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十七、願い

「征斉さん!」

 女の甲高い声がして、幾つかの足音が駆けてくるのが聞こえた。女の声は馨子さんではない。こんな鋭い声は出さない。出せない。

「征斉さん、どうしてこのようなところにいるのです。まさか、こんな」

 駆けてきた女は血を見て、言葉と息を止めた。腕を抑える僕と、青年の手の肉刀を見て、息を吐く。

 女が何かをする前に、青年は再び肉刀を振りかぶった。女の悲鳴が上がる。彼の腕にとりすがり、また後から駆けてきた車夫の法被を着た男が、後ろからはがいじめにした。

「母上、止めないでください」

 額に汗をにじませ、青年が苦しそうに言う。

「その女を殺すのならば、母がかわりに殺します!」

 叫び声に、手首をきつく捻じり上げる男の手に、青年はこらえきれず肉刀を取り落とした。女は血濡れたそれを拾い上げ、青年から遠ざける。

 奇妙な静けさが、束の間落ちた。誰もが息を荒げて、意識を張り詰めている。ただ、月の明かりだけが降り注ぐ。

「征斉さんを俥に連れて行って」

 堅い声で、女性が車夫に言った。はがいじめにされたまま、額に汗を流して、青年は叫ぶ。

「母上、やめてください!」

 殺すのをやめろと言ったのか、連れていくのをやめろと言ったのか。呼ばれた女性は、青年を振り返ることもない。堅くなって、手に肉刀を持って立ちつくしたまま、僕を――馨子さんをにらんでいる。馨子さんと呼ばわりながら、青年は車夫に抑えられたまま、小さな門を連れていかれた。

 険しい顔で、奥方は吐き捨てた。何もかもの感情をぶつけるようにして。

「卑しい女」

 奥方は、馨子さんを見るのも嫌だと言う顔で、目線を僕の足元あたりに落とす。

「この、不吉な女のせいで。お前のせいで何もかも狂ってしまったわ!」

 肉刀を握る手が震える。彼女目はあまりにも危うい。

「彼女を罵るのはやめてください」

 滔々と恨みごとの流れ落ちてきそうな言葉を遮り、僕は言った。

「あなたの御子息が、今ここでしたことを、きちんと分かっていらっしゃるんですか」

 腕の傷がどくどくと脈打つようで、汗が滴る。

「この女のせいです。この、卑しい女が、皆を狂わせるのです! あの方も、この女にかかわらなければ、このようなことにはならなかった!」

 悲痛な叫び声だ。夫を失いかけ、息子すらも心を奪われ、そして息子の未来すら壊されようとしている。彼女からしてみれば、馨子さんへの恨みは、当然のことだ。

 だけど、不吉だと、すべてを押しつけるのは、勝手に過ぎると思った。

「彼女のせいではありません。あなたのお子さんが、ご自分の意志で、肉刀ナイフを使って、僕に切りつけたんです」

 僕は、強くはっきりと言った。痛みで語気が少し乱れるが、怒りに取り乱したりなどしない。

「高辻男爵に連絡して、俥をよこしてもらってください。話は義父としてください。警察に行くかどうかも」

 奥方は、馨子さんを庇う僕を、切りつけるような目で睨みつける。あの日の子爵と同じように、僕を見る。――お前もなのかと、言われている気がした。



 ガラガラと車輪の音が夜のしじまを遠ざかって行く。

 戸にもたれるようにして立っていた僕は、座り込んだままの馨子さんの傍に屈みこんだ。紺藍の夜の色に彩られた馨子さんの顔は、哀切に満ちて僕を見ていた。それが悲しくも美しいと思った。

 金色の髪の少女を思い出す。春の寒い夜、どこか覚悟した硬い表情で寝台に座る少女。そして明るい朝日の下、兄に腕を掴まれ、裏切者と泣き叫ぶ姿。彼女と共に生きるよりも、いずれ困窮することを思い、憎まれるのを恐れて、逃げ出した愚かな自分。

 あの日のように無謀には、馬鹿にはなれないと思った。恩義を忘れて駆けだすことはできないと。もう二度とあってはならないことだと、思っていた。

 だけど、馨子さんはエリカとは違う。輝くばかりの幸せに満ちた少女とは。ただひとつ僕の腕にすがって、泣くように笑っていたこの人は。

 いつか、後悔するのかもしれない。義父に迷惑をかけて、今度こそ醜聞から逃げられずに。苦しむ日が来るのかもしれない。

 だけども、あきらめないと僕は言った。

 子爵が亡くなり、僕もまたこの在り様で、馨子さんがどれだけ苦しむか、考えなくても分かる。もしここで、僕が去ったらどうなるだろう。病気の彼女は、ひとりで放り出されて、どうするだろう。

「先生、血が」

 僕の右腕を見て、僕の目を見て、馨子さんの声は不安に揺れていた。

「大事ありません」

 かすり傷だ。診療所に戻れば処置できる程度のものだ。

 今までと違い、確固とした僕の声に、馨子さんは困惑を隠せないようだった。

「先生、だめです」

 僕の顔を見て、馨子さんは苦しげに言った。喘ぐように。

「私に近づいてはいけないの。やはり、私は、いるべきではないの。私は」

「馨子さん」

 間違った言葉を口にしそうな彼女の先を言わせないよう、僕は強く呼んだ。

「僕はあきらめないと言いました。あなたもあきらめないと言ったじゃないですか」

 でも、と。彼女は言い募る。でも。

「死なないで」

 哀切に満ちた声が懇願する。これ以上自分に関わって、身を危険にさらすなと。

 痛みと熱さに気がとられるが、僕はなるべくゆっくりと言葉を紡いだ。

「馨子さん。この家は、療養に向きません」

 ――あなたが逃げても、僕が逃がさないと、僕は言った。

「身を起こすのもつらいことが多くあるようですし、お一人で放っておくことはできません。診療所への入院をおすすめします」

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