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十、青い目の少女。

 バンと大きな音をたててドアが開き、金色の女性が飛び込んで来た。部屋に集まって談笑していた僕たちはびっくりして止まる。少女とも女性ともつかない年頃の彼女は眉を吊り上げ、大きな青い瞳を怒りで一杯にして、大きな声で言った。

「兄さん、また私を置き去りにして遊びに行ったわね!」

「みんなでビールを飲みに行ったんだよ。小さな子が来るようなところじゃない」

 部屋の主のアルフレートが、あきれた顔で言う。集っていた学友たちのうち、慣れた者はくすくすと笑いをこぼした。あからさまに子供扱いをされた上、簡単にあしらわれて、彼女の白い頬が見る見る赤く染まっていく。

「子供扱いしないで。もうレディなんだから!」

「レディはドアを蹴破って大声で叫んだりしないよ」

「大げさなこと言って茶化さないで。それに兄さんが……!」

 彼女は言いかけて、あんぐりと口を開いたまま止まった。驚いた顔で僕をまじまじと見ている。見慣れない顔だとでも思ったのだろうか。僕はどうすればいいかわからず、とりあえず笑いかけた。すると彼女はまた眉を吊り上げて言った。

「子供だっているじゃない!」

 仲間たちは顔を見合わせ、それから吹き出した。

 それが彼女との出会いだった。



 僕が診療所に戻ったのは夕刻だったが、自室でぼんやりとしている間に日が落ちてしまった。窓から入る星明かりの中、僕はただ、机の上に置いた麦酒(ビール)の瓶の麒麟キリンの絵を眺めている。

 ジャパン・ブルワリー社の麦酒(ビール)は、独逸ドイツの設備で作っているらしい。ずっと、なるべく目にしないようにしていたし、飲むのを避けていた。留学していた頃、陽気な学友たちと一緒に飲んだのを思い出すからだ。浅草で購入する僕を、義母が心配そうな顔で見ていたが、僕は気がつかないふりをした。

 木栓(コルク)の栓を開けた途端に、酒精(アルコール)の匂いが広がった。泡の弾ける音が小さく聞こえる。瓶のまま口に運び流し込むと、ほのかな苦みが口の中に広がった。懐かしい味と共に、暗い部屋の中、友人たちの談笑が聞こえてくる気がするから不思議だ。僕は少し泣きたくなった。

 日本の夏は息苦しく、むせかえるようだが、それに比べると独逸の空気はまだ澄んでいた気がする。

 帝国大学を出てから、僕は民顕(ミュンヘン)の大学へ留学した。僕は日本人よりも体の大きな異国の人々や、まったく違う街並み、飛び交う異国の言葉、慣れないものばかりに怖気づいていたけれど、同級の友人たちに恵まれていたと思う。彼らも極東の島国からやってきた僕が物珍しかったのかもしれない。

 アルフレートは貴族ではなかったが、豪商の息子だった。同じ大学で経済を学んでいて、僕と同じ医学部の学生を通して知り合った。いくらでも部屋があるからいつでも遊びに来い、と黒髪を揺らして快活に笑う彼のまわりには、いつも人が集まっていた。

