が入る仕事と聞いて気軽に引き受けたものの、私の呼吸は震えていた。死んだ生き物を観察することはよくあるが、人間の遺体を観察することなどない。
すぐにでも目をそむけたいほどの惨状ばかりだったが、そんなことはお構いなしに、より鮮明な写真がいっぱいテーブルに並べられた。
「全身に渡ってある細かな噛み傷と。これが、問題の・・・、『穴』です。」
指さされる箇所。胸の下、ちょうどみぞおちの辺りである。
直径五センチはある、丸い穴が開いていた。完全に体を貫通しているようで、遺体の下に敷かれたブルーシートが覗ける。
「あと、これは海岸に打ち上げられた船の残骸なのですが。同様の穴がここにもたくさんあって。」
破壊された白い船の写真。一見普通の船のようだが、しかしよく見ると、船底に蜂の巣のように穴が開いていた。
「これは人間技ではないでしょう?」
「本当に、たくさんの穴が。」
「そこで、これが海の生き物が犯人だと考えたのです。あなたをお呼びした理由は分かりましたかね?」
「ええ・・・。分かりました。分かりましたけど、この犯人は・・・すぐには思いつきません。」
「・・・それは困ります。可能性でもよいので、犯人になりうる生き物を挙げてほしいのです。」
「そんなことを言われましても、こんな凶暴な生物が日本の海に生息しているなんて話は聞いたことないですよ。この遺体の穴を見ると、アマゾン川に生息するガンディルを彷彿とさせますが、しかし、この大きさは以上です。一メートル級のガンディル・・・とか、本当に、そういうSF作品みたいな可能性しか。」
「なるほど、一メートル級のガンディル・・・と。」
「いやいや、さすがに冗談ですよ。さっきも述べたように、ガンディルはアマゾン川にしか生息しない魚でして・・・」
「じゃあ、日本に生息する魚で可能性のある生き物を言ってください。」
社長は語気を荒げて、むっとした顔をした。
「時間がないのです。急遽開発が決まったこの町は、この夏から観光地として売っていくので、こういった事件を二度と起こすわけにはいかないですし、その犯人はすぐに駆除しなければならないのです。」
「そんなことを言われたって、ありえませんよ。こんな攻撃的な生き物がいるなんて。」
「それでも海洋学者ですか。」
「・・・疑っているんですか?別に、この『穴』以外なら分かりますよ。イタチザメの類でしょう。この、やすりのような切り傷がその証拠です。」
僕が写真を使って丁寧に説明しているのに、全く見ようともしなかった。
「分かりました。犯人はイタチザメ・・・と。」
「しかし、イタチザメはこんな大きな穴を空けるはずがない。」
「では、『穴』を空けるくらい大きなイタチザメ・・・と。」
「なんでイタチザメに繋げたくなる?」
「だから、時間が無いんだ!」
社長はテーブルに手帳とボールペンを叩きつけた。
「生き物を全く知らない俺だって、これが異常な事件だってことは分かっているんだよ。めったに起きるはずのない奇跡のような事件だろうね。今後起こるかどうかすら分からない事件だ。しかし、国は黙っちゃいないんだ。何らかの結果を出さないと、営業を開始することが出来ない。こんな、めったにない、事件のために。だから・・・正直、犯人は何だったって構わない。欲しいのは、学者であるあなたの助言と、それに合致した生き物の駆除。それが今回の真犯人であろうが、なかろうと、その事実が欲しいんだ!」
呼吸の合間がなかった。
そこまで言い切ると、地面に落ちた手帳を拾い上げ、ポケットにしまった。
「すまない。・・・興奮しすぎた。だが、分かって欲しい。それくらいには余裕が無いのだ。・・・それくらいに。時間が、ないのだ。だから、だから、もしよければあなたにもその駆除に参加してほしい。」
「私に?」
「ああ。業者に頼む時間がもったいないのだ。・・・金は弾む。今回の報酬の倍払ってやる。」
社長は右手を差し出してきた。
「それは・・・。」
俺は唾液をゴクリと飲み込む。
こんなに腹立たしい相手の依頼を飲み込むなんて考えられない・・・が、その反面、私にも現実的な問題があった。
悩んで、悩んで・・・悩んだ結果。
私はその右手を握った。