8.ロランとソフィア
「ケイトリン!!」
「あ、ロラン?」
ロランが工房に慌てた様子で駆け込んできたのは、夕方に差し掛かってきてからだった。髪や服から雫が滴るところを見ると、雨はまだひどく降っているようだ。
「びしょ濡れじゃない!タオル取ってくるから待ってて」
「ソフィアは?」
「ソフィア?」
「ここに来なかったか?昨日、丘の上にいた女の人」
「・・・あらー・・・?」
おかしい、ソフィアはロランに会いに戻ったはずだった、もう随分前に。
この二人、会えていないの・・・?
「来なかったかって訊いてるんだ!!」
「痛い!ちょっと、落ち着いて・・・!」
必死の形相のロランに手首を思いっきり掴まれ、ケイトリンは思わず悲鳴をあげた。
「す、すまない・・・」
我に帰ったロランは、熱いものを握ったかのように勢いよく手を離し、謝った。
「とにかく、少し待っててね。話なら、聞くから。」
ロランを椅子に座らせると、ケイトリンは奥にタオルを取りに行った。
何気なくテーブルに目をやったロランは、積まれた本に気がつく。
歴史小説や珍しい植物の図鑑。神話をまとめた本や異国のファッションについて解説した本。どれも、ソフィアが好きな類の本だ。やっぱりここにいたんだ。
「これ、使って。」
手渡されたふかふかのタオルで顔を拭うと、ロランは縋るようにケイトリンを見上げた。
「来たんだろ?ソフィア、ここに」
「来た・・・というか偶然知り合ったの。私がここへ招いたのよ」
「アイツと・・・あの野郎との恋が上手くいくように頼まれたのか?なあ。教えろよ」
「何を言ってるの?ロラン、あなた今日ちょっとおかしい・・・」
ケイトリンは、ロランのあまりの態度に、腹が立ってきた。
「ソフィアからは清らかな香りがしていた。ロラン、昨日の親切だったあなたからも爽やかな香りが感じられたけど、今のあなたからは嫉妬で焦げた嫌な香りしかしない。組み合わせは最悪ね。うまくいくわけがないわ」
「何だと!昨日今日知り合ったばかりのあんたに、俺たちの何がわかる!」
「香りで大体わかるわよ。・・・なめないで。」
「・・・」
弾かれたように立ち上がりケイトリンに食ってかかったロランだったが、冷ややかに見つめ返されて、力なく座り込んだ。
「みっともないな、俺は・・・君にまで八つ当たりして。本当にごめん。でもどうしたらいいかわからないんだ。ソフィアが俺から離れて行くと思うと、いてもたってもいられなくて・・・」
ケイトリンはロランに背を向けて、飾り棚からいくつか小瓶を取り出しトレーに乗せていく。
「あなたは本当は、風に乗って進路を変える遊覧気球のように、自由な心を持ってる人。誰かを束縛するなんて似合わないよ」
ラベンダー、オレンジ、三色スミレ、それと綿雲の香り。少しずつシャーレで混ぜ合わせ、アトマイザーに移すと、ロランに向き直り、シュッと吹きかけた。
「わっ!な、なんだこれ!?」
「嫉妬を落ち着けて、人を思いやれる香り。ソフィアはあなたに会いに戻ったわ。今度はちゃんと話を聞いてあげてね。」
ケイトリンからアトマイザーを受け取ったロランは、さっきまでの余裕のない表情ではなく、晴れやかに澄んだ目をしていた。
礼を言って工房を出ると、降りしきる雨も構わず、自分たちの町へ急いだ。
ひとり残ったケイトリンは、ふぅーーと脱力し、椅子に腰掛ける。
「怖かったぁ・・・」
ソフィアのヤキモチはかわいかったのに。嫉妬って、人をあんな表情にしてしまうのね。
恋ってめんどくさい、わたしはずっとフリーでいいわ。と、ソフィアが置いていった恋愛心理学書をめくりながら思った。
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ソフィアが気球乗り場に着くと、昨日戸締りしたはずの小屋の扉は半分開いているのに、中には誰もいなかった。きっとロランは今日もここにいたんだ。
今朝いつも通りここへ来なかったこと、ロランはどう思っただろう。無責任だと怒っただろうか、それとも昨日で愛想を尽かしてしまったきりだろうか。
ソフィアは小屋の外に繋がれている、昨日完成したばかりの真新しい気球に乗り込み、腰掛ける。
改めて実際にこの空間で、ロランとケイトリンが束の間二人きりでひとときを過ごしたことに思いを馳せると、やっぱりほんの少し胸がチクリとした。
(これがヤキモチなのね。そして昨日ここから、ロランは丘の上にいる私とツバキさんを見下ろしていた。苦しい思いをさせてしまったわ・・・)
早くロランに会って仲直りしたかった。
突如、激しい風がソフィアを襲う。
気球の客席には、ロランがソフィアの希望を反映して取り付けた小さな日除けの屋根があったが、横側から容赦なく大粒の雨も吹き込んでくる。
ソフィアは椅子の背もたれにしがみついた。
――早く小屋に戻らなくちゃ!
