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九、日傘とドレスと御曹司。

 窓際で風鈴が揺れている。殺風景な僕の部屋に、先日沙起子さんが下げてくれたものだった。

 休診日の昼過ぎ、僕はいつかと同じように、机に向かって論文を睨みつけていた。違うのは、白衣ではなくて浴衣を着ていることくらいだ。

 座っているだけで汗がにじんでくる。手汗で紙を皺にしてしまわないことに、やたらと気を遣ってしまい、集中できずにいた。要領が悪い自分にため息が漏れる。

 そんな折、「ごっさい、ごっさい」と外から掛け声が聞こえてきた。窓から顔を出すと、眩しい日差しの下を、二台の(くるま)が走って来るのが見える。暑い中ご苦労なことだと思っているうちに、俥は診療所の前に停まった。人が乗っているものと、空のものと、それぞれ一台ずつ。

 乗っている人の姿が見え、僕は慌てて窓から顔を引っ込めた。筆記具(ペン)を放り出して立ち上がり、駆け出そうとしてから、くつろげていた襟元を慌てて直した。

 診療所の外に出ると、容赦ない日差しが照りつけて来る。眩しく目を細めて見る僕の前には、首にかけた手拭いで額の汗をふいている車夫と、俥に座したままの女性がいる。黒地の紗の和装を纏った女性は、車夫とは正反対に、(ほろ)の下で涼しい顔をして扇子を動かしている。

「急に、どうなさったんですか。お義母さん」

「浅草に珈琲を飲みに行かないかしらと思って」

 微笑みながら、おっとりとした口調で義母は言う。俥が停まると暑いわね、と呟いて。

「お買い物もしたいのです。欲しい御本があったら買ってあげますよ」

 だから一緒に行きましょう、と子供に言うような言葉に、僕はまた笑ってしまう。

「お義母さん、僕はもう欲しい本は自分で買えるようになったんですよ」

「知っています。でも、親は何かしてあげたいものです。あなたはちっとも我儘を言ってくれないし」

「ええと、はい、すみません」

「義孝さん、お父様に、いつでも診療所に来てくださいっておっしゃったそうですね。あなたの方こそ、お屋敷にちっとも遊びに来てくれないのに。先日いらした時は、わたくしには顔も見せてくれなかったわ」

 責めるような口調ではなく、相変わらずに義母はおっとりと微笑み、手の扇子をゆるやかに動かしながら言う。

「すみません、なかなか時間がとれなくて」

 分が悪くなってきた。僕は日差しの強さもつらくなってきたので、誤魔化すように、顔の上に手をかざして影を作った。

「珈琲ですか? また芝居見物ですか?」

「珈琲です。義孝さんがお芝居を見たいとおっしゃるのなら、ご一緒しますよ」

 義母の遠回しな言葉に、僕は小さく笑った。

 義母は、男の三歩後ろを歩くような妻だ。つつましく、夫のすることに決して口さがなく言わない。だが、それだけの人だと思ったら大間違いだった。義父は沙起子さんのような新進の女性を苦手としているが、その実、義母が控え目ながらも押しの強いことに気づいていない。一緒に行きたいなら行きましょう、と言いながら、僕が乗るための空の俥を連れて来るあたり、義母はちゃっかりしている。

 浅草での芝居見物は、どちらかというと庶民の楽しみで、義母のような人が気楽に行くところではなかった。しかし義母は好奇心旺盛で、浅草の象徴(シンボル)で、十二階と呼ばれ親しまれる凌雲閣の展望室にもとっくに足を運んでいるし、庶民の遊びにも興味を持ち、特に芝居見物が好きだった。でも、義父はやはりいい顔をしない。浅草にそびえ立つ凌雲閣は多くの人でにぎわっているが、その下には私娼窟が多くあるような場所だ。

 ただ、僕が義母を誘ったとなれば話は別だ。男爵家を出てから特に、屋敷に行くことの少なくなった僕が、義母を誘って出かけたりすることには、義父は甘いところがある。

 どうせ進んでいなかった論文は諦めて、僕は義母と出かけることにした。



 浅草はいつも人で賑わっている。義母がこの町に来たがるのは、人の活気が好ましいからだろう。義母は滅多に家から出ることはないし、ご婦人たちの社交場はあまり変化がない分、こういった人の多い場所が楽しいようだった。夏の暑さと人の熱気で蒸せかえるようでも、義母は涼しい顔をしている。

