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第五話 怒り


「この期に及んで見苦しく逃げるつもりか。ふん、いいだろう。虫けらなりに足掻いて見せろ」


 逃げるトゥールに対し、レンアは焦る様子もなくゆったりとした歩調で追いかけてくる。トゥールが何をしようとも、害される心配など微塵もしていないのだろう。

 事実、トゥールにはレンアに対抗する術はない。


 仮にドロシーが間に合ったとしても、彼女がレンアを相手にして勝てるとは言い切れないのだ。

 たとえ勝てたとしても、トゥールとしてはドロシーのためにも戦って欲しくはなかった。ブラバース家としての大義はレンアにこそあるのだ。

 トゥールを庇ってレンアと戦えば最後、ドロシーまでブラバース家と敵対してしまう。

 兄としてそんな事態にはさせたくない。


「――死……か」


 レンアの言うように見苦しく逃げながら、トゥールはその言葉を口の中だけで転がしてみた。


 十中八九、トゥールは今日で死ぬはずだ。

 レンアが見逃してくれるはずもなく、この状況を打開できる方法も思いつかない。背後から迫る死の足音が微かに、しかしたしかに大きくなりつつあった。


「本当に、散々な人生だった――」


 諦念を吐き出したトゥールの後ろから膨れ上がった気配が、何かを考える間もなく押し寄せてくる。

 そしてあっと言う間に突き当りにあった部屋の扉ごと、トゥールの身体を吹き飛ばした。


「あ、がぁあっ」

「すまんな。鬼ごっこはもう飽きた」


 部屋の中央に転がったトゥールへと、レンアが淡々とした足取りで近づいてくる。何とか逃走を再開するために立ち上がろうとするトゥールへ、レンアが無造作に左掌を(かざ)した。


「鬼ごっこは飽きた、そう言ったはずだ」

「――えっ?」


 鋭い風の刃が、右の(もも)を軽く撫でていった――トゥールにはそう感じられた。

 けれどたったそれだけで、トゥールの右腿の下から先が呆気なく床へと転がる。

 吹き上がる夥しい血の量とその光景に、自分の右足が切断されたことを頭の片隅で理解した。


「あ、が。あ、しが――足がぁぁっ!」


 その途端に押し寄せてきた燃えるような激痛に、トゥールは為す術もなく絶叫を上げる。死の恐怖もこれまでの過去も現在の状況さえも見失い、ただただ思考が痛みのみで埋め尽くされた。


「ああぁぁぁぁがぁぁぁっ!」

「どこまでも見苦しく聞き苦しい……とっとと処理するとしよう」


 暴れ、のた打ち回るトゥールを冷やかに見下ろし、レンアが再び左の掌を翳す。そして躊躇なく、トゥールの首へと向けて風の刃を射出した。

 痛みで頭の中が纏まらないトゥールにも、それが自分に死をもたらすものであることが、朧気ながらに分かった。


(……死ぬのか――)


「坊ちゃまっ!」


 その瞬間、レンアが放った風の刃とトゥールの間に何者かが立ちはだかり、周囲に鮮血が舞う。

 

