「わたモテ」に見る、キャラクターを破るキャラクター性
「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い」という漫画がある。(以降、「わたモテ」と略)
この漫画に最近ドハマリしていて、いろいろ語りたいのだが、とりとめもなく語っても仕方ないので、一点に絞って考える。
「わたモテ」という作品を紹介すると、主人公は、中二病、ぼっちの女子高校生「もこっち」である。彼女は学校でぼっちで、自意識過剰でいつも空回りして、顰蹙を買ったり、白い目で見られたりして、それを自分の自意識で回収する(フッお前らとは違うんだよ)のがパターンだったが、最近、違う展開を見せてきた。
最近の「わたモテ」はもこっちが殻を破り、他人と交流するようになった。それと共に、ただの「あいつら」であった人にも、いろいろな苦しみが悩みがある事がわかった。例えば、食堂でよく知らない男女が楽しそうに談笑していたら「羨ましい」とか「くだらない事で盛り上がりやって」と、我々陰キャは思うわけだが、実際その中に入ってみると、彼らもまた一人の人間でいろいろあるのだとわかってくる。(で、結局、陰キャというポジションの心地よさを再発見したりするのだが…)
もこっちはそういう風に殻を破って、他人と交流できるようになってきたのだが、相手方もまたもこっちに影響を受けて、人として成長していく。そういう姿が描かれている。
ここで着目したいのが、「キャラクター」という観点である。「わたモテ」で素晴らしいと思えるポイントは、キャラクターが生き生きとしている事だが、それがただ生き生きしているのではない。
例えば、「ネモ」と呼ばれている女の子がいる。彼女は明るい「リア充」で、楽しそうな男女グループの一人としていつも振る舞っているのだが、実は声優志望で、アニメ好き。しかし、それはリア充グループには隠している。
後に「ネモ」は、もこっちの影響で、声優志望であるとリア充グループに、クラスのみんなにも告白するわけだが、そこで「ネモ」は、自分というキャラクターを破ろうとしている。つまり、学校という関係において最も楽な、居心地のよいポジションを捨てでも、本心を他人にさらけ出そうとする。これはもこっちの影響なしには考えられない。そして、もこっちがそんなパワーを持つのは、自意識の煉獄を彼女なりに乗り越えてきたからなのだ。
もうひとつ例をあげると、もこっちの親友の「ゆうちゃん」だ。ゆうちゃんは、高校デビューに成功した、可愛くて優しい女の子で、彼氏もいて、もこっちとは真逆の存在だ。ゆうちゃんは本当に優しい子で、いい子である。
そんなゆうちゃんとのエピソードで、ゆうちゃんが殻を破ろうとするシーンがある。(自分はそう判断した) ゆうちゃんともこっち、それから共通の友人の小宮山の三人でプレゼント交換をする場面がある。もこっちが「一番役に立たなくて面白いものを千円くらいで買ってきて、交換しよう。その方が面白いじゃん」と提案する。三人はそれぞれプレゼントを買ってくる。
ゆうちゃんはもこっちに「役に立たない」プレゼントを渡す。そのプレゼントはコンドームで、これは「もこっちはモテないからコンドーム使うわけないでしょ」というブラックジョークなのだが、これは本来のゆうちゃんでは絶対にやらない行動だ。成長したもこっちは「ゆうちゃんもとうとう下ネタやるようになったか…」と半ば呆れ顔。ゆうちゃんは顔を真っ赤に赤らめて、弁解する。
自分が意外だったのは、ゆうちゃんが、「他人から見て、優しくてかわいい、いい子」というキャラクターを越えようとした事だった。あるいは、ゆうちゃんは、もこっちともっと仲良くなりたかったのかもしれない。もこっちは、ゆうちゃんには自分の良い面ばかり見せようとしていた感がある。ゆうちゃんは、本当に良い子なので、自然でいても問題ないし、世間的にはそちらの方が良いだろう。それでも、ゆうちゃんは、もこっちとの関係において、もっと大切なものを共有したいという観念に駆られていたのではないだろうか。それで、ゆうちゃんは自分のキャラクターにない行為を「あえて」したのだと思う。
ここで、自分が言いたいのは、ゆうちゃんにしろネモにしろ、自分に与えられた役割を越えようとする、そしてそれによってむしろ、彼女達が生きた人間であると感じられるという事だ。
自分は普通のゲームとかアニメとかを見ると、キャラクターが自分の与えられた役割を疑わないという点に退屈を感じてきた。例えば、「シン・ゴジラ」という映画は、全くもって硬直したキャラクターの集合で、ゴジラすらも台本通りに動いている感じがして仕方がなかった。「それはフィクションだからみんなそうでしょ」と言う人もいるだろうが、それは違う。実際に、それを超えるフィクションがあるからこそ、その退屈さがより際立つ。
ネモというキャラクターは、10巻で彼女の「業」が露出するまでは普通の明るくてかわいい女の子だった。幸せに生きるのはそちらの方が良いだろう。しかし、ネモはその本心、心の中にある人に見せなかったもの、そういうものを世界に開示する事で、やっと「人間」になったのだった。人間というのは天使でもなければ悪魔でもない。人間というのは、複雑に悩んだり苦しんだり、汚い欲望を持ったり、稀に自己犠牲も行う。これを硬直化し、単純にした方が生きる上では楽だ。スクールカーストというのも雰囲気はよくわかる。学校の教室のような閉鎖的な環境では、それぞれが自分のキャラを受け持ってそれを演じた方が楽である。
キャラクターを作る、キャラクターを造形する、という言葉があるが、果たして本当に、人間は「キャラクターなのか」というのはもっと問われてしかるべきだと思う。人が社会で生きる上では、自分のキャラクター=役割を演じるのが楽だ。それはいろいろな属性がある。夫、娘、妻、老人、課長、学生、金持ち、貧乏人、など。いろいろな役割がそれぞれにある。
だが、自意識はその役割を壊してしまう。だからこそ、世界は個の自意識というものを封印する傾向にある。どこの面接に行っても「明るくて空気が読めて真面目な人間」が望まれる。ではどの会社もみんな、どこかで生産されたような規格にはまった人間を望んでいるのか?と言えばその通りだろう。メディアを見ると、どこかで製造されたのではないかというイケメン、美女が氾濫している。
世界は「楽」ないし「幸福」の為に、世界の型に適合する人間像を求める。だが、それを破壊した時に、始めてキャラクターはキャラクターでないもの、すなわち人間ーー本物のキャラクターーーになる。「わたモテ」の百合ハーレムの中心にいるのは、根暗で自意識過剰でどうしようもないが、他人を求め続けたもこっちというキャラクターであった。この百合ハーレムの中心に、スクールカースト最上位であろう加藤さんが入っても、本当のコミュ障の田村ゆりが入っても、何か違うという感じがする。百合ハーレムの中心にいるのは、やはりもこっちの他にないというのは読者にも納得されるのではないか。というのは、もこっちは自意識の地獄をくぐり抜けたのであって、それが他のキャラクターにはないたくましさと内面を与えているからだ。
この作品で、それぞれのキャラクターは、自分自身である事を超える事が要請されている。それによって彼女達は少しずつ、本物の生きた存在となっていく。つまり、彼女達はキャラクターを超えようとするからこそ、本物のキャラクターに近づいていっているのだ。