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十一、突きつけられたもの

 しばらくして往診に向かうと、また馨子さんは床に寝付いていた。戸を叩いても玄関までの出迎えはなく、ただ、どうぞ、と声だけが聞こえた。

「先生、ごめんなさいね。今日は起き上がる気力もなくて」

 戸惑いながら勝手に扉を開けて、暗く蒸した家の中に入る。部屋に上がった僕を見上げて、馨子さんは力なく言う。閉じられた障子が外の眩しさを遮断している。薄暗く蒸し暑い中で、馨子さんは一人、水底に沈んだかのようにぐったりと横たわっていた。

「眠っておられたのですか?」

「ええ」

「それは、お起こししてしまってすみません」

 彼女の横に腰をおろした僕に、彼女はゆっくりと首を横に振る。

「先生にお会いするのが楽しみなんです。せっかくお越しくださったのに気づかないまま眠りこけているほうがつまらないことですわ」

「何かまた、無茶をされたのですか?」

「いえ、そういうわけではありませんの」

 話をするのもつらそうだった。そして馨子さんは、いつもよりもずっと物憂い目で天井を見遣る。先日、子爵の息子がこの家から出てきたのを見た時と、似たような状態だった。だがあのときよりもずっとひどい。彼女は否定をしたが、無理をして動き回った後の、重度の疲労がのしかかっているように見えた。

 すみません、と声をかけてから、馨子さんの首筋に手を当てる。やはり少し腫れている。何より熱い。

「体の痛みはありますか?」

「……少しだけ」

「いつもよりひどいですね。薬はお飲みになりましたか?」

「いいえ、何をする気にもなれなくて」

「いけません、それでは治るものも治りません。せめて熱冷ましくらいは飲んでください。何か、飲み物は?」

「いいえ、何も」

「脱水症になってしまいますよ」

 僕は、途中で氷でも買ってくるべきだったと悔やんだ。ここはひどく暑い。思いながら周囲を見回しても、この家には馨子さんの他に人が見当たらなかった。お勝手(だいどころ)だろうか。

「身の回りのお世話をされている方は?」

「今日は参りません」

「どうしてですか」

 驚き、僕は跳ね返るように口にしていた。あまりにも彼女が放り出されていることが多い気がしたからで、それは病人の看護を兼ねた人間にしてはいい加減なのではないかと、少しの怒りもあった。

 馨子さんは物憂く、唇に薄い笑いをうかべる。天井を見たまま、僕に目をあわせずに言った。

「昨夜、子爵がいらしたから」

 殴られたような気がした。

「私が人に会いたくなくなるんです。子爵がいらした翌日は来ないようにと言ってあります」

 何も言えずにいる僕に、彼女は続ける。何かを非情に突きつけられた気がした。見せ付けられた気がした。

「橋本様は……」

 口にした声が、震えていた。最後まで言葉にならなかった。何をこんなに動揺しているのか、よく分からなかった。なんだろう、これは。何故こんなにも心が揺らぐのか。そんな僕に、馨子さんはようやく目を向けて、薄く笑いながら言った。

「時々ひっそりとお見えになります。私はこんな風だからきちんとお迎えするのも億劫で、お傍にいてお話を聞いているくらいしかできないのに。それから、私を抱いてお帰りになるわ」

 どす黒いものが吹き上げ、体中を駆け巡り、目の前が赤くなった。

「もし、ご気分が悪いのなら、お断りになれば良いのでは」

 できるはずのないことを、僕は口にしていた。何を考えているのか、考えればいいのか、まともな思考がすべて吹き飛んでいた。

 そうですね、と馨子さんは小さな声で応えた。

 その姿に、また僕は打ちのめされる気がした。

 彼女は子爵の金で生きている。生かされている。求められて断れるはずもないだろう。いや、断ることはできるかもしれないが、彼女にはできない。健康なら、押しのけることもできるのだろうが。

 大切な人が目の前で苦しみ助けを求めていても、動くことが億劫で何もできず、脱力感と罪悪感に苛まれて苦しむ人がいる病だ。

 彼女を疲弊させるのが分かっていて、彼女を抱いて、満足して帰っていく男。それは彼女の中に深い傷と、困惑を残していくはずだった。何を求めているのだろう、何を求められているのだろう、その逡巡をさせることは、彼女の病状に良くないはずなのに。そんな男のことを醜いと思い、同じ頭で、彼女は泣いただろうか、それすら億劫で、なすがままになっていたのだろうかと考える。そしてまた、黒い渦が体の中で吹き荒れた。

「本当の本当は、先生にこんな姿は見られたくありませんわ。でも、先生にお会いするのが楽しみなのも本当なんです。先生といるのは、とても心地がいいから」

 細い細い声。ひどい眩暈と頭痛がした。僕は、自分の焼けるような意識を持て余し、うろたえ、翻弄されていた。

 なんだ、この感情は。

 震える自分の指先を凝視する。先程、彼女の首筋に触れた指だった。――なぜこんなにも。

 最初から知っていたはずではないのか。彼女は子爵の女だと。

 あまりにも濁りとはかけ離れていて、子供のような戯言を投げかけてくるから、無邪気に楽しそうに言葉を口にするから、そういう影を今まで意識しなかったのだ。知ってはいても、彼女も、自分はつまらない堕落した女だと幾度も口にしていても、生々しさを伴って自覚するまでにはならなかったのだ。いつも物憂そうに、人は疲れると言うから。

 これではまるで――。思い至り、即座に否定する。

 違う。そうじゃない。そんな感情は持たない。もう二度と、持たない。

 エリカのことを思い出したからだ。だからまだ動揺しているだけだ。僕がエリカを突き放したのに、自分が突き放されたような気持ちになっているだけだ。

 楽しかったときよりも、エリカと寄り添って眠ったときのあの痛みを、僕を詰って泣くエリカの声を顔を思い出し、苦しみばかりが強く心に残っているのは、僕が逃げてばかりいるからなのだろう。毎日を静かに送ることができればそれでいいと思いながらも、決して満ちてはいないからだ。

 だからこんなにも簡単に揺さぶられる。このままだと、何を口走るか分からなかった。

 震える手を握り締める。こんなことでは、医者としてもやっていけない。僕は懸命に、自分の感情を鎮めようとしていた。

 だが、外での物音に気づく。戸を叩く音。男の声。――まさか。僕はそのまま動けなくなり、馨子さんの顔を見る。

「続けてお越しになるなんて、珍しいこと」

 彼女は、独り言のように呟きをもらした。

 僕はまるで、昼日中に女の下を訪れた間男のような罰の悪さを一瞬味わい、そしてそんなものを押しのける感情に支配されていた。

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