十八、夢
知らせを受けた高辻家から、空の俥はいくらも待たない間にやってきた。俥の揺れは、僕の傷にも、馨子さんの体にも響いた。痛みをこらえつつ、ぐったりとした馨子さんを支えながら、なんとか診療所まで耐える。
どれほどの距離もないはずなのに、随分と長くかかった気がした。帰りついた診療所には灯りがともっていた。
不思議に思いつつ診療所の握り玉に触れると、鍵が開いている。中では、いつものように白衣を着た沙起子さんが、仁王立ちで僕を待っていた。
「高辻様から俥がきました」
呆気にとられて、何故ここにいるのか問うのが遅れた僕の先を制して、彼女は言う。叩き起こされた看護婦は怒っているようだったが、ぐったりとした馨子さんを見ても、何も言わなかった。病人に鞭打つような人ではない。ただ、僕の腕の血を見て、ほんの束の間、痛ましい顔をした。
「怪我人は大人しく座っていてください」
なんとか片腕で馨子さんを支えている僕に、沙起子さんはいつもよりキリキリとした表情で言った。僕から馨子さんを引き取って、肩を支える。
「こちらの方は、どうなさいます」
ただ、名を呼ぶのは憚られるようで、遠回しな言い方だった。
「心労が重なってひとりに出来ないので、連れてきてしまいました。看病は僕がしますから、とりあえず上へお連れしてもらえますか」
「先生もお休みになりませんと」
「診察室の寝台で十分です」
得心のいかない顔で沙起子さんは、承知いたしました、と応える。馨子さんを支えて、廊下の先の階段を上がって行く。
取り残された僕は自嘲気味に診察室へ入り、白衣を脱ごうとした。少し動くのにも痛みが伴い汗がにじむ。血が衣服に貼りついて、はがすのにうめき声が漏れた。
なんとか白衣を脱ぎ、襯衣を片肌脱ぎにして、いつもの自分の椅子に座る。ずり落ちた眼鏡を押し上げてから、鑷子を取りだした。利き手を使えず、消毒液をしみ込ませた綿をつまむのに四苦八苦していると、沙起子さんが戻ってきた。
束の間あきれ顔になり、すぐムッとした顔になる。黙って僕の近くに来ると、鑷子を取り上げる。僕の傷を見て、少しだけまた痛ましい表情をしたけれど、すぐに手慣れた動きで手当てをしてくれた。
「いつもすみません。ご面倒おかけして」
「本当です」
沙起子さんはいつもながら容赦ない。
「鈍感者の先生に、こんな大それたことがおできになるとは思いませんでした」
「……そうですね」
僕はただ苦笑する。沙起子さんは、独逸でのことを知らないはずだ。
今日のことで、彼女はどれだけ事情を聴いただろうか。馨子さんの姿を見て察したのか。何を考えただろうか。僕を軽蔑しただろうか。
幾針か縫うはめにはなったが、その程度ですんで良かった。奥方が来なければ、命にかかわる怪我になったかもしれない。
処置を終えて、くるくると包帯を巻きながら、沙起子さんは言った。
「動かさないように、首から吊ったほうがいいかもしれませんね」
きびきびと患者に向けて言う。この診療所は彼女がいなければ立ち行かない。こうして厳しく言ってくれる人がいなければ。
はい、と僕はただ応える。
「ありがとうございます」
肩肌脱ぎにしていた襯衣をとりあえず着直す僕を手伝いながら、少しだけ険のとれた声で彼女は言った。
「しばらく難儀ですよ」
「頼りにしています」
沙起子さんはため息をつくと、やっと少し笑ってくれた。
沙起子さんが男爵家の俥で家に帰ったのと入れ違いに、ガラガラと車輪の音が近づいてくるのが聞こえた。診察所の扉を開け放ち、足音も高く診察室へ入ってきた義父は和装姿で、額を流れる汗もそのままだった。
立ちあがって出迎えた僕の襯衣の血を見て、入口で止まってしまう。
「大事ないのか、その傷は」
「かすり傷です。大したことはありません。沙起子さんを寄こしてくださって助かりました」
言外に処置済みだと示すと、義父の肩から少し力が抜けるのがわかった。
「お前にはいつも驚かされる」
安堵と呆れと、苦笑も少し。
「だが、こういうことがあるような気もしていたよ」
「すみません、お義父さん。いつもご迷惑ばかり」
「いいから、怪我人は座れ」
沙起子さんと同じようなことを言う。義父は彼女を苦手にしているけれど、やはり二人はどこか似ている気がする。
僕が元の椅子に座ると、義父は患者さん用の椅子に腰かけて、大きく息を吐いた。
「先ほど、橋本様の奥様が当家にいらして、少しお話をした。このような夜分に何事かと驚いたものだが」
義父は事情をどれだけ聞いただろうか。奥方からの話を、どのように聞いただろうか。気にはなったが、どのように伝わっていても、構わないと思った。大袈裟で、保身のための嘘いつわりが混じっていても。この結果は変わらない。