「先生?」

 俥を降りて歩いていると、声をかけられた。足を止めて声のした方を見ると、西洋傘をさした洋装の女性がこちらに手を振っている。僕を先生と呼ぶからには患者さんのはずだが、誰か分からず、戸惑ってしまった。束の間目を瞬き、反応が返せずにいると、女性はくすくすと笑いだした。

「思いがけないところでお会いしましたね」

 聞き覚えのある声だと思い、女性と一緒にいる人物を見て、僕は相手に思い至り、そして驚いた。彼女の隣には、涼しげな白い半袖の襯衣(シャツ)を着た青年が立っている。

「……馨子さん?」

「はい」

 恐る恐る問いかけた僕に、彼女はにっこり笑んで応えた。

 馨子さんは西洋風の日傘をさし、束髪にちいさな飾りのついたかんざしを挿して、洋装(ドレス)を纏っていた。夜会に行く女性のような派手さはないし、目立つような装いではない。派手な化粧をしているわけでもない。彼女に気がつかなかった自分の間抜けさに、僕は大汗をかいてしまった。

 着ているものが違うだけで、女性は随分と雰囲気が変わる。だけど気付かなかったのは、それだけではない気がする。

 陽の光の下で見る彼女はあまりにも印象が違った。華やかな笑みだけは、いつもと同じはずなのに、照りつける眩さは彼女の纏う澱みを消し去っているようだ。美しい女だと知っていたし、彼女の物憂げな様子は変わりもなかったが、それでも別人のようだった。

 呆気にとられた僕を見て、彼女は楽しそうに笑う。

 ふいに、ヨシタカ、と呼ぶ声が聞こえた気がした。高く澄んだ、歌うような声だった。

 そんな馬鹿な。ここにいるはずもない人の声だ。

 僕は頭を激しく揺さぶられたかのような衝撃(ショック)を受けた。目眩がする。真夏の東京の光景が遠のいた。目の前の人も、町のざわめきも、すべてが別の場所の出来事のようだった。容赦ない暑さが、今更、僕の意識を歪めた。

「先生?」

 遠くから声がする。不安そうな声に、ハッとした。

 気がついたら僕は、堅く目を閉じていた。呼吸すら忘れていた。不自然にならないよう、細く長く息を吐く。

「先生、ご気分でも? 暑気あたりかしら」

 目を開き、ずり下がっていた眼鏡を押し上げて見ると、心配そうな馨子さんの顔が間近にあって、僕はそっと身を引いた。

「……いえ」

 洋装の女性は、銀座や横浜あたりにでも行けば珍しいものでもないのに。

 何故、誘い水のように、思い出したのだろう。

 溌剌として高く澄んだ声で笑う少女と、目の前の女性はあまりにも違う。

「すみません、なんでもありません。今日はどうされたんですか? お体は大丈夫ですか?」

「気分転換に外に出ようとお誘いいただいたものですから。このお着物を仕舞ったままにしていたのを思い出して、着て出かけてみたくなったんです。外国のお着物なのでしょう? おかしくないかしら」

「よくお似合いですよ」

 ただの、通り一遍の誉め言葉でさえ、うまく言えたか分からない。

「以前、先生があちらにいらしたのだとおっしゃっていたでしょう。それで思い出しましたの」

 すべて子爵の贈り物なのだろう。彼女は、軽やかに、気まぐれを口にする。

 強い視線を感じて、僕は彼女の隣に立つ青年を見た。先日僕が馨子さんの家から出てくるのを見かけた青年だった。

 もう来るなと言ったはずだったのでは、と思い、僕は困惑してしまう。何故一緒にいるのだろう、とか、嘘をつかれたのだろうかと、何故か責めるような意識が自分の中にある。僕が思うような筋のことじゃない。動揺が消えていないせいだ。

 僕の目線に気づき、馨子さんはくすくすと笑う。

「お越しにならないでと申し上げたのに、いらっしゃるのだもの。家に閉じこもっているから気鬱になるんだとおっしゃって。お若い方は真っ直ぐでうらやましいわ」

 見透かされたようで恥ずかしくなる。自分が今どんな顔をしているのか考えるだけで嫌気がさした。

 後ろから、義孝さん、と義母の呼ぶ声がする。突然立ち止まったりして、義母を待たせてしまったのに思い至り、僕は慌てて振り返った。自分の患者を義母に紹介しようとしたが、義母の目は僕も馨子さんも通り過ぎて、青年を見ている。

