22.自分の香り
カーテンの隙間から朝日が差し込み、微かに小鳥の囀る声が聞こえる。
ケイトリンは寝室のベッドの中でもぞもぞと寝返りをうち、閉じていた目をゆっくり開けた。何故か目が覚めてしまった明け方から、ずっとそうして何度も寝返りをうち二度寝を試みているが、なかなか寝付けないまま時間が経ち、すっかり夜が明けきってしまった。
運命の人に出会える香りかぁ・・・。ミシェルの言う通り、もしダニーとの出会いが運命だったとして、もう一度、ただひと目でいいから会えるなら、会いたかった。でも、もし運命の人が別の誰かだったら。ダニー以外の誰かと恋に落ち、今の気持ちをすっかり忘れてしまう自分なんて、想像もしたくなかった。が、それ以前の問題に直面している。
(私の香りってどんななんだろう・・・)
周りの香りには異常に敏感なのに、常に嗅ぎ続けている自分の香りがどんなものなのか、ケイトリンにはわからない。香りを嗅ぎすぎて鼻が麻痺した時に嗅ぐコーヒー豆も試したが、自分の香りをうまく感じることができなかった。
このごろ、軽いスランプに陥ってる気がする。
「・・・起きよ。」
ケイトリンはむくりと体を起こすと、スリッパに足を差し入れた。
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「自分じゃわからないなら、ほかの人に聞いてみればいいと思います。」
工房へ勉強にやってきたナユユに、自分の香りがわからないことをこぼしたら、きょとんとした顔でこう返された。
「僕は、わからないことがあればいつも質問するようにしていますよ!リリー先生にも、ケイトリン先生にも。」
無垢な少年は、なんでこんな当たり前のことで悩んでるんですかと言いたそうな顔をしていた。子どもの目線は鋭い。ケイトリンは自分にその明快な発想がなかったことに驚いた。
「確かに・・・。じゃあナユくんはさ、私の香りってどんな香りだと思う?」
ナユユは遠慮がちにケイトリンに顔を近づけると、スンスンと鼻を鳴らした。
「りんご・・・ですかね?」
「りんご?」
「はい、なんとなくですけど。」
「そうなんだ。りんごなんだ?」
他人事のように首を傾げるケイトリンを見て、ナユユは焦ったように付け足した。
「あ、で、でも僕は先生みたいに鼻が利くわけじゃないし、自信がないのでできるだけいろんな人に聞きましょう!まずはリリー先生なんてどうですか?」
「そうね。ナユくんはリリーに会いたいだけでしょ。」
ナユユはえへへ、と笑うとケイトリンを引っ張ってリリーの館へ向かった。
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「ケイトリンの香りですって?」
リリーは突拍子もないことを聞かれて、目を丸くした。少し考え込むと、ケイトリンの髪に触れ、毛束を掌に乗せるとそっと香りを嗅いだ。
「ど、どぉ・・・?」
「うーん・・・」
眉間に皺を寄せ、頭を捻る。しばらくそうした後にリリーが出した答えは。
「・・・桃?」
「りんごですよ!」
すかさずナユユが主張する。リリーも負けじとナユユを見返した。
「いいえ、桃よ。」
「りんごですって!!」
「ま、まあまあ!!桃とりんごね!なんとなく系統は似てるかもね!ね!」
ケイトリンは、何故か言い争いを始めた師弟の間に入り、慌てて仲裁すると同時に、対等に言い合えるようになってきた二人の仲の進展を感じた気がした。
リリーは咳払いをひとつすると、不思議そうに尋ねた。
「でもどうしてそんなことを聞くの?」
「ケイトリン先生は、自分用に香りを作りたいんです!その為には自分の香りを知らなくちゃ作れないんですよ」
代わりに答えたナユユを見て頷いたリリーは、ケイトリンへ視線を移す。
「香りを作るって、どんな?」
「うん・・・」
訊かれて、急に答えるのが恥ずかしくなってきた。ケイトリンはうっすらと頬を染めて小声でぼそっと答えた。
