十四、憐れみか欲望か、優しさか。
夕刻、診察時間の終わった診療所で、沙起子さんは忙しく働いている。器具を片付け、診察室の寝台を整え、箒を持って動き回る彼女を横目に、僕はぼんやりと椅子に座っている。
「先生、しっかりしてください」
厳しい声をかけられて、僕はハッとして沙起子さんを見た。彼女は箒を片手に部屋の真ん中に立って僕を見ている。
「私が口出しをすることでもないと思ってずっと黙っていましたけど、最近の先生はおかしいですよ」
「……おかしいですか?」
「ぼんやりなさっていることが多いですし、先日も患者さんに心配されていたじゃないですか。お医者様なんですから、しっかりしてください」
「それは本当に、お恥ずかしい限りです」
自分自身で恥じていたことだっただけに、指摘されて余計に情けなくなる。返す言葉もない。人に助けてもらってやっと診療所をやってこれているのだから、せめて自分に出来ることくらいはきちんとしないといけないし、人の命を預かる仕事でぼんやりするなど、あってはならないことだった。
肩を落とした僕を見て、沙起子さんの顔から少しだけ険が消える。
「手の早くない医者を探していると最初に言われていたのに、お忘れなんですか」
唐突な指摘に驚き、同時にまた恥ずかい気持ちで一杯になった。言外に彼女は僕を責めている。僕ならそんなことはないと言った彼女は、軽蔑しているかもしれなかった。
「そういうのじゃありませんよ」
「そうとは思えません。恋煩いの女学生みたいですよ」
彼女はいつもはっきりとものを言うが、今日は特に容赦ない。下手に否定をしても簡単に返されてしまう気がして、僕は何も言えずに彼女をただ見上げていた。沙起子さんはそんな僕を見て、さすがに言いすぎたと思ったのか、すみませんと小さく口にする。そして言った。
「空蝉ですよ」
投げられた言葉の真意が分からず、僕は考え込んでしまった。沙起子さんはそんな僕を残して、廊下の掃除に行ってしまう。
蝉の抜け殻。蝉はとうに生まれ変わり飛び去ったのに、脱ぎ棄てられ残された薄皮。形はあっても中身はないもの。
――それとも。
沙起子さんの言葉はやはり、言外に僕を責めている。そして、事実を突き付けている。
手に入らないから、欲しいと思うだけなのだと。
そうなのだろうか、昔も今も。ないものねだりをしているだけなのだろうか。身の程知らずに。
そうではない、と思いたかった。あの時の痛みも、この惑いも、そんなことのために抱くには苦しすぎた。
僕は、月明かりの元で立ち尽くしていた。沙起子さんも帰宅して一人きりになった僕は、白衣のままで診療所を出て、気がつくと、馨子さんの家の前に立っていた。
夜は静かだ。ジリジリと耳障りな虫の声も聞こえない。人の声も聞こえない。黒く塗り篭められた空の中、月が鮮やかに僕を照らしている。
人は高価な灯りを惜しみ、早く床に着く。身分は撤廃されても貧富の差は大きく、この辺りに住まう人は決して裕福ではない。道端には瓦斯灯が皓皓と照っているが、そんなものは道の隅まで照らすことができない。ほんの少し闇を押しのけはしても、人の賑わいを呼ぶまでにはならない。
物音のない夏の夜空の下、ぐるぐると迷い、躊躇っている。自分が追い返しておいて、子爵が来ていない様子なのが、余計に僕を惑わせる。僕は拳に握った手を持ち上げ、そして下ろした。戸を叩こうとして結局やめる。起きているだろうか。あれほど疲れきっていたのだから、眠っているのではないか。繰り返し考える。
だけどこんなことをしていても仕方がない。僕はようやく、試しに戸を叩いてみて、反応がなければ帰ろうと意を決し、拳を持ち上げた。もう何十回にもなる動きをまた繰り返し、今度こそ戸を叩いた。どうせ、気づかないだろう、眠っているだろうと思いながら、起きていてほしいと思う。ぐるぐると矛盾する思いに翻弄されていた。
しばらく立ち尽くし、僕は、軽い安堵と大きな落胆が自分の中に満ちていくのを感じていた。それに浸っていた。今更、なんだと言うのだろう、僕は。
知らず強張っていた体を解くように、大きく息を吐く。すると最初の日と同じように、軽い足音が聞こえてきた。途端に今度は逃げ出したくなる。なのに、縫いとめられたように足が動かなかった。
窺うように、遠慮がちに、扉が開く。顔を覗かせた馨子さんは、夜の暗さのせいもあるのだろうがひどく顔色が悪く、僕は心臓を突かれたような気持ちになった。僕と目が合うと、彼女は微笑んだ。
