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六、望みとしがらみ。

「先生は、どうして医者になろうとお思いになったの?」

 一通りの問診を終えた後で、馨子さんが言った。鞄に治療録(カルテ)をしまっていた僕は、小さく苦笑する。

「それを聞かれると困ってしまうんですが」

「どうして? おかしな質問かしら」

 もちろん、珍しい質問などではない。患者さんにもご家族にも、近所の人にも聞かれたことがある。天気の話題と同じくらい、珍しくもない問いだ。

「恥ずかしい話ですが、これといった目的があって医者になったのではないんです」

 だからです、と困った顔で笑う僕に、馨子さんはおかしそうに笑った。なんだかその笑顔に恥ずかしくなって、僕は焦ってしまう。鞄に治療録を押し込み終えると、ごまかすように、卓の上に置かれていた湯呑を手に取った。トシ江さんが出してくれた冷たい麦茶を喉に流し込む。

「僕は、もともと外を駆け回るよりは、家に閉じこもって書物を読んでいるのが好きな子供だったんです。何故なのどうしてなのが口癖で、探究心の旺盛な子供でしたよ。周りの大人は大迷惑だったと思いますが。それが、たまたま人の体のことを突き詰めてみたくなっただけなんだと思います」

「まあ、なんだか、先生らしいですわね。とても真面目な理由」

「……そうでしょうか」

 とてもそうとは思えない。困惑しながら僕は卓に湯呑を戻した。そんな僕を見て、馨子さんは口元に手をあてて、今度は少し声をあげて笑う。そうです、と言って。ひとしきり、楽しそうに笑った後で彼女は大きく息を吐いた。少しの動きも体に負担がかかってつらいのだろう。

 いたたまれないのと、無理をさせてはいけないと思い、そろそろ帰ろうかと思ったところで、彼女は唇に笑みを浮かべたままで言った。

「先生は、橋本様のご子息が、医学を志すと言っておられるのはご存じ?」

「うかがいましたよ。ご長男で、家督のこともあるのに、橋本様は頭を悩ませておられるようですね。馨子さんは、橋本様から聞かれたのですか?」

 そういった家の話も、彼女のような立場の人に話すものなのだろうか。疑問が頭をよぎり、つい口にしてしまったが、あまり良い問いかけではなかったかもしれない。罰の悪い顔をした僕のことなど気にした様子もなく、彼女はさらりと応える。

「ええ、そうね。あまりお話をされる方ではないけれど、他人に聞かせたくないようなお話は、私に零していかれることもあるわ。私のような人間はそういうものなんです。逃げ場所なの」

 卓に置いていた団扇を手にとり、ゆっくりと仰ぎながら言った。

「やはり、橋本様のご子息が医者になろうとするのは、難しいことなのかしら」

 単純に医者になれるのかどうかという話なら、難しい話ではない。本人がきちんと勉学をして、医者になろうと願っているのなら。ただ彼の場合は、家がついてくる。

「そうですね。家督して襲爵することはできるでしょうが、ご家業を継ぐことを考えると難しいでしょうね。橋本様は、やはり家業を継いでほしいと思っておられるのでしょうし」

 長男が家業を継がないということを、橋本子爵自身がどう思うかが問題だった。きっと体面が悪いと考えているからこそ、愚痴をこぼされる。

「とりあえず医学部に進んで、それからもう一度考えるというのでは駄目なのかしら」

「この国の医術は、外に比べれば遅れています。帝国大学の医学部を出た人間は、留学をして外の知識を学んでくること、自分たちの次の世代を指導することを求められますし、医学部に行かれたらご自分でもそう思われるでしょう。医者になるのを願って医学部を出たのに、そこでおしまいと言われて納得する人はあまりいないでしょう」

「先生は? 高辻様は何もおっしゃいませんでした?」

 僕の話になって、僕は驚いたが、小さく笑って応える。

「その点、僕は気楽でしたから。僕は高辻の家とは遠い親戚の武家の三男で、たまたま、ほんの少し勉学ができたので、お子様のいらっしゃらなかった高辻家に望まれて養子に出ました。尋常小学校に入ってすぐくらいの時です。数年後、お家にはお子が生まれたため、僕は高辻の家からは離縁されましたから、家督にも家業にも関わりはありませんし、実家に戻ったところで三男では家も継げません」