「運命の人に出会える香り。」
布で隠れているので表情は見えないが、リリーの瞳が複雑そうに揺れる。ダニーがケイトリンの前から去ったことはケイトリン本人から直接聞いていたが、その原因の一端は、自分がダニーを責めたことにあるのではと少なからず負い目を感じていた。彼の思惑がどこにあるにせよ、不用意に首を突っ込むべきではなかったのだ。
リリーから反応がないことに慌てて、ケイトリンが補足する。
「えっとね、新しい恋がしたいとかじゃないのよ!その、友達に、ダニーとの出会いが運命だったなら、イヤでもまた会えるんじゃないかって言われて・・・!」
ケイトリン本人に意思があるのなら、自分は出来うる限り背中を押すだけだ。友として。
リリーはにこりと微笑んだ。
「それなら、草原のお二人にも聞いてみたらどう?時間があれば、ツバキ様と奥方様にも。」
「・・・うん、そうね!そうしてみるわ。」
彼らに会うのは先日のあの結婚式以来だ。ケイトリンはナユユを連れて草原を目指した。
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遊覧気球乗り場には、臨時休業の札が掛かっており、誰もいないようだ。
あてが外れて残念そうにするケイトリンの服を、ナユユが軽く引っ張り、少し離れた場所を指さした。
「先生、あそこで誰か手を振ってますよ。」
つられてそちらを見やると、ピクニックシートの上で寛いでいる様子の人影が四つ。立ち上がり手を振っているのはソフィアのようだ。
「ケイトリンー!こっちよ!」
招かれるままに近づくと、ロラン、ツバキ、シェンの四人でお弁当を広げたところだったようだ。予期せぬ来客に、楽しそうに顔をほころばせたソフィアが、ケイトリンの手を取り座らせる。
「あんまり天気がいいから、ツバキさんとシェンさんも誘って、ピクニック気分でも味わおうかなって!一緒にいかが?」
可愛らしく着飾ったシェンが、サンドウィッチの詰まったバスケットを開けて広げる。
「朝から張り切って作ったの・・・!ケイトリンも食べてみて!そちらの坊やも!」
「牡丹餅、あるよ。」
隣ではツバキが、お手製と思われる少し不格好な牡丹餅の入った入れ物をナユユに差し出していた。
「やったぁ!みんな、ありがとう。お邪魔しまーす」
ケイトリンとナユユは、素直にご相伴にあずかることにした。青空の下、ソフィアの淹れてくれたお茶と、持ち寄りの手料理を楽しむ。
すぐにロランがナユユを興味深げに見つめた。
「そっちの小さい子は、初めましてだよな?」
「はっ、はい!」
元気よく返事するナユユに、一同は好意的な笑顔を向けた。
「こちらはナユユくん。わたしのところに時々勉強に来ているのよ。リリーのお弟子さんなの。」
「ナユユ·アルキノリアです!リリー先生とはお付き合いさせていただいています!よろしくお願いします!!」
ごふっ、とロランは口に含んだお茶を吹き出しむせた。もー、汚い!とソフィアが急いで辺りを拭く。すぐ側では、青い顔をして餅を喉に詰まらせたツバキの背を、シェンが慌てて叩いていた。
自身の発言の破壊力に気付かず、突然の地獄絵図に目を丸くするナユユに、ケイトリンは苦笑するしかなかった。
「そ、そういうことだから、みんな、仲良くしてね!」
咳が収まったロランは、口元を拭うと、改めてナユユに声を掛けた。
「お、おう。機械のことを勉強したくなったら、俺をロラン先生と呼んでくれてもいいぜ・・・!」
「はい!ロラン先生!!」
素直な性分のナユユは、すぐに年上の面々と仲良しになり、楽しいひとときが流れていった。
「そういえばケイトリン、今日は気球乗り場に何か用だったの?」
思い出したようにソフィアに問われ、ケイトリンはここへやってきた理由と、自分の香りを教えてほしいと説明した。