感傷に浸って、風を読むことを忘れていたソフィアは、神経を研ぎ澄ませこの強風がいつ止むか読もうと試みた。
が、次の瞬間、
「きゃ・・・!!」
さらに強い暴風が気球を底から持ち上げ、地面と繋いでいたロープを一本、二本と引きちぎっていく。
「うそ・・・!」
三本目が持っていかれた。
「助けて!」
叫びは誰もいるはずのない草原に吸い込まれていった。
4本目のロープが頼りなくも風に吹き飛ばされると、機体は不穏な音を立てて衝撃とともに宙を舞い、強風に乗りあっという間に高度を上げていく。
「ソフィアーー!」
風の音に混じって、下から名前を呼ぶ声がする。
ソフィアは体が吹き飛ばされないように周りの設備に捕まりながら地上をのぞきこむ。
青ざめた顔で上を見上げソフィアの名前を呼ぶロランがいた。
「ロランーー!!」
「待ってろ、今助ける!」
ロランは指を鳴らし気球を操縦しようとしたが、強い風に邪魔をされて『ギフト』が気球に届かない。
ソフィアの乗った気球はぐんぐん遠くへ流されていく。
「クソ、どうすれば・・・!」
ロランの脳裏に、ある人物の姿がよぎった。
(運天士ツバキ・・・!奴ならきっと!)
ロランは丘を駆け上がっていく。
恋敵に頼みごとをするのは気が進まないが、ソフィアを助けるためなら造作もないこと。
走りながらポケットからアトマイザーを取り出し、ずっと香りを感じられるように顔の正面から吹きかけた。
「運天士!!!」
「・・・どちら様ですか?」
以前ソフィアが話していた、丘の上の東屋近くのログハウスにツバキは在宅していた。
紅い髪が色白の肌をより白く見せる、ひょろりとした若い男が突然の来客に、物憂げな目を向ける。
「気球屋のロランだ、ソフィアが危ない!力を貸してくれ!!」
「ソフィアさんが・・・?」
ツバキは紺碧の瞳を見開くと、ロランと連れ立って表へ出た。
風に揉まれて空を漂う遊覧気球が小さく見える。
「ソフィアが乗ったまま飛ばされたんだ!お前、風を止められるか!?」
ツバキはなにか言いたげに一瞬ロランを見るとすぐに視線を気球に戻す。
「風は止められます。ですが、止めた瞬間墜落しますよ」
「なっ!・・・じゃあどうすれば」
ツバキはロランのツナギの首根っこ辺りをぐいっと掴んだ。
「俺があなたを飛ばしますから、うまく気球に乗り込んでください。」
そのまま、この細腕のどこにそんな力があるのかと思うほど軽々と、ロランを持ち上げると、
「乗り込んだら俺が風を止めます。墜落しないようにうまく操縦して着陸して下さい。チャンスは一瞬。いきます」
振りかぶって、
「よっ」
――投げた。
「ぁぁぁあああああ!」
ロランは猛スピードで一直線に空を飛んでいる。
ソフィアが心細そうにしがみついている気球が、ぐんぐん近づいてきた。
あと少し、もうちょっと、
(ダメだ・・・!)