 ある日部屋に飛び込んできた金髪の女性に面食らっていると、アルフレートは必死で笑いを堪えながら言った。

「悪いな、ヨシタカ。俺の妹だ。子供の言うことだから、気にしないでくれ」

 彼の妹なら、まだ十代の少女だ。同じ年頃か少し下くらいかと思っていた僕は、少しばかりショックを受けた。ぼくなんて、外国の人たちから童顔だと笑われても仕方ない。

「いいんだ、日本人にしてみたって、僕は幼いんだ」

 肩を落として言った僕を見てアルフレートたちがまた笑い、蚊帳の外にされた気持ちになったのか、高い声が抗議した。

「兄さん、子供扱いしないでったら。その子は誰なの?」

「留学生だよ。お前より年上だ」

「年上だなんて嘘よ。同じ年か、年下にしか見えないのに」

「確かにヨシタカは童顔だけど、俺よりも年上だ」

 アルフレートの言葉に、彼女はひどく衝撃を受けた顔で、今度は大声で叫んだ。

「そんなの嘘よ!」

「ええと、日本で大学を出た後こちらに来たから、アルたちよりもずっと年上なんだよ」

 僕が遠慮がちに言うと、少女はびっくりして僕を振り返った。言葉がおかしかっただろうか。僕が少し考え込んでしまったところで、彼女は何故か少し傷ついた顔をした。



 その数日後、また彼女に会ったのは偶然だった。僕は一人で図書館にいた。建物の中は蒸して熱く、手布(ハンカチ)で額の汗を抑えながら本を読んでいるところだった。

「ヨシタカ!」

 大きな声で呼ばれて、びっくりして顔をあげると、少女がにこにこしながら駆けてくるのが見える。彼女はまったく周りを見ていなかったが、僕は人々の視線が痛くて、そそくさと本を片付け、駆け寄って来た少女の背を押してすぐに図書館を出た。

「どうしてそんなに慌てているの?」

 外に出ると、彼女は不思議そうな顔で僕を見た。まったく悪びれない態度に、僕はただ苦笑する。

「君も本を読むの?」

「読むわ。物語を読むのは好きよ。知らないところをたくさん旅が出来るから」

 好奇心旺盛な少女は、目を輝かせて言った。

 初めて会ったあの日、少女は兄に笑い含みに叱られて、ヨシタカさんごめんなさい、としおらしく謝ったものだが、今はもうその様子のかけらも見えない。

「君の名前をまだ聞いていなかった」

 正しくは、彼女が大騒ぎをしたせいで、聞きそびれていた。

 あら、と少女は驚いた顔をする。少し考えるような様子を見せてから、パッと花が咲くように笑った。

「本当、おかしいわね。エリカよ。エリカ・クリューガー」

「エリカ」

「そうよ、雪の中に咲く花と同じ名前よ。知っている?」

「まだこちらで冬を過ごしたことがないから、わからないな」

「ピンク色のかわいい花なの。わたしみたいに。うちの庭にもたくさんあるのよ。咲いたら見に来るといいわ」

 そう言ってエリカは、輝くように笑った。

 新しいおもちゃを見つけたように、彼女はよく僕のところにやってきた。他の人の前ではヨシタカさんと言うが、二人になるとヨシタカと呼び捨てにする。

「だって、どうみたって同じ歳か、年下にしか見えないもの」

 それが彼女の言い分だったが、かわいらしい主張に、反論する気にもならなかった。

 僕たちは図書館で一緒に本を読み、魚の噴水(フィッシュブルンネン)で待ち合わせをして、公園を散歩した。僕が、自分にない明るさを持つ彼女に惹かれるのに時間はかからなかったし、彼女も僕のことを思ってくれていた。ただ肩を並べて歩いて話すのが楽しかった。

「こちらの夜は短いね。驚いたよ。日本ならとっくに真っ暗な時間だ」

「夏だけよ。一年中じゃないわ」

「やっぱり冬は日没が早いんだね」

「冬は昼でも雲ばっかりで暗いわ。すぐに夜が来るし、ずっとどんよりしているの。夏が明るいだけ冬の寒さはつらいわ」

「随分と極端なんだな」

「ヨシタカの国は夏も真っ暗になるの?」

「日は長いけど、この国ほどじゃないね。日本の夏の夜は、闇が鮮やかで、とても綺麗だよ」

 漆黒の空に満点の星。聞く限りこちらの季節も極端だと思ったが、日本の夏の色彩の艶やかさを思い出すと懐かしい。

「帰りたくなるから、あんまり思い出したくないな」

 そんなことを言うと、エリカは束の間寂しそうな顔をするのだが、それが恥ずかしかったようで、すぐにふくれっ面になった。

 やがて長い夏がゆっくりと去り、秋がやってくる頃から、エリカと会える時間が減っていった。彼女の言っていた通り、重い雲がのしかかり、雪が降るようになる頃には、ほとんど会えなくなった。僕は、雪の中に町が埋もれて深々と冷え込む中、エリカが駆けてくると危なっかしいから、そのせいであまり外出が許されないのかもしれない、と呑気に思っていた。