四人は顔を見合わせると、ケイトリンに近づき香りを嗅ぐ。少し考えて最初に声を発したのはロランだった。
「布だな。」
「へ?」
「なんか布みたいなニオイがする。」
「ロランってば・・・」
恋人の、色気のない端的な答えに苦笑しながら、ソフィアがフォローした。
「でもなんとなくわかるかも。私は、干したてのおふとんみたいかもって思ったわ。」
「なるほどね・・・!」
ソフィアの表現の方が、イメージしやすかった。
「私には、赤ちゃんにはたくお粉のように感じたわ」
シェンの答えに、ツバキは頷いて思い出を辿るように上を見た。
「母さんが使ってた白粉にも似てるような・・・」
思い思いの回答に、ケイトリンはうんうんと頷くとメモを取り、お礼を言った。一人では分からないことにも、一緒に向き合ってくれる人たちがこんなに居る。何てありがたいことだろうと、改めて思った。
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束の間の楽しいランチタイムを過ごした後、彼らと別れ、ケイトリンとナユユが街へ戻った頃には日が傾き始めてきた。沢山歩き疲れているであろうナユユを自宅まで送り届けると、ケイトリンは夕飯の食材を買いに市場へ寄った。野菜を選んでいると、突然肩をトントンと叩かれる。振り返ったケイトリンの目に、人懐っこい笑顔が飛び込んできた。
「や!」
沢山食料の詰まった袋を抱えたミシェルと、火鴉祭の時に出会ったその義兄がいた。
「ミシェル!お義兄さんと二人でお買い物?」
「そうなの、頼れる荷物持ち!私、山小屋に引っ越したからさ、来れる時に買い溜めしないとね」
「オルトと申します。お話は時々聞いてますよ、ケイトリンさん。ミシェルと仲良くしてくれてありがとう。」
「こちらこそ、いつも親切にしてもらってます!」
涼しい顔で、ミシェルが抱えているものよりも重そうな袋を抱えたまま、オルトが握手を求めてきた。ケイトリンも快く返す。
「ミシェル。私、作ることにしたよ。私のための、運命の人に会える香り。」
ケイトリンはミシェルに向き直ると、澄んだ目で決意を伝えた。ミシェルは力強く頷いた。
「きっとまた会えるよ、彼氏に。」
「うん・・・!彼氏じゃないけどね。」
そこで、自分の香りを聞いて回っていることを説明し、ミシェルとオルトにも協力を仰いだ。
オルトが控えめにケイトリンの香りを嗅ぎ、ふむ、と唸ると、ミシェルはガバっとケイトリンを抱きしめて思いっきり香りを吸い込んだ。
「んー!なんとも言えないいいにおい・・・強いていえば、猫の頭?」
「ね、ねこのあたま?」
ミシェルの胸の間からやっと顔を出して、ぷはっと息を吸いこみ聞き返すケイトリンに、オルトも静かに答えた。
「暖炉の火のようだと感じました。」
「だんろ・・・オルトさん、詩人ですね。」
冬の日に焚いた暖炉を思い浮かべ、どんな香りだったか考える。
二人に礼を言い、今度山小屋へ遊びに行くと約束をしてから帰路につく。
ケイトリンは、猫を見つけたら頭を嗅がせてもらおうと思った。
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思いがけず、長い一日となってしまった。
皆が教えてくれたケイトリンの香り。
りんご、桃、布、干したての布団、ベビーパウダー、白粉、猫の頭、暖炉の火。それらを思い描き組み合わせると、頭の中で自分の香りが出来上がった。そしてそれを元に、運命の人の、・・・できればダニーの、心に訴えかけるような香りの素材を選ぶ。
桜、蓮華草、古い本の頁、星の光・・・。香りの小瓶から少量ずつ取り出し丁寧に混ぜ合わせた。『ギフト』をひと振り。
小さなアトマイザーに揺らめく液体に思いを託して、最後に一緒に過ごしたあの日ダニーがそうしていたように、ケイトリンは髪の毛先に少し吹き付けた。香りは窓から吹き込んだ夜中の風に乗り、優しく瞬く星空へ溶けていった。