「征斉様のことはどうか不問にしてほしいとおっしゃっていた。襲爵やご家業のこともあるので、すぐにとはいかないが、洋行させるので、二度とこのようなことのないようにすると」
二度と近づかせないと。むしろ、二度と近づくなと言うことだろう。
「馨子さんのことは」
僕の問いに、義父は僕の目を真っ直ぐに見返す。僕の本意がどれだけそこにあるのか、確認するかのように。
以前だって、不祥事を起こしたのは、駆け落ちをしようとしたからだった。僕はもう、女のことで問題ばかり起こして、つまらない、愚かなやつだと思われても構わなかった。
父はどこかあきらめたような、あきれた様子で、肩をすくめた。
「奥様がおっしゃるには、払い下げる。不吉な女など、いかようにもしてかまわないと。二度と橋本の家に近寄るなと」
あまりな言い様だ。奥方からしてみれば、それで当然なのかもしれないが。
だが義父は、はっきりと言った。
「私は警察へ届け出るべきだと思っている。ご当主が身動きをとれず、お家の方にはおつらいことかもしれないが、それとこれは別だ。私は大事な息子を傷つけられて、黙っているほど非情ではない。征斉様がご家業を継がれた後に、障りがあったとしてもだ」
義理堅くて、とっくに離縁した子のことをずっと気遣ってくれた義父は、かつてのようにそう言ってくれた。独逸で、日本へ帰るかと言ってくれたのと同じように。あの日のように、後に起こるであろう何もかもを気にせずに。僕なんかと違い、義父は本当にまっすぐで優しい人だった。
だけど僕は、表沙汰にしてまた醜聞が立つのが嫌だった。僕のことだけならば、診療所のことも、どれだけ陰口をたたかれようとも、構わない。大学へ論文を出すことすらできなくなったって構わない。
これから難儀ですよと言った沙起子さんの言葉を思い出す。利き腕の話だけではない。訴え出たならば、沙起子さんにも迷惑をかけてしまうし、何より、義父に迷惑をかけるのは嫌だった。
「僕は、奥様のおっしゃる通りにして構いません。征斉さんのことは、訴え出るつもりはありません」
ただし、僕は続ける。
「本当に、征斉さんには、馨子さんへ近づかないようにしていただければ」
このまま彼女を放りだすことなんて出来なかった。死なないでと、ただつぶやいた彼女を。
そのまま儚くなってしまいそうで。
義父は、襟の袷から手拭いを取り出して、思いだしたように額の汗を拭いた。やれやれという様子で少し笑う。
「お前には、いつも驚かされるな」
「すみません。いつも迷惑ばかりかけて」
うなだれた僕に、父は大袈裟にため息をついた。
「息子なのだから、迷惑などかけられたって構わん。だが次何かあるときは、もっと早くに言ってくれ」
どうしようもなく、こらえきれずに、取り返しのつかないことになる前に。
再び、すみませんと言う僕に、義父は苦笑とも微笑ともつかぬ顔をした。
「少し安心したよ。お前も、昔とは違うのだな」
かつては、遠い異国で、何もかもやる気をなくして、アパートの暗い一室に座りこんでいた。ひとり沈みこんで、失った思いも、人も、後悔も持て余して、ただ身動きも取れずにいた。あの頃とは。
軽はずみで、無鉄砲で、考えなしで、無謀だった。だけど今は、考えて、逡巡して、やはり最後には無謀なのだと、僕は思った。
昔とは違うかもしれない。けれど、どちらがいいのだろう。僕も苦笑してしまう。
義父は、そんな僕を見て、またつられたように笑った。
「迷惑などと言うことよりも、そんな怪我をされるほうが困る。申し訳ないと思うのなら、立派になって、幸せになってくれなければ。私の子なんだから」
はい、と僕はただ返事をする。
「ありがとうございます」
血に汚れた襯衣を着替えてから、僕は二階の自室へ向かった。物音立てぬよう、ドアの握り球をそっと回す。少しだけ戸を開いて、部屋の中へ体を滑り込ませた。
開いた窓で、窓帷が風に遊んでいる。ひらりと風が舞いこむたび、ちらちらと月明かりが静かに部屋に忍びこんで、薄青く照らしている。
「先生……?」
かすかな声に、僕は慌てて寝台へ歩み寄った。起こさないようにと気をつけたつもりだったけれど。
寝台脇に置いてあって椅子に腰かけて、馨子さんの顔を覗き込む。暗い部屋の中、白い肌は紺藍に染まっている。馨子さんは気だるそうに、ふたつ瞬きをした。僕はできるだけそっと声をかけた。
「起こしてしまいましたか?」
「いいえ……」
吐息のように彼女は言う。
「体がつらくて、眠りたいのに眠れなくて」
僕は彼女の細い首筋へ、それから頬へ、左手を添える。熱帯夜を差し引いても、やはり熱い。無理もない。身動きもできないほどだったのに、ここまで無理をさせてしまった。
「熱が高いですね。ゆっくり休まないと。水を持ってきましょうか」