「――ウェルナ?」


 間に飛び込み自分を庇った相手がウェルナであると気付いたトゥールは、呆然として目を見開いた。

 焼けるような痛みが薄れ、今だけは驚愕の感情で脳内が支配される。

 どこかに隠れていたはずのウェルナが自分を庇い、レンアの風の刃の直撃を受けた。そして右肩から左の脇腹まで切り裂かれた彼女が仰向けにゆっくりと倒れこんでいく。

 それだけは、それだけは辛うじて理解できた。


「ちっ、話に聞いていた使用人か。ゴミを庇うとはな」

「ウェルナ……ウェルナっ? ウェルナっ!」


 右足を失って立つこともままならないトゥールは、床を這いずりながら倒れているウェルナへ近寄った。


「……ぼ、ちゃま」


 呼びかけに対し、ウェルナは涙を浮かべた眼だけを動かしトゥールを見た。そして、端から血が流れる口に笑みを作って瞼を降ろす。


 それが――たったそれだけのことがウェルナの最期だった。

 長い間ずっと傍にいてくれた彼女が、呆気なく手の届かない場所に行ってしまった。そのことがトゥールにははっきりと解った。解ってしまった。

 ウェルナは死んでしまったのだ。


「ウェル……ナ?」

「父上から、『レラの娘である使用人はできれば生かしておけ』と言われていたんだが……ふん、まぁいい。この程度で死ぬ弱者など、知ったことではない」

「お前――お前ぇぇぇっ!」


 何の感慨もなく無感情な声で呟いたレンアを睨み、届かない左手を伸ばす。

 たとえ意識を失ったって死んだっていい。

 ありったけの魔力を込めた魔法を、目の前の傲慢な女に叩き込むつもりだった。


「口の利き方に気を付けろ、愚か者」


 だが魔法を放つ前に、トゥールの左腕が血を噴き出して宙を舞う。右足と同じように、レンアの風の刃で切断されたのだ。


「――う、ぐうぅ……れん、あ、レンアぁぁぁぁっ!」


 右足と左腕を失い、もはやトゥールがレンアに勝つ術はない。

 しかしそれでも、到底許してはおけなかった。このままレンアの非道に心だけは屈するつもりはなかった。


「――っ!」


 トゥールの叫びを受け、心なしかレンアが眉を(ひそ)めたような気がした。そして右足をわずかに退く。

 それはまるで絶対的優位を誇るレンアが、何をせずとも失血死は免れないトゥールに気圧されたかのようだった。


「この私が……貴様――」


 レンアにも自覚があったのか、初めてトゥールへと侮蔑以外の表情を向けた。それは戸惑い、次いでおそらく怒りと表現できるものだ。


「む、無能でゴミほどの価値しかない分際で私に足を退かせるだと? 許さん、許さんぞっ!」


 憤怒の表情でトゥールへと素早く左掌を翳したレンアは――しかし、何を思ったのかゆっくりとその腕を下した。


「……ふん、一思いに殺すのも(しゃく)だ。どうせ放っておいても貴様は死ぬ。苦痛と死に行く恐怖を味わいながら息絶えろ」

「なん、だと?」


 背を向けてゆっくりと去って行くレンア。どうやら本気でトゥールに止めを刺すつもりはないようだ。

 たしかにトゥールは、彼女がこのまま何もせずとも間もなく息絶えることだろう。あまりにも多量の血を失い過ぎたのだ。止血する術はなく、たとえ今さら止血したところで延命にしかなるまい。

 だがそれでも、この状況で殺すべき相手に背を向けるのは、どうにもトゥールが知るレンアらしくない。トゥールを間違いなく処理するように父に指示されているはずだ。

 父の言葉に忠実なレンアが、理由もなくトゥールを生かしたまま立ち去るなどありえまい。


(……そう、か)


 トゥールは余計なことだと頭の片隅で理解しつつ、それでも浮かんだ言葉をレンアの背中に投げつけずにはいられなかった。


「お前は――お前は誇りを傷つけたくないだけだっ! 見下していた僕に気圧されたことを、止めを刺さないことでなかったことにしようとしているっ! 止めを刺すまでもない相手だと振る舞うことで、自分の自尊心を守ろうとしているだけだっ!」

「……な、に?」


 大声で吠えたトゥールのその言葉に、部屋から去ろうとしていたレンアの足が止まる。


「謝れっ! ウェルナは弱者なんかじゃないっ! ウェルナは死ぬことも(いと)わずなりふり構わず僕を庇った。自分の誇りを守るためだけに僕を殺さないお前よりずっと強いっ! お前なんかがウェルナを馬鹿にしていいはずがないっ! ウェルナに謝れっ!」

「この貴様っ! ――いや、そうか。ふん、好きに吠えるがいい」


 勢いよく振り返りかけたレンアは、しかし引き攣った表情を浮かべて再びトゥールへと背を向けた。


「苦痛から逃れるために、私を怒らせ早く楽になりたかったのだろう? だが貴様の思い通りにはならん。貴様はそこで、何もできずに死んでいけ」


 言い切ると、今度こそレンアは振り返らずに部屋を後にする。だからこそ彼女は気付けなかった。


 彼女の後姿を睨むトゥールのその眼が、まだ生きることを諦めていないことに――。

 


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