5.謎の男 ダニー船長
ある日の夕方。
ケイトリンは、依頼されていた香水を客先へ届けたあと、アリステニアの大通りをひとり歩いていた。
工房兼自宅のオーブンには、ハーブをたっぷりまぶした大好物のチキンがケイトリンの帰りを待っている。
暖かさの増した夜の風の香りをすんと吸い込んだ後、ウキウキとした足取りで歩調を早め広場を通り過ぎた。
その広場では、長身でしっかりとした体つきのシルエットが、ケイトリンの去る方向をしばらく見つめていた。
「ランドルフ卿?」
ギクリと肩を震わせたその人物は、声の主の方を振り返る。
「マダム·リリー・・・」
「ええと、今はこの名前で呼ばない方が良いんでしたっけ?」
「そうだな、頼む。」
「・・・こんな所で何を?」
「いや・・・マダム、あの子のこと、知ってるかい?」
リリーは指された方向を伺った。ケイトリンがルンルンと角を曲がるのが小さく見える。
「ケイトリンに何か御用ですか?」
「・・・ケイトリン・・・。何でもない、またな。」
男は一瞬リリーに気品のある笑顔を向けると、広場近くの酒場に入っていった。
リリーは深々と一礼し、その背中を見送った。
さぁ、どうなるかしら。布で覆われた口元は、意味ありげに微笑む。
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次の朝。早いうちから港へ、日の出の香りの採取に出ていたケイトリンは、朝食の頃に工房に戻ってきた。
いつも通りビーカーで紅茶を沸かす。
キッチンからはトーストの焼けるいい香りがしてきた。
静かで安らぐ朝のひととき・・・。
「へぇー、ここが噂の恋愛調香師の工房か」
驚いて机にぶつかってしまった。シャーレや小瓶ががしゃんとぶつかり合い揺れる。
自分以外誰もいないはずの工房に突然響いた声の主は、着古したヨレヨレのシャツやジャケットを何枚か重ねるように着こなした、変わった風貌の男だった。
燃えるように赤く長い髪は細かく編み込まれ、口元には丁寧に揃えられたヒゲがたくわえられている。意地悪そうにギラリと光る鋭い目は、獲物を観察している蛇のようにも見えた。
「だ、だれ・・・?」
「ダニー船長と呼べ。」
「か、かか海賊・・・!!!!」
「・・・商船の船長だよ。」
「なんだぁ・・・。あの、悪いけどまだ開店前なんですよねっ」
一瞬戦慄したケイトリンは、ただの船乗りとわかっていつものペースを取り戻し、勝手に入ってきた相手を注意した。
「鍵開いてたからさ。」
「しまったぁぁ・・・!」
うっかりのせいで変な男の侵入を許してしまった。後悔しきりだ。
「それはいいとして、アンタが恋愛調香師のケイトリン·ベネットさんかよ」
ちっともよくない。
「・・・そうですけど何か?」
「運命の相手を手繰り寄せる香りを作るっていうあの?」
「・・・そうよ」
「惚れた相手をその気にできる香りを作るっていうあの?」
「・・・それはちょっと語弊があるけど・・・その人次第ね」
ダニーと名乗った男はふぅんと小さく唸ると、突然ケイトリンの腰に手を回し、ぐいっと強く引き寄せた。
「わ!!」
「なぁ、俺にもその香り作ってくれよ」
「誰かっ・・・!!」
大声を出して助けを呼ぼうとしたケイトリンは、自分を覗き込むように近づけられたダニーの目に射竦められた。
意地悪そうだと感じた目の光は、きれいな金色の瞳に光が反射したものだと気づき、ハッとする。
「俺の運命の人はきっと、」
囁くように言葉を紡ぐ声は、さっきまで会話していた不審人物とは思えないほど、甘く、体の芯に響くようだ。
「桜色の髪に、紅い目をしている」
空いた手で、さらりと髪を撫でられる。
「こんなふうに。」
瞬間、ケイトリンは自分が口説かれてると気づいて顔が真っ赤になった。
ちょうどビーカーで沸かしている紅茶がボコボコと沸騰する。
「やめてよ!!」
「ハハ、悪い」
男は愉快そうに笑ってケイトリンからひらりと離れた。
「大体あなた、臭すぎて本来持ってる香りが全然わかんない!お風呂入ってないでしょ・・・?」
「1週間ほど?」
「うわぁぁぁ!うわ!!」
ケイトリンはすぐにでも触られた髪をシャンプーしたいと思った。
「お家でシャワー浴びてから出直して!」
「俺、この港には仕事で寄ってるだけだし。」
「宿は!?」
「取ってない」
「船には!?」
「付いてない」
「最悪ね!!本当に最悪!!・・・もー!!!じゃあ貸してあげるからさっさと浴びてきて、鼻がもげちゃう!依頼の話はそれから聞くわ」
「一応聞いてくれるんだ?」
「は·や·く·し·て!!!」
『ギフト』により研ぎ澄まされた嗅覚を持つケイトリンには、もう限界だった。
ダニーはじゃがいものようにふくれっ面をしたケイトリンに、シャワー室へと追い立てられた。
「タオルはここ!着替えは置いとく!おとといききやがれってのよ!!」
勢いよく閉められたドアの前で、ダニーは立ち尽くした。
「思ってたのと違う・・・」
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部屋中の窓が開け放たれ、外の新鮮な空気が流れ込んでいる。
机には二人分のカップとトースト。
身綺麗になったダニーを見て、ケイトリンはまぁまぁ悪くないと思った。
「あなたにはちょっと小さかったわね。」
「いや、着れないことはない。ありがとう。」
換気をして落ち着いたのか、さっきまでの爆竹のようなケイトリンはもういなかった。
「彼氏の服?」
茶化したような問いかけに、ケイトリンは静かに首を振る。
「兄のよ」
椅子に腰掛け、ダニーにも朝食をとるよう促す。
「行方不明になって、もう7年経つわ。きっともう・・・」
長い睫毛が印象的な伏せられた目を、ダニーは真剣に見つめていた。
「宿無しなんでしょ?あなたの服は洗濯しておいてあげるわ。明日また寄って。」
「いや、今日の昼に船が発つ。次にこの港に寄った時にでも顔を出すさ。兄さんの服もちゃんと返す。」
「そう。」
「依頼の話もまぁ、そん時だな。・・・長居しちまった。俺は行くよ。ごちそーさん!」
「それじゃあね。」
ダニーは片手をあげると揚揚とドアの外へ消えた。
風に乗って届いたダニーの香りを、ケイトリンはまぁまぁ好きだなと思った。
さてと。
洗濯をしなくちゃね。
ダニーのめちゃくちゃに汚い服を、自分の服が入っている籠と分けて、息を止めつつ洗い場へ向かうことにした。