6.遊覧気球屋 ロラン·エマール
「うわぁ・・・すごい!」
洗濯を終え、草原にシロツメクサと三色スミレの採取に来たケイトリンは、上を見上げてぽやーっと口を開けた。
空は一面の青空なのに、ケイトリンとその周りはすっぽりと影に覆われている。
大きな遊覧気球は、影を落としたままゆらりゆらりと上昇し、標高が上がるごとに少しずつ小さく見えていく。
「お嬢さん、乗ってみるかい?」
声をかけられた方を向くと、ツナギを着た黒髪の青年が立っていた。
「いいんですか?」
「いいよ。今はお客もいないし。テスト飛行でよければ。」
青年が指を鳴らすと、朱金の光が舞い、さっき浮かび上がっていった気球が、少しずつ降りてきた。
「『ギフト』で飛んでるのね?」
「うん。熱で内部の空気を温めて飛ばす熱気球と違って、俺の『ギフト』に反応して操縦できるように作ってある。」
青年は先に気球に乗り、ケイトリンが乗り込みやすいよう手を差し伸べる。
ケイトリンもその手をしっかりと掴み、ドレスの裾を纏めて大股で乗り込んだ。
「ロランだ。」
「ケイトリンよ。ケイトリン·ベネット。」
ちょうど握手をしているような格好になったので互いに挨拶をし、笑顔を交わした。
ロランはケイトリンを席に座らせると、もう一度指を鳴らし光を放った。
気球がふわりふわりと上昇する。
「どこまで上がるの?」
「どうかな、その時の天候や風向きによるけど、さっきはあの雲まで届いた。」
「雷雲の香りは採れるかしら・・・」
「今日は雷鳴ってないから無理じゃないか?綿雲のなら採れるかも。」
「ほしいなぁ」
「よし、じゃあ目指すは綿雲!」
気球はぐんぐんと上昇していく。
雲に手が届く距離まで上がると、ケイトリンはポシェットから小瓶を取り出し、指を鳴らして桜色の光を振り掛けた。
慣れた手つきで綿雲に潜らせ蓋をする。
「香りを集めてるって?」
「そうよ。わたし調香師なの。」
自分がどんな仕事をしているか、さらっとロランに説明した。ストアカードを名刺代わりに渡す。
「恋愛調香師か・・・面白い仕事をしてるんだな。俺はこういうギフト型の遊覧気球を設計して、作ってる。幼馴染と一緒に乗り場も運営してるから、乗りたくなったらまたおいでよ。デートにもおすすめ。」
デート・・・。一瞬、今朝去り際に漂ったダニーの香りがした気がした。
ないない。肩を竦めて首を振り、「友達カップルに勧めておくわ」と答えた。
地上を見下ろすと、小高い丘が近くに見える。
丘の上には東屋が建っていて、そのそばでは、紅い髪をした色白で華奢な男性と、灰鼠色の髪の、グリーンのドレスを着た女性が親しげに並んで空を見上げている。
サッとロランの表情が変わった。
「戻ろう。」
「え?」
「テスト飛行は終わりだ。」
ロランの操作に合わせて、気球が下降していく。地上に着くと、ロランは先に飛び降り、乗り込んだ時と同様に手を差し伸べて、ケイトリンを降ろした。
「悪いが今日はもう帰ってくれないか。」
「え、ええ。珍しいものも採れたし、楽しかったわ。ありがとう。」
少し気まぐれな人なのかな、と思いながら、ケイトリンは礼を言い、手を振って立ち去った。
ロランも、少し申し訳なさそうな顔をして手を振り返してくれた。
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「ロラーン!」
ロランが乗り場の片付けをしていると、笑顔の女性が息を弾ませて駆けてきた。
さっき丘の上の東屋で空を見上げていた女性だ。
「ソフィア。」
「新しい気球ができたの?さっき飛ばしてたでしょ。」
「ああ・・・」
「すごいね、前より安定して飛んでた。どんどん改良されてくね。」
ソフィアと呼ばれた女性は、尊敬の色を滲ませたキラキラとした眼差しでロランを見上げた。
そんなソフィアとは対照的に、ロランは苛立ちを滲ませた眼差しで見下ろした。
「・・・またアイツのところに行ったのか?」
「アイツ?ツバキさんのこと?」
ロランが不機嫌そうなことなど意に介していないかのように、ソフィアは楽しそうに続けた。
「ええ!やっぱり運天士さんってすごいわね、天気のことだけじゃなくて風のことにも詳しいの!私のやり方とは違う風の読み方を教えて貰ったわ。さっそく明日・・・」
「来なくていい。」
「え?」
「そんなにアイツといるのが楽しいなら、もう俺のところには来なくていい。」
「ロラン・・・?」
ロランは工具や荷物をまとめると、ソフィアに背を向けて立ち去ってしまった。
あんなに高く晴れ渡っていた空には、いつの間にか黒々とした雲が広がっており、ぽつり、またぽつりと雨粒が降り出した。
「ロラン・・・どうして・・・」
悲しそうに俯くソフィアの髪や服を、柔らかな雨がしとしとと湿らせていく。
「あら」
さっきまでロランがいた場所に、小さなカードが落ちている。
ソフィアは肌寒さと寂しさで微かに震える指で、そっと拾い上げた。
「恋愛、調香師・・・」
アリステニア市街地の住所が書かれたそのカードを見て、たまには街へ出かけてみようと思った。