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十五、不幸を呼ぶ女

 義父がまた診療所にやってきたのは、数日後の夕方のことだ。夏の長い日も沈み始め、空が紺に染まりつつある時刻で、最後の患者が帰った後だった。義父は馬車で来ても俥で来ても近くで降りて歩いて来るが、今日は俥を診療所の前に横づけにした。

 患者用の椅子に座って僕と向き合った義父の表情は珍しく厳しかった。常にないことに、後ろめたさのある僕の体を緊張が縛る。

「随分慌ただしいようですが、お忙しいのではないですか? 呼びつけてくだされば、家まで行きますよ」

「いや、こちらの方が都合がいい」

 人出入りの多い診療所の方が屋敷よりいいということは、家の人間の目をはばかるような、内向きの用事だろう。

「上に行きましょうか」

「もう診察も終わったんだろう。ここで十分だ。そんなに長居もしない」

 そうですか、と僕は重い気持ちで応える。辺りを片付けていた沙起子さんが雰囲気を察したのか、診察室を出て行こうとすると、義父は彼女を手招いた。

「ああ、看護婦はいてくれ」

「え、はい」

 沙起子さんは少し驚いた顔で振り返る。戸惑いながら戻ってきて、僕の横に立った。

 人目をはばかる内向きの用で、沙起子さんにも聞かせる話など限られている。いよいよ僕は追い詰められた気持ちになった。義父に言われるより自分で口にする方が気が楽で、思い切って言った。

「お義父さん、本当に、すみません」

「何を謝っている?」

 義父が、何を急に言い出したのかといぶかしげな顔をしたので、僕の方が驚いてしまった。義父は明らかに、別のことに気を取られていて、口を挟んだ僕をたしなめるような目で見ている。

 馨子さんとのことが知れたわけではないのか。ホッとしたが、それならそれでどこか腑に落ちない気持ちもある。

 義父はいつになく落ち着かない様子で、大きく息を吐いた。

「橋本様が事故にあわれた」

 僕も沙起子さんも言葉もなく、ただただ驚いて義父を見る。

「橋本様の乗った馬車が道端の石に乗り上げて、車輪が外れて走行中に転倒したらしい。御自宅で静養なさっているとのことだ」

 その話に僕は、身動きがとれなくなった。私に触れると死ぬのですって、と言った女の声を思いだす。

「本当に、事故なのですか?」

「そのようだと聞いている。だが、貴族院からの戻りの際のことだそうだから、万が一にも事故ではない場合もある」

 自由民権運動を行う者の中には、過激派も多い。華族を無差別に憎む者もいるだろう。

 危険にさらされて、子爵はどう思っただろうか。身のすくむ思いがしたのではないか。事故のことよりも、自分が近づいた女のことに。己のしてきたことに。本当に事故ならば、些細な、何のことはない原因だった。命に別条はないというが、状況次第ではどうなったか分からない。

 子爵は、彼女から離れるだろうか。

 驚きと動揺と、色んな感情が自分の中を行ったり来たりしていて、その中に僕は強い喜びを感じ、愕然とした。医者のくせに。それに、彼女にかかわった人間が死にかけた、その事実に、彼女がどれだけ傷つくかなど容易に想像がつくのに。

 そして彼女に触れた男が死ぬのなら、僕は。

「では、馨子さん……大原さんは、どうなるんですか。橋本様からご依頼を受けていた女性です」

「橋本様は御静養とのことだし、急に捨て置かれるということもないだろう。ただし、あまり表だって口にしたくないような間柄ならば、家の方々も快く思ってはおられないかもしれないから、どうなるかわからない」

 遠くにいても自分を責める声が聞こえて来る、と馨子さんは言っていた。場合によっては、馨子さんは放り出されるのかもしれない。

 人は口さがない。男が妾を囲うのは公然とあることだったが、それを良しとしない人たちもいる。妾は所詮男の玩具のようなもので、婦権拡張論者たちはその実情を暴きたてた蓄妾報などというものを発行している。そういった人たちがもし子爵に目を向けて、馨子さんについての噂話を仕入れようとしたなら、決して難しいことではないはずだ。子爵は頓着しないようだったが、家の人々はそうではないだろう。子爵が身動きとれないうちに、お家の人たちが何かしないとも限らない。

「ご子息は」

「征斉様がどうかしたのか」

 ぽろりと僕が零した言葉に義父が不思議そうに聞き返すので、僕は意外に思い、同時にしまったと思った。

「橋本様から、何も聞かれていないのですか?」

「何の話だ」

 あまり言いふらす話ではないだろうとは思ったが、僕が義父に隠しておくことでもない。話の流れもあって、僕は控え目に言った。

「大原さんのお宅へよく行かれているご様子でした。診察の時にお会いして」

「……そうか。お家の方々がどう考えておられるにせよ、事故の件で捜査が落ち着くまでは、征斉様もそうそう外をうろついてはいられないだろう。それに結婚もしていない、これからの道行きが待つご子息を、周囲がそのまま放っておかれることはない」