「いいえ、行かないで」
弱々しく哀願する声。頬へ添えた僕の手を、彼女の細い指が力無く握った。すがるように。知らず、力無く僕の白衣を掴んでいた彼女を思い出す。
「先生、お怪我は」
「問題ありません。かすり傷ですし、すぐに手当てしてもらいましたから」
「私のせいで……」
「もう一度それを言ったら、怒りますからね」
少し強く言った僕の言葉に、馨子さんはまたゆっくりと瞬きをして、目を伏せた。長い睫毛のふちから、静かに涙をこぼす。
「でも、橋本様は」
「あなたのせいではありません」
僕は再度、はっきりと言う。橋本公の事故は、彼女とはかかわりのないところで起きてしまったことだ。それに、生きている。
馨子さんは涙をためた目で僕を見上げた。そして困惑したように、溜息のように笑った。
「夢かうつつか、寝てか覚めてか」
部屋の中では、風と月の明かりだけがゆるゆると遊んでいる。
「まだ夢の中なのかしら」
痛みを恐れて、夢であってほしいと乞うのか。幸せを思って、夢でなければいいのにと願うのか。
――夢でなければ、死んでしまう、と泣いていた彼女を思いだす。しあわせだわ、と。しあわせなことは、夢の中なのだと。
自分はどうなるのか、僕たちはどうなるのか、彼女は何も問わなかった。どうなってもいいのだと思っているのかもしれない。どうなっても受け入れるのだと。例え明日には放り出されても。
それとも、夢なのだから、先を気にかける必要もないと、思うのかもしれなかった。今はただそこに浸っていたいのだと。
「夢ではありません」
僕はそっと馨子さんの言葉を否定する。
「あなたは僕の夢ではないし、僕もあなたの夢ではありません。僕とこうしてここにいる」
この腕の痛みが、夢ではないと訴えかけてくる。目の前の寝台に横たわる彼女の存在も、夢などではないのだと。
少なくとも僕は、夢に逃げるわけにはいかない。もう、ひとりで座り込んでいた頃のようにはいかない。あの時のようには、あきらめなかったのだから。その分、果たすべきことが、抱えるべき物事がある。
弱々しい瞳が、少し驚きに見開かれる。熱い吐息がもれる。
「先生」
困惑したような声。けれど彼女はもう、言葉遊びのようには、否定を口にはしなかった。
「……義孝さん」
甘く、そっと大事そうに、馨子さんは僕の名を呼ぶ。
「死なないで」
幾度目かの言葉を、彼女は懇願する。ずっとずっと、自分に触れれば死ぬのだと戯言のように言いながらも、その覚悟があるのかと問いながらも、彼女が本当に言いたかった言葉なのだろう。僕はようやく思い至る。
誰も、自分に関わって死なないでと。
何もかもを、自分の生すらもあきらめているように見えて、本当はあきらめたくないのだ。
「どこにも行かないで」
熱に浮かされた、涙の滲む瞳で馨子さんは言う。ゆめうつつの瞳で。
僕は鈍くて、考えが足りなくて、嫌になる。僕はやはり昔と変わらないのかもしれない。自分のことばかりで、余裕がなくて、逃げてばかりで。きっと彼女を傷つけてきて、これからも傷つけるのだろう。
いつか、後悔するのかもしれない。いつか禍患に見舞われるのかもしれない。彼女を泣かせて、苦しめるのかもしれない。
いずれ恨まれ憎まれるようなことが起こるのかもしれない。彼女はまた苦しむのかもしれない。それでも構わないと思った。――失うくらいなら。
「ここにいます」
僕は熱を持った馨子さんの掌に口づける。そしてぼくも、懇願する。
「だから、ここにいてください」
すべてが、夏の夜に浮かされた夢でも。
終わり
一度完結済みとしていましたが、
中途半端な終わり方をしていたので、全体の改稿と同時にその後を掲載しました。
今回の主人公は「眼鏡で白衣で高学歴のヘタレ」がコンセプトでした。恋愛ものはジレジレしてなんぼであるという、どこから得たかわからない知識で、じりじり書いていました。
この時代の女性は働く口がほとんどなくて、生きていくために仕方なく妾になるしかない人もいたわけですが(沙起子のような女性もいましたが、本当に稀ですね)、義孝は「彼女はあなたの玩具ではありません」と言ってはいたものの、事実はそうであったようです。そういう馨子の立場をあまりしっかり書けなかった気がするので、その辺はちょっと心残りだなあ、と思います。
物語自体は、きちんと落ちていると言い難いところで終わらせてしまいましたが、これ以上はちょっと野暮かなあというのと(笑)、堕ちて堕ちていくようなものしか見えてこなくて、ですね。彼らにもここいらが良かろうと思っての幕引きです。……まあ、堕ちていく話も良かったかなあと思いつつ。
レトロ大好きなので、書いてて楽しかったです。
最後までおつきあいありがとうございました。