 けれどある日、アルフレートが言った。

「エリカのことは諦めてくれ」

 僕とエリカは、ただ一緒に歩いて話す、それだけの関係で、何かの約束事をしたことなどない。それをアルフレートに話したこともない。けれど、逆を言えば後ろめたさがあったのも確かで、僕はうろたえた。

「何か、あったのか」

「俺の親は、エリカを貴族と結婚させたがってる。目当ての子息に引き合わせようとしたら、エリカが大騒ぎで怒って、お前のことを言ったんだ」

 僕は自分が蒼褪めるのがわかった。そんな僕を見て、アルフレートは眉を寄せて、彼自身苦しそうな顔をした。

「エリカのことを考えるなら、身を引いてくれ。親は遠い国の人間にエリカはやれないって。お前はいい奴だが、俺もそう思う」

 日本は世界に追い付こうと必死だったが、列強にとってみれば僕の国は雛っこでしかない。見知らぬ国の、どこか遠くから来た異国の人間が、大事な娘にちょっかいを出すのにいい顔はしないものなのだろう。

 アルフレートは僕に現実を突きつけた。

 エリカと一緒にこの国で生きていけるのか、と。そして、エリカの花を彼女の家に見に行くという約束は、果たされないままになった。



 彼女と出会ったのは夏のことだったが、石畳の国のことを振り返ると、一番深く強く思い出されるのは春先のまだ寒い空気だ。石畳の上を流れる、硬く冷たく、爽やかな風。時折思い出したように降る雪を。日本とは違い、いつまでも底冷えして、震えるような寒さがあった。

 そんなある夜、エリカがたった一人で僕のアパートにやってきた。夜遅く、彼女の家の人が、一人きりで外に出すわけがない。明らかに抜け出してきたエリカは、離れたくないと言って、僕にしがみついて泣いた。切羽詰まった声は、親と喧嘩でもしたのか、何かがあったことを物語っていたが、聞くことができなかった。力いっぱいしがみついてくる彼女を、僕は突き放すことができなかった。

 僕は、臆病な自分ですら、無計画になれるのを初めて知った。そして僕は、それなりに常識はあるのだと思っていた自分が、簡単に恩義を忘れ、友情を捨てることができるのだと知った。

 クリューガー家の人は、僕の家を探すだろう。ここにいてはすぐに見つかってしまう。少女の手を取って、石畳の街に駆けだす。冷たい空気の中で、黄色い連翹(レンギョウ)の花が咲いていた。太陽のような黄金色に輝く花明りは、暗く寒い冬の終わりを告げるにはふさわしい華やかさで、そして地に足のつかないような、不思議な居心地の悪さを味わった。

 けれど異国の地で僕に出来ることは少なく、いい方法だとは思わなかったが、友人を頼るしかなかった。僕の友人はアルフレートの友人でもある。とにかく助けを求めて、アパート住まいの友人を訪ねたが、僕とエリカを見た彼は困り果てた揚句「一日だけ時間をやる」と言って、アパートを貸してくれた。

 二人きりで取り残された狭いアパートはとても寒く、エリカは震えていた。いつも楽しそうに笑っていた顔は不安でいっぱいで、怯えている。その白い頬に暖炉の火の色が映って、赤く揺れていた。

 ある種の覚悟を決めて堅くなっている少女を抱きよせる。冷え切った肩に触れて、冷たい金の髪に触れて、そうして僕はようやく、この無垢な人を僕は守ることができないと悟った。大切に守られて生きてきた人を、そのすべてから引き離して、ちゃんと導いていけるとは思えなかった。僕はそれだけ無力だった。振り返れば僕は、自分だけの力で何かを手にしたこともなかった。特にこの異国の地で、自分一人のことですらどうにかできるとも思えないのに、彼女の笑みを守っていけるとは思えなかった。