このまま進むと僅かに手が届かない。
俺は、一番大切な人を救えないのか――!?
「ロラン!!」
左手で気球の端を掴んだソフィアが、右腕を精一杯ロランへ伸ばす。
咄嗟にロランはその手を掴み、もう片方の手で気球の縁を掴むと気球の内部へ転がり込んだ。
ソフィアが目に涙をいっぱい溜めてロランを見つめる。
「助けに来てくれたの・・・?」
ロランは照れくさそうに頷いた。
「俺だけじゃない、アイツも力を貸してくれた。」
起き上がり丘の方を見ると、地上からこちらを見上げているツバキが小さくはっきりと見えた。
ロランがツバキに親指を立ててみせると、ツバキは微かにアイコンタクトを送り、小声でいつくかの言葉を唱えたあと、手にした杖を高く高く掲げた。
みるみるうちに風と雨が収まり、雲が晴れ、まもなく日の入りを迎えそうな赤い赤い夕日が差してくる。
「すごい、空の様子が・・・きゃ!!」
風が止んだ途端、推進力を失った機体は、重力に任せ急降下を始めた。
ソフィアをしっかりと抱きとめたまま、ロランが指を鳴らすと『ギフト』の光が機体を包み込み、機体は急降下をやめ、ゆっくりと安定したスピードで地上へ向かっていった。
丘の上でその様子を見つめていたツバキは、大きなあくびを一つすると、ログハウスへ戻っていった。
もうすぐ夜が来る。帳を下ろさねばならない。運天士の仕事は忙しいのだ。
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着陸すると、ロランは手馴れた様子で気球から飛び降り、ソフィアに手を差し伸べた。
気球にはよく乗り降りするから慣れているはずなのに、怖い思いをした直後だからか足腰に力が入らず、ソフィアはロランの手を取ったまま体勢を崩し、その胸の中に倒れ込んでしまった。
ロランはそのままソフィアを強く抱き締めた。
「ソフィア、ごめん。ソフィアは誰のものでもないのに、俺は君を縛り付けようとして本当に大切なことを見失ってた。君が誰を思っていても、俺は君が大好きだ。子どもの頃からずっと。」
ソフィアはロランの腕の中でぽろぽろと涙を流していた。
「私の方こそごめんなさい。私、鈍感で、あなたの気持ちに気づかなくて、嫌な気持ちにさせてしまったわ・・・でも信じてほしいの、誰とお友達になっても、愛しているのはロランだけよ。この先もずっと。」
「ソフィア・・・!!・・・ん?まて、お友達?ツバキって、オトモダチ?」
「???そうよ?風のことで語れるお友達って貴重なの。でもそうよね・・・男の子としょっちゅう二人きりでいたら、心配するわよね・・・軽率だった。ほんとにごめんなさい」
誤解が溶け胸のつかえが取れたロランは、しょんぼりとするソフィアの頭を撫でて、晴れ晴れと笑った。
「いや!ソフィアは何も悪くないんだ。どうか今まで通り、そのままのソフィアでいてください!」
指で涙を拭うと、ソフィアは幸せそうな笑顔をロランに向けた。
「はい・・・!」
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次の日。
気持ちよく晴れた朝、ロランとソフィアは借りた傘を返しにケイトリンの工房を訪れた。
「ロラン、ソフィア!いらっしゃいませ!」
「昨日は色々とありがとう!助かりました。」
「迷惑かけてすまなかった。」
ソフィアから傘を受け取ると、ケイトリンはすかさず尋ねた。
「それで、あの後二人はどうなったの?」
「それがまぁ、色々とありすぎて・・・」
「うん。うふふふふ」
「要するにうまくいったのね?そっかそっかぁ!」
「お陰様で!」
昨日の様子とは打って変わってニコニコ笑う二人を見れば、良いことがあったのはすぐにわかった。
「それでね、」
ソフィアはがそっと耳打ちしてくる。
「付き合いたての気持ちを忘れないようにする香りって、作れる?」
ケイトリンは得意げな笑顔で頷いた。
「もちろん!過去の出来事を思い出させるのは、香りの得意分野よ」
寄り添い合うロランとソフィアからは調和のとれたいい香りが漂っていた。