「まあ、どうなさいましたの」
「起き上がれるのですか」
答えになっていない言葉を返した僕に、彼女は冗談めかして言う。
「夜の尋ね人はお迎えするものよ」
僕は、今度は言葉に詰まってしまい、彼女は更に笑った。
「誰かそばにいてくれないかしらと思っていたところでしたの。だから、開けてしまいましたわ。どうぞ、お上がりになって」
「いえ……」
ここに来て僕はようやく、自分が何をしているのか、その意味が、今更ながらじわじわと頭を浸していくのを感じていた。
何をやっているのだろう。ここに来るなんて、どれだけ軽はずみで、考えなしなことをしているのか、僕は。沙起子さんにも忠告されたばかりだと言うのに。
何を言えばいいのか分からなくて、何もうまく言葉にならないようで、結局また、自分の行動に矛盾することを返してしまう。
「もっと、ご用心なさってください」
こんな夜更けの訪問者を簡単に家に上げようとするなんて。
「何をおっしゃいますの。先生なら、いつでも歓迎いたしますわ」
「僕だろうと誰だろうと、関係ないでしょう」
「ここで押し問答していると、誰の目に触れないとも限りませんわ。私は構いませんけれど、万が一にも先生の評判に傷がつくと困ります」
「いえ、僕は、そんなことは。いえ、そうではなくて」
いつもの戯言と変わらない言葉に、僕はたじろいでしまう。
「こうして立っているのも、今は疲れますの。どうぞ、お上がりになって」
自分の病気を盾に取るように、彼女は微笑んだ。そして彼女の病状を知っている医師の僕は、その言葉に逆らえない。
してはいけないことをしていると、自分自身のつぶやきが聞こえる。警鐘がどこかで響いている。
最初の日のように――いつものように、彼女の後ろをついて歩く。躊躇いながら。
無防備に庭へ続く障子を開け放ち、簾だけを垂らした部屋の中に、密やかに月明かりが忍び込んでいる。ずっと床についていたのか、部屋には寝具が延べられていた。それにうろたえ、僕は部屋に踏み込めずに足を止める。本当に、何をしているのだろう、僕は。
「どうかなさいましたの?」
立ち尽くす僕に、彼女は振り返り問いかけてくる。それは、なぜ部屋に入らないのかと問われたのか、何をしに来たのかを問うているのか、判断がつかなかった。馨子さんは本当に起きているのもつらそうで、寝具の上に座る、その仕草に何の他意もないはずだ。
「いえ、すみません、やはり帰ります」
「どうして?」
問いかけてくる声は裏がない。
「私は、とうとう本当に、先生に軽蔑されてしまったのかと思っていました。おかしいでしょう。最初から嫌われていて当然なのに。私のような女」
そんなことはない、と口に出来なかった。もう、わけの分からない思いに捕らわれて。とどまるか、帰るのか、そればかりに気を引かれている。
「そんなことを言わないでください」
微笑んでいても、この人のか弱い手は、いずれ僕を突き放すかもしれない。
僕は。
「あなたに……」
言いかけ、言い切れずに口を閉ざした。そうしてようやく僕は彼女が、立っている僕を見上げているのもつらそうなのに気づく。ためらいながら部屋に足を踏み入れた。最後の境の一歩を、踏み出してしまった。
彼女の傍に膝をつく。彼女は言葉の先を待っている。もう知っているだろうけれど、おとなしく待っている。
あなたに会いたくなっただけなのだと。
それだけのことが、言葉にならなかった。僕が口を閉ざしたまま固まっているので、彼女は言った。
「私は、何でも構いませんの。先生にお会いできて嬉しいわ。ご用事などなくても、来てくださって嬉しいわ」
寂しげに笑う。
恐れよりも、馨子さんが決して今まで見せなかったその表情に、僕は突き動かされていた。
気がつくと僕は、彼女の唇を求めていた。覆いかぶさるようにして唇を覆う。
乾いた唇だった。瑞々しいとも、熟れて誘っているようだとも言えない唇だったのに、なぜそんなにも欲しいと思ったのか。
彼女の唇を舐めるようにして自分の唾液で湿らせて、潤わせるように唇に噛み付いて。何度も深く重ねる。眼鏡が当たり、僕は我に返った。
弱々しい手が僕の胸元に伸び、押しのけられるかと思ったが、違った。白衣を掴み、握り締められる。そのことで逆に僕は、彼女の体を離した。