 高揚した頭が冴えてくると、この先の苦労が、考えたくなくても見えてくるようだった。

 そして僕はやはり、意気地のない男だった。彼女と逃げたい、側にいたいという願いよりも、一緒にいれば乗り越えていけるだろうと強く思うよりも、彼女を苦しめるだろうという想像が先にたってしまった。悲しませてしまうだろう、後悔させるだろう。それが何より怖かった。彼女を泣かせてしまうかもしれないことよりも、後悔した彼女に憎まれる未来が怖かった。

 その夜は、ただ寄り添って眠った。金の髪がやわらかく頬をくすぐり、彼女の吐息が僕の首筋をくすぐる。幸せで、悲しかった。

 そして次の日、僕は彼女をアルフレートに引き渡した。「裏切者」と叫んで泣きながら僕を詰る彼女を。

 彼女の親は、彼女の体面も考え、表沙汰にはしないと言ってくれたものの、義父には連絡が行ったようだった。人と接するのを嫌って家に閉じこもり、学校へも行っていなかった僕のところに、義父がわざわざやってきてくれた。

 義父は何も僕を責めず、驚いたぞ、と一言だけ困ったように笑った。寝台(ベッド)に腰掛けぼんやりとしている僕に、日本に帰るか、と言ってくれた。

 留学は簡単なことではない。海外に遅れを取っている日本にとって、富国強兵の元、人を育てることは急務とされていた。国は医科大学の卒業生に大きな期待を寄せていて、独逸への留学も強く勧められている。卒業生、留学生には責務がある。自分たちの次の世代を指導すること。

 分かっていたが、僕は義父の言葉を断ることができなかった。僕が出来るのは、きちんと自分のすべきことをして身を立てることくらいだったのに、それすら挫折したのだった。

 表沙汰にはならなかったものの、醜聞を完全に隠すことは不可能だった。富豪の少女をかどかわすなどという騒動を起こした上に、留学途中で帰国することは、義父の体面にも傷をつける。僕はもう義父の息子ではないし、立場としてはただの書生でしかなかったが、社交界では、離縁していようがそんなもの関係がない。

 大学の病院に研修医として入ることになったが、僕は人と関わるのが億劫で、大学にいるのが苦痛だった。それでなくても僕の噂は広がっていて、僕は好奇の目にさらされていたし、順調に仕事が出来ているとは言えなかった。そしてまた僕に開業免許を取るように勧めてくれたのも義父だった。開業医の試験を受ける資格を得るため数年を務めた後は、この診療所で静かに過ごすことを望んだ。願っていた。

 たった一枚、彼女を交えて友人たちと撮った写真は捨てきれずに持って帰って来たが、それも今は高辻の屋敷に置いてきた。

 それなのに、どうして思い出したのだろう。洋装の女性なんて、日本でも珍しいものではないし、それが重なったなんてわけもない。何よりエリカと馨子さんではあまりにも違う。

 思い出そうとすると、笑っている顔ばかり浮かんでくる。ピアノを弾いて、物語を語って、溌溂とした表情で、楽しそうに笑う少女。僕をからかうような、あの声――ああそうか、つまらない戯言で僕を振り回して、はっきりとものを言うところ。時折、楽しそうに笑う馨子さんの顔と、重なる気がした。

 似てなんかいない。少しも似てなんかいないけれど。

 僕はもう、静かに過ごしたいと思っていたはずだ。所帯を持つにしても、どこにも波風を立てないようにと思っていた。僕が何もしなくても、義父か義母がいずれ縁談を持ってくるのだろうから、それを受けて、安心させられればと。

 それなのに、どうしてなんだろう。どうしていつも、こういう道ばかり選ぼうとしてしまうのだろう。もう二度と義父に迷惑をかけるわけにはいかない。

 思い出したくなかった。幸せだったとき。自分の手で失くしたときを。

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