「まあ、征斉(まさなり)様。お久しぶりです」

 義母が言って、僕はまた驚いた。

「お知り合いなのですか」

「お知り合いも何も、橋本様にはお義父さんがいつもお世話になっているでしょう」

「……え?」

 僕はふいに自分だけが蚊帳の外になって、驚いてしまう。そして義母の言葉が示すことに頭がついて行かない。また馨子さんの方へ振り返り、青年を見る。不躾な僕の視線に、すらりと背筋を伸ばして立つ青年は、丁寧に頭を下げた。

「橋本征斉と申します。刈谷先生でしょう。先日はご挨拶もせずに申し訳ありません」

 僕も慌てて頭を下げるが、まだよく分かっていなかった。まさかという気持ちが強い。そんな僕の動揺を見て、馨子さんは楽しそうに笑っている。

「橋本子爵のご子息ですわ」

 まさか。その人物が彼女のところに押し掛けているとは思わなかった。華族の子息らしい、矜持の強そうな目で彼はまっすぐに僕を見て、少しも物怖じせずに言った。

「先生は、帝国大学を出ておられるそうですね」

「ええ、まあ。落ちこぼれでしたが」

「どうして、大学の病院に残らなかったのですか」

 呆気にとられたままの僕に、彼は畳みかけるように言った。僕はまた、息を詰めてしまう。

 珍しくもない問いだし、馨子さんに問われた時には難なく答えることができたのに。先程の動揺がまだ残っているのか、言葉が出なかった。

 彼は、もしかしたら知っているのかもしれない。馨子さんの所に足しげく通っているのなら、僕がどういう人間が調べたいと思うのも当然だ。医者になりたいと願い、帝国大学への進学を希望しているのなら、大学のことを調べるのは当然だろうし、そのついでに僕の噂を聞くこともあったのかもしれない。

 うまく答えることができない僕に気づいて、珍しく義母が前に出た。

「この子は引っ込み思案ですから。人の多いところで揉まれるのにあまり向いていなかったのですわ」

 また小さな子供のことのように語る。そんな義母がありがたく、自分が情けなくて、僕は苦笑してしまった。



 義母と子爵の息子が話し始めたので、僕は詰めていた息を吐いた。知らず体にこもっていた力が解ける。

「先生? やはりお加減が悪いのではありません?」

 日傘の陰で、馨子さんが心配そうに見ている。自分の患者に心配され通しで、情けなくなった。

「問題ありません。本当に、暑気あたりかもしれません。医者の不養生で情けないです。馨子さんは大丈夫なのですか?」

「疲れてしまいました。少し熱があるみたいなの。本当は立っているのも億劫で。帰った途端に、疲れきって床につく羽目になりそうですわ」

「ご無理をなさることもないのでは。気分転換も過度だと毒ですよ」

 彼女を誘いだした人の目の前でははっきりと言い難く、僕は控えめに、声を抑えて言った。

 外に出る気持ちになるのは悪いことではない。疲弊しても、考え込み自分を責めるようにならなければ、快方に向かうのは難しくないだろう。だけど無理をすれば、今日も明日も寝付くことになるかもしれない。起き上がれないどころか、腕も持ち上げられないくらいに。それは馨子さん自身も重々分かっていることのはずだったが、遠出をしようという気持ちになったのが不思議だった。

「仕方ありませんわ。悪気があるわけではないのだもの。それに、ここのところ気分が良いものですから」

 確かに彼女は楽しそうで、あまり口うるさく言うのがためらわれた。

「征斉様は、よく馨子さんの家に来られると言われていましたが」

「学校の帰りにお寄りくださいますの」

「その、口幅ったいようですが、問題はないのですか」

 再び声を低くした僕に、彼女は笑った。

「橋本様はご存じですわ。お家の方々は、あまりいい顔をなさってはおられませんわね。遠くにいても、お声が聞こえて来るぐらいですから」

 父親が囲う女のところに通うなど、普通ならば考えられないことだ。父も息子もたぶらかす女、と言われているだろうことなど、馨子さんも分かっているだろう。屋敷の人間が押し掛けてくることも珍しくないのかもしれなかった。

 征斉さん自身も分かっているはずなのに、それが彼女の負担になるということには、気が向かないのだろうか。

 つい、下世話な考えに至りそうになったところで、僕はまた強い視線を感じた。

 子爵の息子の目がしっかりと僕を捕えている。

 まっすぐに僕を見る目は、色んな感情が見えるようだった。馨子さんと親しく話す男への嫉妬や苛立ち。

 ためらいもなくぶつけられる感情に、少しうらやましくもなる。馨子さんの言葉を借りるなら、若さゆえのまっすぐさだろうか。

 眩しくもあり、疎ましくもあり、僕を掻き乱した彼が、腹立たしくもあった。

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