19.狩人 ミシェル·リドゲート
アルコールランプの上で、ビーカーがぽこぽこと沸騰する。火を止め、目分量で大雑把に茶葉を入れると、中では紅茶の葉が上へ下へと踊り出した。
工房の表で、ナユユが素振りに精を出す掛け声が聞こえる。見てくれる先生がいなくなっても、律儀な性格のナユユは稽古を欠かさなかった。
ケイトリンも、表向き淡々と、何事も無かったかのように日々の仕事をこなしていたが、気を抜くとぼんやり考え込んでしまう時がある。
机の上に置いたままになっているランプの中では、もうすぐ火鴉の羽根が燃え尽きようとしていた。
――あれから、二日。
時々、がさつな足音と共に威勢よく扉を開けて、彼が工房にやってくるんじゃないかと期待してしまう瞬間がある。
今座っている作業場では、初対面でいきなり抱き寄せられたっけ。不潔さに耐えかねて押し込んだシャワー室。一緒に朝食をとったテーブル。祈る気持ちで介抱した寝室。居眠りしていたソファー。髪を拭いてもらった椅子・・・。
今のケイトリンには、自宅の中は、思い出が多すぎた。
ふるふると首を振り、頭の中のもやを追い払うと、工房のドアを開け、表に向かって笑顔を作った。
「ナユくん、休憩しない?お茶が入って・・・あら?」
ナユユはとっくに手を休めて、誰かと話しこんでいたようだった。
「ケイトリン先生、お客さんですよ!」
「やっほー!来ちゃった・・・!」
ナユユと向かい合って話していた女性は振り返ると、飛びっきりの笑顔を向けてくれた。
「ミシェル!!」
思わぬ来訪に、ケイトリンも思わず笑顔になった。
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「・・・そっかぁ。じゃあ、彼氏とは別れちゃったっていうこと?」
応接用のソファーで並んで座り、世間話に花を咲かせる。不意に、ミシェルから「今日彼氏は?」と話を振られ、ケイトリンはあの後起こったことをぽつりぽつりと話した。
ミシェルは、残念そうに尋ねるとケイトリンの淹れたビーカー紅茶の入ったカップに口をつける。
「・・・だからね、もともと付き合ってないんだってば。」
いつもなら燃え盛る火の中で爆ぜるどんぐりのように勢いよく否定してくるケイトリンだったが、今日は苦笑しながら静かに訂正しただけだった。
その様子を見て、結構ダメージ受けてるんだろうな、とミシェルは思った。
「お似合いだったのにね。」
「そう、かな?・・・わっ!?」
突然、ふわりと優しくミシェルに抱きしめられる。
「我慢することないよ。・・・泣きな泣きな。」
「・・・う、」
ケイトリンの目にみるみる涙が溢れ、しばらく表面張力で保っていたそれがついに大粒の雫となって流れ出すと、ミシェルは、あやすように背中をとんとんと叩いてやった。泣き止むまでそれは続き、優しい空気がケイトリンの心を少しずつ癒していった。
「そういえば、ミシェルの香りを作らせてもらえるんだっけ?」
スッキリした顔で鼻をかむと、ケイトリンはいつもの調子に戻りミシェルに問いかけた。
ミシェルは少し顔を赤らめると、えへへと笑う。
「お願いできる?母さんがさ、早く孫が見たい見たいってもー、顔合わせるたびうるさくってー!」
「かしこまりました!」
ケイトリンはメモ帳を用意すると、きりりと仕事モードの顔つきに切り替わった。
「それでは、今どんな恋のお悩みを抱えていますか?」
「相手がいない!」
「ふむふむ。」
端的なミシェルの答えを、真面目な顔してそのままメモに落とし込む。
「こう、手っ取り早くさー、私とどう見ても相性がいい人と出会えないもんかねー。喧嘩もせず、お互い余計な干渉もせず、気楽に生きていければどんな人でもいいよこの際!」
「なるほど・・・」
さっき抱きしめられた時に香った、ミシェルが本来持つ、母のようにおおらかで優しい香りを思い浮かべ、その香りが誰かの琴線に触れるような組み合わせを考える。ケイトリンは思いついた素材の名前をさらさらとメモに書き出すと、ミシェルに頷いてみせた。
「うん、今工房にある素材ですぐ作れると思う!」
「ホント?じゃあそれ、お願いします!」
「はい!少々お待ちください!!・・・ナユくーん、ちょっと手伝ってー!」
表で腕立て伏せに勤しんでいるナユユを呼びにケイトリンが席を外すと、ミシェルはこっそりとため息をついた。
(・・・これでいい。これでいいの。)
