表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/18

四、ローレライ

 往診を終え、診療所へ戻る沙起子さんと別れて、僕は義父の家を訪れていた。汗だくの僕に、義父は女中に言って檸檬水(レモネード)を用意させてくれた。洋式の卓子テーブルを挟んで椅子に座る。

「どうだった」

 自分も冷たい飲み物を手にしながら、義父が尋ねてくる。当然の問いかけではあったが、僕はまだ答えを用意できていなかった。

「ええ、なんと言いますか」

 言い淀み、まだ迷い、飲み物を一口含んで間を空けてから、ようやく妥当な言葉を口にする。

「変わったお人で」

 僕の困惑を見てとったのか、義父は苦笑した。

「一人で行ったのか」

「今回は沙起子さんに同行してもらいました。沙起子さんは、とても不機嫌でしたよ」

 患者のことをとやかく言う人ではないし、良識がある。だからこそ僕も義父も信頼している。帰り際に一言だけ、言葉を選んで選んで口にした。「ご病気なのはお可哀そうですけど、もどかしくて仕方がありません」と。

 曖昧な言葉で、あやふやにごまかしている。

「まあ、そうだろうな」

義父は沙起子さんのように、はきはきした気の強い女性が苦手だ。苦手だが嫌っているわけなどではないし、女だから苦手なのであって、男だったら自分の仕事に雇っていたかもしれない。だから、彼女の考えが分かるのだろう。

「子爵は、かわいそうな女性だと言われていたな」

 義父はつぶやいて、手のグラスを傾ける。冷たい液体を喉に流し喉を潤わせて、思わずのように言葉を漏らした。

「ローレライ」

「……え?」

 僕はつい、大げさすぎるくらいの声を出していた。目を見開いて、義父を見た。そんな僕の過剰な反応に、二人とも気まずくなる。

 義父は、情が深い人ではあるが、朴訥な人だ。決して詩など口ずさまない。

「子爵がな」

 言い訳のように義父は口にする。子爵は、あまり詩人肌ではない方なんだがね、と。なぜかまた、弁解を付け足す。

 ローレライとは、歌声で旅人を惑わせる独逸ドイツの妖女だ。莱茵ライン川の岩場に座り、ただそこにいて、髪を梳いて美しい歌声を響かせる。その声に魅了された船乗りたちが舵をとりそこねて命を落とすという伝説がハイネの詩にある。いろんな作曲家が曲をつけたので、歌としてもよく知られている。

「その女性は、ローレライなのだと言われていた」

「歌か何かなさっておいでなのですか?」

 いわゆる囲い者になる女性は、芸者であることが多い。もちろん芸だけで身をたてる人もいるが、その芸や容色にひかれた男が、支援者になることも珍しくはない。だがそれは、彼女にあてはめて考えてみても、あまりしっくりこない。他人をひきずりこめるくらい、誇れるものがある人の態度には見えなかった。卑屈とは少し違うけれど、自分の魅力一つで男を留める覇気とでもいうか、そういうものは、彼女にはなかった。

 だが、僕の言葉に、義父はまた苦笑する。

「いや、そうではないが。会ってきたんだろう。何か、思わなかったのか?」

 ――ローレライ。ただ座っているだけで、男を惑わす女。

 幻惑のような言葉を口にして、あやふやで、そこにいるのか不思議で、不安にさせる。掴んで引き止めておきたくなるような、美しい女。覇気は必要ない。男が勝手によってくる。

 ああ、そうか、と僕は思い、自分の先頃の言葉の無粋さに少し恥ずかしくなった。先ほどはローレライと口にした父に驚いたが、人のことを言えない。

「ええと、そうですね。確かに」

「病はどうなんだ。重い病気なのか」

「いいえ、治らない病ではありません」

 そうか、と義父は安堵した様子で息を吐く。そうして僕は、この話を持ち出して来たときに、義父がまだ何かひっかかるような様子だったのを思い出した。

「僕は、よほど重い病で、それを治せる医師を探していらっしゃるのだと思っていました。でもあの病に、今までの方が気づけなかったとは思えません。大原さんも、同じ診断をされたことがあると言われていました」

「気づかなかったわけではない。医者が辞めてしまうのだとおっしゃっていた。長続きしないのだと」

 だから、人が足りなくなった。治療ができなくなった。

 なんとなく……そう、なんとなくではあるが、義父の言葉が分かる気がした。彼女の、あのもてあそぶような態度。ローレライか。子爵の例えが当てはまるような、皮肉なものであるような気がしてしまう。だが、男のつまらない言い訳であるように思えた。

「その女性が、嫌がって追い出してしまうこともあるのだそうだが」

「追い出す、ですか?」

「そう伺ったが」

「そういう人には見えませんでしたが……」

 快く迎え入れてくれた。ああ、しかし、若い女性は嫌いだと、あれほどはっきりも言う人だった。

「大原さんの病は、根気強く治療をしていけば、治らないものではありません。けれど、疲労した心の方が心配される病ですから、どうなるとも確証は言えませんが」

 はっきりしたことが言えないのは、医師としてもどかしい。僕は冷たい汗をかいたグラスをにぎりしめ、言うべきかまた随分と迷った後に、冷えた飲み物を一気に喉へ流し込んだ。その勢いのまま、義父に告げる。

「橋本様に、どうぞ彼女を疲労させないよう、お気をつけ下さるように伝えてください」

 言外の意志に義父も分かっているはずだ。ああ、と苦笑する。囲い者である女を抱くなとは、あまり強く言えないことかもしれないが。医者として言っておかなければならない。

「お前は?」

 僕の口ぶりに、僕も辞めてしまうと思ったのだろうか。義父は驚くでも、怒るでもなくただ、どうするのかと問うた。

 頼まれたものを簡単に放り出すことは、やはり子爵の心象を害するだろう。それが上の身分の人間であれば尚更だった。義父はあまり気にしないのだろうが、後々、問題にされないと言いきれない。そして僕はやはり、義父に恩義を感じているし、義父の不利になるようなことは絶対にできない。

「もちろん、患者を途中で放り出したりなどしません。時間はかかるでしょうが、できるだけのことはさせてもらいます」

 義父の顔に笑みを向け、僕は医者としての答えを返した。

「もう二度と、お義父さんにご迷惑をおかけするようなことはしませんから」

 僕の言葉に、義父は少しあきれたような、困ったような顔をする。

「昔の話だ」

 言ってから、少し悲しい顔をする。

「離縁はしたが、籍はどうあれお前は私の息子なんだから、変なこだわりは持たなくていいんだぞ」

 僕は素直に、はい、と応えた。お義父さんもね、とは、心の中でだけつぶやいて。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