間近に美しい顔がある。病で食が細くなっていなければ、もっと華やかだっただろう。決して顔色がいいとも言えないのに、唇だけが赤くなっている。征服欲をあおるような清廉さがあるわけではない、知らずに食らいつきたくなるような熟れた女などでもないのに、また乱暴な気持ちが煽られるように思考を覆い、けれど僕は、僕の白衣を掴むことでようやく身を支えている彼女を見て、感情を押し留めた。
疲労させるのはいけない。苦しめてはいけない。考え込む要因を作ってはいけない。何より周囲の理解が必要で、それを承知している自分が彼女を傷つけるような行動に出てはいけない。
僕は、自分が蔑んだ男と同じことをしようとしている。
「すみません」
「どうして謝るの?」
言葉と共に彼女の息が、僕の首を熱くくすぐった。それから逃げるように、僕は顔をそむけて項垂れた。
「僕は、卑怯だ」
「どうして」
彼女は問うが、分かっているはずだ。子爵を自分が追い返しておいて、きっと彼が今日は来ないだろうことが分かっていて、こうして訪れる僕のことなど。
「すみません。僕は、医者なのに」
「それが、どうしたというの」
珍しくはっきりとした声で、彼女は言った。僕の眼鏡をとりあげる。
「ねえ、義孝さん」
そしてすぐに微笑んで、ゆるやかに僕を呼んだ。はじめて、僕の名を。
体の奥に、痺れが走る。
彼女は、子爵の女だ。先に進めば、何もかもを壊してしまう。もうあの日のように恩義を忘れて、駆けだすような無謀さは持てない。
彼女の本心が分からない。本当は、僕なんかよりも子爵を恋うているのではないかと、肝心のことを問えない。
触れてはいけない女。体をひさいで生きている低俗な女。それに変わりはないはずなのに。
傷つきやすい人。
僕は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。髪の中に指を差し入れる。彼女は、気持ちよさそうに目を閉じる。まるで猫がじゃれついているようだと思い、急におかしくなって、笑ってしまった。
真夏の夜のじりじりと咽るような空気が満ちている。吸い込むものは熱気の塊のようで、ただでさえ息苦しくなる中、汗ばむ肌を触れ合わせて、熱い息を吐く。
眼鏡がなくても、間近な馨子さんの顔はよく見える。彼女の顔を見下ろしていると、彼女は笑っていた。
「こんなに楽しい夢は久しぶり」
吐息の合間に、間延びした声が囁く。
「夢?」
「お医者様に恋するなんて、幻なのでしょう? それならこれは夢なのだわ」
言葉と共に、彼女は体を震わせている。動きにあわせて乳房が揺れた。泣いているのかと思ったが、彼女はやはり笑っていた。
しあわせだわ、と。囁きが熟れた空気を振動させる。膨れ上がって、熱く満ちる。
この熱のような、姿はあっても形のないもの。
空蝉の、蝉の抜け殻のような。
眠って見る夢。起きているときに見る夢。吐息の合間に見る錯綜の夢。どれも、束の間の霞だ。揺れて消えるうつつの幻。淡い薄明かりの向こうに浮かんでは消える程度のもの。手に掴めなどしないものだ。
「僕は、あなたの夢なのですか」
夢かうつつか寝てか覚めてか。
彼女が以前に、唇から落とした言葉が脳裏をよぎる。これは夢なのか、現実なのか、寝ているのか、起きているのか。
この逢瀬も、願ったあまりに見た夢なのか。
「そうよ」
「あなたは、僕の夢ですか」
「そうよ」
夢でなければならないのだと。
笑いながら彼女は泣いていた。幸せそうに泣いていた。
「でないと、あなたは死んでしまうもの」
言葉は、冷たく僕の心の中に落ちた。彼女が幾度となく、遊びのように唱えていたこと。それは彼女にとっての、何よりも恐れだった。痛みだった。
ローレライ。人を惑わせ死に導く女。
ただ、不器用で不幸で翻弄され続けた女。
「死にませんよ」
頬に口付ける。つぶやきと共に吐息が彼女の頬に触れて、自分の熱い息が僕に跳ね返る。熱は僕らの間に横たわり、辺りに溶ける。涙を溜めた目元に口づけ、閉ざされた瞼に唇を落とした。
――ローレライではない。
「言ったでしょう。あなたがあきらめない限りはあきらめないと。僕は医者ですよ。多少のことがあっても、自分でなんとかできます」
他の人とは違うと、気休めを唱える。
例えこうして触れ合っても、先が見えない。それは僕が死ななくても、変わらずそこにある現実で、僕らは身動きがとれない。それでも。
「あなたが逃げても、僕が、逃がしませんから」
清廉な愛情というものではなく、執着の情念の糸でもいい、絡み付いて互いをつなぎとめるのなら、彼女をこれ以上追い詰めないものなら、なんでもいいと、焼けるように思った。