五、歌
Ich weiss nicht was soll es bedeuten,
Das ich so……
突然目の前の戸が開いて、すっかり油断して歌を口ずさんでいた僕は、慌ててぴたりと口を閉ざした。小柄な老女が、戸板の隙間からこちらを伺い見ている。手伝いのトシ江さんだ。僕は、遠慮もなしに向けられる丸い目にたじろぎながら、何とか笑顔を向けた。
馨子さんの往診に訪れるのは、すでに幾度目か。沙起子さんと一緒に来たのははじめだけで、今日も一人で訪れていた。
戸を叩いても呼びかけても応えがなかったので、留守なのか寝ているのかと思っていた。帰ろうか、少し待ってみようかと迷いながら、玄関先をうろうろしているうちに、気がついたら歌っていた。油断しきっていた上に能天気な姿を見られて、ひどく恥かしい。顔が上気して、一気に暑さが増した。
「あの、すみません、医者の刈谷です」
ごまかすように早口に言う。
トシ江さんは僕を上から下までじろりと舐めるように見てから、どうぞ、と低く呟いた。背を向けて、暗い室内に消えていく。僕は手布で額の汗を拭って、少し気を落ち着けてから、老女の後に続いた。
部屋に入ると、馨子さんはいつもと変わらず和服を纏い、編んだ髪を肩に乗せていた。小さな卓に、物憂げにもたれて座っている。
「どうぞ、いらっしゃいませ。座ったままでごめんなさいね。膝がひどくつらくて」
「いえ、気を遣わないでください。そのままで」
馨子さんの前に腰をおろすと、彼女は嬉しそうにくすりと笑った。
「いつも思っていたのですけど、先生のお召し物って不思議ね」
とても疲れたような仕種なのに、無邪気に笑って言う。
「飯炊きの下女みたいだわ」
僕は自分の白衣を見下ろして、少し考えた。見慣れていない人には、奇妙に見えるかもしれない。
「研究室では当たり前に着ていたので、仕事のときはこれでないと落ち着かなくて。医者ではめずらしくないと思いますが、今まではそうではなかったのですか?」
「時代錯誤に頭を丸めているおじいさんやら、弟子に鞄を持たせて上から押し付けるように喋るような人ならいました。先生みたいにお若くて、真面目そうな方は初めて」
少し話がずれた気がするが、彼女は気にした様子もない。気づいていないわけではなく気にしていないのか、わざとなのか。
「ねえ、でも先生、お年寄りみたいよ」
馨子さんは楽しそうにジッと僕を見ると、今度は正反対なことを口にして、少し首を傾けて唇だけで笑う。
確かによく年寄りじみていると言われるが、まだ数回ほどしか診察をしていない女性に言われるほどだろうかと考え、少しも怖気ずに顔を見つめてくる馨子さんの視線に戸惑った。ようやくその眼差しの意図に気づく。ああ、と小さく納得の声をもらして。
「眼鏡のことですか?」
「若い人がかけているのをあまり見たことがないもの」
「僕はしばらく洋行していたのですが、あちらでは、日本よりも簡単に購入できましたから。それに今は、それほどめずらしくもないと思いますよ」
高価ではあるが、以前よりは簡単に手に入るようになったはずだ。
「まあ、そうなのね。閉じこもってばかりなものだから、私はあまりものを知らなくて」
「これをしていると頭が良さそうに見えるとかで、目も悪くないのに、わざとかける人もいるようですよ」
眼鏡をしている人間は、読書や勉学で目を酷使して目が悪くなったからだ、と神話のようなことが言われている。
「かわいらしいわね、人は」
そんなことを言って馨子さんは少し笑う。そして何の頓着もなく、両手を伸ばしてきた。思いもよらない彼女の動きで、僕は反応が遅れた。緊張してしまって動けなくて、止めることも振り払うことも、声を出すこともできなかった。
眼鏡を取り上げられて、途端にぼやけた視界の中、間近であいまいに馨子さんの顔が見える。
「まあ、お若い方だと思ってはいたけれど、随分お若いのね。これは、お年をごまかすためかしら」
「いえ、本当に、目が悪いのですよ。こうしていては、あなたの顔もぼやけてしまうんです。確かに僕は童顔ですからごまかしも兼ねていますが。……僕は、眼鏡をしているとハイカラだとか、偉そうだとか言われるのが好きではないので、ちょっとした板挟み(ジレンマ)で」
本当は、人と接するのが得意ではないので、これをしていると少し気楽なのもある。思ったところで、患者相手に愚痴めいたことをつぶやいてしまったと気付き、僕は後悔した。そんな感情が顔に出ていたのだろう。ぼんやりした世界の中で、馨子さんが笑っている気配がする。
はっきりとは見えなくても、視線が向けられるのは分かる。僕は目をそらし、返してくれ、という意志を込めて、手を伸べる。彼女はひとつふたつ呼吸した後、僕の掌に眼鏡を置いた。ほっとして、慌てないようにと暗示しながら両手で眼鏡をかけ、僕はさりげなく彼女から距離を置く。
「かわいらしくていらっしゃるのに、眼鏡だけで雰囲気が変わりますのね。不思議だわ」
かわいらしいなどと言われて、僕は困ってしまった。
「若い医師など信用がないだけですから、これで上々ですよ。海外にいたときは、よくからかわれたものです」
「先生は、洋行なさっていたんですのね。そういえばこの間も、異国の言葉を書きとめていらしたわ」
「ええ、医学の勉強に、独逸へ」
馨子さんは再び卓にもたれて、僕を見上げてくる。
「聞こえていましたよ」
思わず顔を向けると、上目遣いの瞳が、いたずらに笑う。
「……え?」
唐突な言葉に、僕はまた驚き、今度は無意識に身を引いていた。
「先ほど、外で歌っておられたでしょう。異国の言葉で」
「え?」
僕は顔が真っ赤になったのが自分で分かった。先ほど、トシ江さんに見つかったときの比ではない。汗が噴き出して、襟首の隙間から漏れる自分の熱ですら熱い。そんな僕を見て、馨子さんは楽しそうに笑っている。
「外国の歌? どういった歌ですか?」
「聞こえて、いたんですか?」
「聞こえていましたわ。観念して教えてくださいな。どういう歌ですの?」
決して強くはないゆったりとした口調なのに、僕はすっかり追い詰められた気持ちになっていた。顔をうつむけて、真っ直ぐに見てくる馨子さんから目をそらす。
「ローレライという乙女の歌です。川辺の岩場に座って、金の髪を梳きながら歌う美しい乙女なのだそうです。不実な恋人に絶望して川に身を投げたとか、恋人をその川で亡くして嘆いているのだとか、いろいろと伝説があります」
眼鏡がずり下がってくるのもそのままに、口早に言いきった。義父との話を思い出して、ついつい口ずさんでいたのだった。一人で歌っていたのを聞かれたことも、よりによってこの歌だということも、自分の迂闊さにほとほと嫌気がさす。
「だめです。先生」
くすくすと笑う声が聞こえて、僕は顔を上げる。
「ちゃんと歌って聞かせてくださいな」
ね、と首を傾けてねだる彼女があまりにも無邪気に笑うので、僕はとうとう観念した。