誰かへの想いを吹っ切らなくてはいけないのは自分も同じだ。ミシェルは複雑な表情で、窓から表通りを眺めた。
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『ミシェル!ミシェル!!』
三年前の春。
狩りの合間に木陰で休むミシェルのもとへ、頬を薔薇色に染め、息を弾ませながら姉が駆け寄ってきた。
『どうしたの?レイチェル姉さん』
ミシェルより5つ上の姉、レイチェルは、嬉しそうに飛び跳ねながら、ミシェルに抱きついてきた。薬指にキラキラと輝く石のついた指輪が光る。
『彼にプロポーズされたわ!』
『彼って・・・まさかオルト!?』
何度も何度も頷く姉に、おめでとうと笑いかけた。
オルトは近所に住む暦織りの青年。艶やかな黒髪と紫紺の瞳がよく合う、落ち着いた性格をした、少し歳上の彼は小さな頃からミシェルとレイチェルの憧れだった。子どもの頃は、どちらがオルトのお嫁さんになるかでたびたびもめたものだったが、成長するにつれ、そんなことも少なくなっていった。レイチェルはできるだけミシェルに悟られないようにしていたようだが、二人が数年前から付き合うようになったのをミシェルは知っていた。
――これで、いいの。
大好きな姉と、大好きだったオルトが幸せなら、それでいいと。この時のミシェルは素直にそう思え、心からの祝福を贈った。
それから一年と少し経った頃。不幸は突然訪れた。
ある日の午後、買い物に出かけたレイチェルは暴走する荷馬車に遭遇。あっ、と思ったほんの一瞬の出来事だった。崩れた積荷の下敷きになり、そのまま帰らぬ人となってしまった。
大好きだった姉。美しかった自慢の姉。優しかったたったひとりの姉に、二度と会えない。その事実に、ミシェルの心は引き裂かれたように悲鳴をあげた。
だが、レイチェルを失ったことで苦しんでいるのはミシェルや両親だけではなかった。
まだ新婚だった。最愛の妻を失ったオルトの塞ぎこみ方はひどく、誰にも会いたくないと、最低限の用がなければ家にこもったきりになってしまったのだ。ミシェルには、かつて憧れたオルトのそんな姿は、とても見ていられなかった。
はじめは門前払いにされてしまったものだが、根気よく通い詰め、語りかけているうち、ミシェルの持ち前の明るさにオルトは次第に心を開いていった。以前のように穏やかな笑顔も見せてくれるようになった。
――これで、いいの。
以前のように、仲の良い義兄と義妹でいられれば、それだけで充分だった。
だが、先月のこと。
自室で仕事をしながら居眠りしてしまったオルトにブランケットを掛けようと近づき、彼の背中に何気なく手を伸ばした時、ミシェルは気づいてしまった。
姉がいなくなった今、昔から大好きだったオルトの一番近くにいるのは自分だ。今度こそは自分が、想いを遂げて幸せになったっていいじゃないか。姉のために身を引き、オルトのために身を引いた自分が、今度こそ報われたっていいじゃないか。
そんな薄暗い感情が、自分の中に渦を描き始めたことに。
それに支配される前に、逃げ切りたかった。
誰かに迷惑をかける前に、傷つける前に、絵に描いたような幸せを手に入れ、そんな醜い感情などはじめから存在しなかったと、自分も他人も100%納得させたかった。
(それこそが、今の私の最良の幸せとなるはず。)
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「ミシェルお待たせ、できたわよ!」
ケイトリンが小さなアトマイザーを運んでくる。
「ありがとう・・・!」
そっと受け取ると、手の甲に少し吹き付けた。安らかで柔らかい、ずっと嗅いでいたい香りがする。
「いい香り・・・」
思わずミシェルが感嘆すると、ケイトリンはうれしそうににこにこと笑った。
「ミシェルが持っている香りも、そんな優しい香りなのよ。それを引き立てるように作ってあるの。ミシェルの香りと相性のいい人が嗅げば、たった一度で運命の相手だと気づくはずよ。」
「そうなんだ、素敵ね・・・!あ、お代!」
ミシェルが代金を払おうとすると、小さな手にそっと止められた。
「これは、助けてくれたミシェルへの感謝の気持ち。あの時もだけど、今日だって。親切にしてくれてありがとう!」
ミシェルは微笑み、もう一度ケイトリンをハグしてお礼を言うと、帰って行った。
工房を出て、ひと呼吸。
手元から立ち上った香りがふわりと風に乗る。
想いを断ち切る準備は、できた。