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十六、嘘

 濃い夏の夜の月明かりの元、白い肌と襯衣を浮かび上がらせて、青年が立っていた。開いた扉に少し表情をやわらげる。それはすぐ、驚きに変わった。品のいい唇が一文字に結ばれる。キリキリと音が聞こえそうなほどに。

「……征斉さん」

 橋本子爵の子息だった。茹だるような夜の不快さを感じさせない、さらさらとした短い黒髪の間から、凄絶な瞳が僕を睨んでいた。若さゆえにまっすぐな瞳が、月の光を返して鋭く光っていた。ただ、両手の拳がきつく握られている。

 思いもよらない人物だった。こんな刻限に、このような状況で、父の妾のところに来ていいような人ではない。そして僕は同時に、自分自身も、この場所にいてはならないことを改めて認識した。

 僕は玄関を出て、後ろに戸を閉める。馨子さんには話を聞かせられないと思ったし、聞いてほしくなかった。

「まさか、こんな夜分に診察ですか」

 青年の声は、遠慮がなかった。唇の端が怒りに歪んでいる。

 ただ、間男でしかない自分を思い、僕はすぐに言葉を返せなかった。どんなに嘘のようでも、そうです、とただ一言いうべきなのに。馨子さんのためにも。

「どうして何も言わないんですか」

 挑戦的に彼は言う。僕は身の内に籠った熱を吐き出すように、小さく息をついた。

「橋本様の事故を義父に聞きました。馨子さんの容体が心配になったのでこちらに伺ったのです」

「馨子さん、ですか」

 親しげに呼ぶ僕を揶揄するように、青年は言う。皮肉に片頬が笑う。僕は彼の言葉を待つのに耐えられなかった。せわしなく問うた。

「あなたは、何をしにいらしたのですか。お父上が大怪我をなさったというのに、家にいらしたほうがいいのでは」

 知らず責めるような言葉になったことに自分で驚き、悔いて、付け足す。

「橋本様のご容体は、いかがですか?」

 青年は苛々と、熱を孕んだ目で僕を睨み、言い捨てた。

「死にました」

 投げられた言葉に、僕は茫然として、咄嗟に言葉が出なかった。

 ――そんな馬鹿な、と。血の気が引いた。義父の口ぶりでは、命にかかわるようなものには思えなかったのに。

「馬車がひっくり返った拍子に頭を打って、しばらくは問題がなさそうでしたが、突然意識を失ったんです。そのまま眠るように亡くなりました」

何を言えばいいのか分からなかった。何を考えるべきか。

 僕を見たあの目。お前もかというようなあの目の持ち主は、私に触れると死ぬのだと言った馨子さんの言う通りになってしまった。

 悲しむべきだ。馨子さんのためにも。何より人として。医者として。

 恐ろしかった。同時に、少しだけこの背徳感から逃れられるような気がして、ほっとした。それがあまりにもおぞましくて、自己嫌悪にさいなまれる。

「それは、お悔やみを……」

 絞り出すように口にする僕を、青年は怒り、卑下するように見ていた。僕は目を伏せた。ふいに、彼が笑う。

「嘘ですよ」

「――えっ」

 思わず声が出た。青年を見る。嘲笑い、怒り、蔑む目が爛々と光る。僕の逡巡も、卑屈さも、卑怯さも見透かし、唸るように吐き出した。

「すぐに起き上がれるような怪我ではありませんが、生きています。嬉しいですか、残念ですか」

 容赦なく、僕の逡巡を言い当てた。

「その程度の覚悟で、あのひとに触れようなんて」

 その言葉も視線も、僕をその場に縫いとめた。汗がうなじに滲むのが分かる。



「征斉様?」

 後ろから、か細い声がする。慌てて振り返ると、開いた引き戸にすがりつき、馨子さんが座り込んでいた。眉をしかめて苦しそうに僕たちを見ている。まさかここまで這って来たのだろうか。

「無理をしてはいけません」

 駆け寄ろうとして、突然右腕に火のような熱が走り、僕は咄嗟に腕を抑えた。

「先生!」

 見開いた目が、かすれた声が僕を呼ぶ。

 熱い。

 何が起きたのか分からなかった。血の噴き出した右腕を見た途端、痛みが僕を襲った。汗が吹き出し、どくどくと心臓が強く鳴る。とっさに傷口を抑えるが、夜目にも明るい白衣が、赤黒く染まっていく。

 慌てて振り返った拍子、背が戸板に当たって、音を立てた。青年の手に、血濡れた肉刀ナイフが握られている。

 切りつけられたのだ。ようやく気付く。唖然として彼を見る。月の光をかえしてギラギラと光る瞳は強い。

「征斉さん」

 後ろから馨子さんが、やっとのように言葉を紡ぐ。これだけ声を揺らして、驚き震える彼女の様子を、見たことがなかった。

「先生を責めないで。私が夢をみただけなのです」

 何も、やましいことなど何も。僕が攻められるような事も、彼が憤るようなことも、ありはしなかったのだと。

「どうか、死なないで。殺さないで」

 哀切な懇願が、儚く落ちる。

「あなたは」

 月を背に馨子さんを見下ろして、青年は苦しそうに呻く。熱い息を苦しそうに吐く。

「あなたは、その男を庇うのですか」

 彼はあの日の僕と同じだった。無謀で、考えなしで、けれど彼は僕とは違い、恐れを知らなかった。己の持つもの何もかも、彼女の他に失うことを恐れていなかった。己の命も、彼女が失うもののことすらも。

 だけどこれは、あってはならないことだ。

 私に触れると死ぬのですって。そう言って笑う彼女の危うさは、ただ真っ直ぐに馨子さんを見る彼の眼差しに、どのように映るのか。

 怒りと悲しみにとらわれて、彼はしてはならないことを、あってはならないことを分かっていない。

 彼女に触れた男が、立て続けに命を危機にさらすなど、あってはならなかった。決してあってはならないことだった。

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