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十三、雨と蝉、恋と駆け引き。

「怒っていらっしゃるの?」

 僕が馨子さんのところに戻ると、彼女は僕を見上げて言った。不安そうというよりは心配そうだった。僕はなるべく静かに息を吐き、普段通りの声でゆっくりと応える努力をした。

「違います。僕が怒る筋などありません」

 民家の並ぶ界隈で、つい大きな声を出してしまったことが情けなかった。声を荒げて言い争う男の姿は、近隣の人間にとっていい話の種だろう。何より僕の方が馨子さんにとって迷惑になるようなことをしてしまった。あの声が彼女にも聞こえただろうか。

 馨子さんは小さく息を吐いた。少し笑ったようだった。

「私、橋本様とお会いしてもう二年になりますわ」

 唐突な言葉に戸惑った。そして長いというべきか、短いというべきか答えあぐねていると、彼女はまた息を吐く。今度こそ彼女は薄く笑った。

「雨の日でしたわ。以前住んでいた家の近くにも川がありました。夫を病で亡くして、お葬式が終わって、惚けておりましたの。橋の上に立って」

 声は力なく、彼女が随分と無理をしていることが伝わって来たが、どこか有無を言わさない雰囲気があった。

「……そうですか」

「そこに、橋本様の馬車が通りかかりました。あの方は馬車の窓をお開けになって、おっしゃいました。立ち惚けてそのように濡れてどうしたのかと」

 雨の帳で怪しく視界が霞み、そこに濡れそぼった女がたたずんでいたなら、妖怪変化の類かと思ったかもしれない。もしくは、橋の上にぼんやりと立ち尽くしていれば、身投げだと疑われても不思議はない。

 だけど僕は、あの子爵が、道端で困っているだけの女に声をかけるとはあまり思えなかった。それでも声をかけたのは、そのとき立っていたのが、彼女だからなのか。

「それは、驚かれたでしょうね」

「ええ、子爵も驚かれたでしょうが、私も奇妙なことがあるものだと思いました。まだ、こんな不吉な女に声をかける人がいるのだと。それがおかしくて、行く場所がないのです、と答えました。子爵は馬車に乗せてくださった。それだけですわ」

 物語は唐突に締められた。まだ話が続くものだと思っていた僕は、少し気が抜けた。

「それだけ……ですか」

「それだけですわ」

 劇的な出来事など何もない。

「だって私、行き場がありませんでしたもの」

 僕が何も言わずにいると、彼女は何ほどのことでもないように口にした。もし、そこで子爵に出会わなければ、彼女はどうしていただろう。

 僕はもう一度、今度は声に出さず、それだけなのか、と心の中で唱えた。夫を亡くしてすぐ、違う男に身をゆだねることができる彼女に少しばかり嫌悪を抱き、そんな自分に驚く。同時に、それだけ途方に暮れ、投げやりだったのだろうと、思い込もうとした。

 そして、それだけなのか、と思った、その事実は橋本子爵に対しても同じだった。

 馨子さんはその時きっと、彼にも言っただろう。「私に触れると死ぬ」と。橋本公の目には、そんな彼女は、哀れな儚い女に映ったのだろうか。それとも、その言葉は、ただの戯言に聞こえたのだろうか。それとも、駆け引きをする誘い文句だと思っただろうか。世情に飽き、遊びに飢えた貴族には、それも新しい遊戯だったのだろうか。

「それは、とても印象深い出会いですね」

 慎重に口にした僕に、馨子さんは、ええ、と淡白に答える。

 恋なのですか、と問いたかった。真実そうなのか、それとも、そう思いたいだけなのか。思って遊んでいるだけなのか。思い込めば、恋が出来る人もいるだろう。他の感情を摩り替えることが出来る人も。けれど馨子さんは、それに縋ろうとしているようには思えなかった。

 ただ、漣に流されている、小さな笹舟のようだった。

「私、先生のことが好きよ」

 以前とは違う。はっきりと馨子さんは言った。

 僕は以前とは比べ物にならないくらい、自分が真っ赤になったのが分かった。ただでさえ熱気に包まれて暑いのに、顔が火を噴くようだ。ただし、以前のような動揺とは少し違う。

 僕は顔を伏せて、前髪で顔を隠そうとした。見せられる表情ではなかったから。遠くで、茹だる季節の短い生を、蝉が泣いている。暑さに浸された思考が、耳鳴りのような音の嵐の中で翻弄されてさまよっている。僕らの周りだけが静けさに包まれていて、世界から切り離されたようだ。

 他の男との出会いを語った口で、好きだと言うのか。

「医者に恋をするなんて、幻だと、言いました」

「そうね。だけど、幻かどうかは先生が決めることではないわ」

「僕は、駆け引きには向いていないんです。からかうのはやめてください」

「あら、からかってなどいないわ。とてもとても好きよ」

「馨子さん」

「どうお思いになっても構いませんわ。ですが、からかってなどいません。私、こういったことを冗談で口にはしませんの」

 嘘だ、と思い、嘘ではないだろう、と思った。

 振り回されている。その実感だけは強く残った。

 女性からそんなことを言うなんて――と、口幅ったい連中ならば言うのだろうか。逃げ口のようにそんなどうでもいいことが頭の中を走り去り、僕は大きく息を吐く。緊張から自分を解くように。

「あなたには子爵がいるでしょう」

 彼女は矛盾している。自分に近づくな、触れるなと言いながら、自分と僕の身上をよく理解していながら、僕を好きだと語る、それは卑怯な気がした。

 僕に何ができるというのだろう。馨子さんを診察する、それ以上のことは許されていない。先ほど子爵へ口出しですら、医者としての言葉とはいえ、分をわきまえていないと思われているに違いない。できるのはそれが精いっぱいで、行き止まりだと思った。

 手に入らない不条理にも、立場の違いも振り切って、逃げようとした無謀な頃には戻れなかった。もう二度と義父に迷惑をかけられない。

 それに彼女は、だから僕にどうしてくれとは言わない。好きだから一緒に逃げてくれとか、子爵と別れるとか、そういうことを一切言わない。ただ、好きだとだけ言うのはずるいと思った。振り回されてはいけない。

 僕が自分を言い聞かせているのを見透かしたように、彼女は言う。

「それだけだと言いました。恩義は感じているけれど、利害の一致です」

「それでもです」

 突き放すような言葉に、彼女は静かに笑んだ。空気が変わったかのような、優しく、そして清閑な笑みだった。

「夢かうつつか、寝てか覚めてか」

 歌うように、鈴をふるような声で唱える。

「どうせ何もかも、夢なのですもの」

 相変わらずに、本気とも戯言ともつかない様子で。

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