 だがそれ以前に、士族のほとんどがそうであるように、実家は貧窮していた。

 廃刀令が敷かれ、家禄もなく、慣れない商売を始めてみても、うまく事が運ぶわけもなかった。僕を養子に欲しいと言う男爵の申し出をありがたく受け、体の好い口減らしができたところに、僕が戻ってきても誰も喜ばない。僕は子供ながらにそれが分かっていたし、義父も十分に分かっていたはずだ。僕が理解していることも。

 男爵は離縁しても僕を実家に帰さなかった。僕は男爵家に住まわせてもらい、学費の援助をしてもらった。外国にもいかせてもらった。今もまた、診療所の支援をしてもらっている。

 今はもう僕が名乗る名は、高辻男爵の姓ではない。義父と呼んでいるが、その実はもう義父ではない。でも僕は少しも恨みに思ってなどいない。どれだけ感謝しても足りないほどのことをしてもらった。もともと爵位に興味がなかったし、好きなことを好きなだけやらせてもらえるなど、これ以上ない贅沢だ。

 ただそれでも僕は、少しは気にしているのかもしれなかった。平等と言いながら決して平等とは言い難い世の中を。自分の曖昧な立場を。

 それで民主化運動をするわけではなく、研究に没頭するのが、僕という人間なのだろう。外に向けて働きかけるよりは、座って思考を巡らせる方が楽しかった。僕はやはり、医者を目指したというよりは、研究がしたかったのだ。人の体を調べて、違いを、もしくは違いのないことを、知りたかったのかもしれない。

「大学に戻って、次の世代の指導はなさいませんの?」

 それには苦笑が漏れる。僕も本来なら、大学の病院で働いているはずだった。

「僕には、向いていませんでした。人の多いところが苦手で、父が診療所をやれと言ってくれるのに甘えてしまいました。実は留学も途中で帰ってきてしまいましたし。僕は今のように、時折大学へ論文を提出するくらいの気ままさが楽なのですが、義父には迷惑をかけ通しです」

「それでも今こうやって、医者として人を救っていらっしゃるのですもの。ご立派ですわ」

「そうだといいのですが」

 馨子さんは目を伏せてつぶやいた。

「私にも後援者がいます」

 静かな声だった。少し、応えに窮した。

「……そうですね」

「この家も着ているものも、口に入るものも、あなたですら、私の手が動いた結果ではないわ」

 彼女が決して愚かな人ではないと感じるのはこんな時だ。そして、真意が分からなくなるのもこんな時だ。謎解きのようなやりとりをしている時よりも。

「あなたへの投資はとても有意義でしょうけれど、私にお金をかけたところで、不幸は振りまいても、何も得ることなどありはしないのに」

 まだ数度ここに通っただけだが、彼女の噂はおのずと耳に入ってくる。僕の姿を見た近隣の住人が、ひそひそと眉をひそめて話しているのを見ただけでも、分かるようなものだ。隠していたとしても、彼女がどういう立場にあるのか、近所の人にはすぐに察せられるものなのだろう。聞き耳を立て、動向を伺い見て、噂話をして。

 どうして、男は彼女にひきつけられるのだろうか。

 下世話な考えが浮かび、僕は恥ずかしくなり、後悔した。けれど、考えずにいられない。

 時折見せる、あきらめたような表情のせいだろうか。危うげなところだろうか。微笑んだまま横たわって、いつか、そのまま息絶えそうな危うさがあるからだろうか。手を貸してやらなければと思わせるところだろうか。

 でも、不幸を語るくせに、絶望は感じられなかった。弱くは見えない。それは、自虐的なのに、華やかに楽しげに笑うからだ。

 子爵のように、彼女の支援をしたがる者はいるだろうが、彼女が自分から請う姿は、やはり想像できなかった。


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