 子爵の場合とは違う。もしかしたら近いうちにでも、彼の望み通りに洋行することになるのかもしれない。彼女から引き離す目的で。僕は少し痛みを覚えたが、表に出ないよう抑え込んだ。

「とりあえず、お前に知らせておこうと思ってな」

「……はい」

 僕はただ、小さく返答するしかできなかった。



 義父が帰った後、再び馨子さんのところへ行くと、彼女は眠っていた。トシ江さんは僕を通してから、素っ気なく帰って行った。

 なぜ、またこんな時間に、ここに来てしまったのか。

 子爵の話を聞いているなら、きっと傷ついている彼女を慰めたいと思い、知らないのなら知らせなければと思い、この話が彼女の病気の負担にならないわけがないから、診察をしなければと思い、そんなことがぐるぐると頭の中を回っている。

 このままでは、もしかしたら僕も子爵と同じようなことになるのかもしれない。見えない何かにからめとられるのかもしれない。

 褥に伏して、水底みなぞこに沈んだように眠る馨子さんの襟元は乱れ、汗で髪が首筋に張り付いていた。はだけた着物の裾から少し骨の浮いた膝があらわになって、紺藍の夜の色の中、白く光るようだった。細い足首が悲しくも扇情的だ。白い頬を撫でようと思ったが、眠りを妨げるのがはばかられ、軽く宙を泳いだ。ほつれた黒髪にだけそっと指先で触れる。

 静かに上下する胸元が深い眠りを示しているようで、頬や唇に口づけを落とすのがはばかられ、僕は黒髪にそっと口づける。汗でずり落ちそうになった眼鏡のブリッジを押し上げた。

「……先生?」

 かすれた声が聞こえて、僕は馨子さんの顔を見る。馨子さんは、瞼を重たげに瞬きしていた。それから投げ出すようにしていた腕をつき、起きあがろうとする。気怠げなのは、ただ気鬱なのではなくて、本当に体が持ち上がらないからだろう。

「無理をしてはいけません」

 僕は慌てて彼女に手を伸ばした。馨子さんは僕の手に掴まり、ゆるゆると半身を起した。僕の手を離すと、馨子さんは、ゆっくりと言う。

「橋本様の件、聞かれたのでしょう?」

 もしかしたら何の知らせも来ていないかと思ったが、きちんと彼女も知らされているようだった。子爵家の人が来たのだろうか。彼女が疲れた様子なのは、もしかしたらそのせいかも知れない。

「聞きました」

「驚きました。でも、やはりとも思いました。どこかで、何かが起きるに違いないと、ずっと思っていたのですわ。やはり私は不吉なのね」

 彼女の言う通り、彼女に触れた男が死ぬ。否、死んではいないが、死にかけた事実。彼女が唱え続けたことが、戯言でないと証明されたようなものだった。偶然でも。偶然だからこそ。

「先生、ごめんなさい」

「どうして謝るんですか」

「やはり、わたしが間違いでした。先生はもう、ここにいらっしゃらないで」

 思いがけず強い拒絶の言葉に、僕はうろたえた。

「好きだなどと、言うのではなかった。私に触れたら死ぬのだと知っていたのに」

 今更そんなことを言う。馨子さん自身が、僕を好きだと言ったくせに。会いたかったのだと。しがらみの何もかも、それがどうしたのだと、笑ったくせに。言葉遊びのように、僕を翻弄したくせに。

「それでも、踏み出したのは僕です」

 僕の言葉に、彼女は真に迫った声で言った。

「だめです、先生。あれは夢です」

 拒絶の言葉だった。

 ――エリカは。僕がアルフレートに引き渡した時、こんな気持ちだったのだろうか。

 だけども。だけども馨子さんは、逃げようとしているのではない。僕を突き放して、自分のために逃げようとしているのではない。

「馨子さん」

 彼女の言葉を止めようと、僕は知らず声が強くなった。

 その時、足音が聞こえた。小さな庭の土の上を歩いてくる。控え目ではあったが、足早だった。僕が戸口を見遣ると同時、戸を叩く音が響いた。遠慮がちながらも性急な音だ。僕の反論は、その音に封じられてしまった。

「こんな夜更けに、どなたかしら」

 馨子さんは顔をあげるのも億劫な様子で、褥に向けてつぶやきを落とした。

「放っておいていいのでは」

「ええ、でも何か、ただ事でない様子ですし」

 ――橋本公のことで何か知らせかもしれない。

 だが、橋本公が隠しているような、醜聞とすら思われている妾のところに、急ぎ知らせが来るものだろうか。こんな刻限に、わざわざ駆けてくるものだろうか。

「僕が出ます」

 立ち上がろうとする彼女を座らせながら言う。響子さんは抗おうとしたが、出来なかった。

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