14.影使い シェン·ブルック
茂みに、傷を負った小鳥が横たわっている。
翼に傷を追い飛ぶことが出来ず、餌を探しに行くこともできない。衰弱しているとひと目でわかる。もう長くないのだろう。小鳥の丸い小さな瞳は、広がる青空を映していた。当たり前のように、あの空を自由に飛び回っていたのに。そう嘆いているようにも、懐かしんでいるようにも見えた。生命の灯火が消えかかるたびに、小鳥の下の影はすうっと薄くなる。
ふと視界が、自分よりも遥かに大きな影で遮られる。大きく温かな手で、水をすくうように包み込み持ち上げられた。美しく澄んだ浅葱色の瞳が覗き込んでくる。自分は捕食されるのだろうか?抗うすべもなく小鳥は大きな手に体を預けた。
すると、突然歌が聞こえてくる。温かみがあり、透き通るような歌声。その歌声に合わせるようにして、翼の傷がみるみるうちに癒えていく。断裂していた筋や、かつて自由に翼を操っていた神経は繋がり、血が滲んでいた傷は元通り塞がった。消えかかっていた影がはっきりと濃度を保つ。抜けてしまっていた羽が蘇り、小鳥は大怪我を負う前の姿に戻ると、ぱたた、と小さな翼を羽ばたかせ、広がる空へ飛び立った。
歌声の主は、眩しそうに空を見上げた。さっきまで小鳥を乗せていた手元は、指先から徐々に透き通っていく。誰にも見られないようにもう片方の手で覆い隠した。
「また力を使ったの?シェン」
ハッと振り返ると、少し離れたところに紅い髪をした色白の少年が立っていた。
「ツバキ。」
シェンと呼ばれた人物は、少し驚いたように名を呼んだ。
艶やかな長い黒髪を風になびかせ、黒いドレスを纏ったシェンは、どこか神秘的だ。
ツバキは一瞬見蕩れたが、すぐにまっすぐシェンを見据えて口を開いた。
「この間も、お願いだからやめてっていったのに。」
シェンは困ったように微笑むと肩をすくめる。
「ごめんなさい、でも今の子、辛そうだったから。見ていられなくて・・・」
ツバキはシェンに近づくと、細い手首を掴み引いて歩き出した。
シェンは、透き通り始めた手元を見られるのではと思い一瞬抵抗したが、そのまま従う。
「牡丹餅もらったんだ。4つあるから一緒に食べよう。」
一つは帰る途中、道中でつい食べてしまった。
ツバキとシェンは、二人並んで東屋のベンチに腰掛ける。
包を開け牡丹餅を美味しそうに頬張るツバキの横顔を見て、シェンは、あと何回この表情を見られるかしらと思った。
アリステニアから森を抜け草原を超えた丘。そのさらに向こうには、神秘の森が広がっている。そこは、古くから、死と生命を司る影使いの一族が護ってきた。
影使いの目には、まもなく死が訪れる者の影が、命の灯火の弱まりに合わせるように薄くなっていくのが見える。その灯火を強くしたり、逆にもっと小さくしたりあるいは消してしまうこともできる特別な力を持っている。見方によっては脅威ともいえるその強い力は、自身の生命エネルギーを消費して発揮されるが故に、影使いたちは病弱で薄命。成人するまで生きていられる者はごく僅かだった。その為、不用意に力を使わぬよう、人との接触を避けひっそりと森で暮らしてきたのだ。
シェンはちょうど20歳。きっと長くは生きられない。影使いとしては高齢な方だ。それに人一倍優しい心を持つシェンは、小さな生き物にも躊躇わず力を発揮してしまっていた。生命エネルギーが枯渇した影使いが、この世から消えてしまうのは充分理解しているというのに。
「食べないの?」
「・・・!い、いただくわ」
ツバキにじっと顔を見つめられ、シェンは慌てて牡丹餅に手を伸ばした。
指先はほぼ透明になり、手首まで透き通りかけている手元が、ツバキの目に止まる。
「シェン!その手・・・!」
「あ、バレちゃった・・・?」
「前よりも透けてるし範囲が広がってるじゃないか!!」
シェンは力なく笑った。
「心配しなくても大丈夫、夜闇の中なら少しずつ影の力が回復していくし、雨の日は影が見えにくくなるから、力を使わずにすむもの。今すぐに消えちゃうわけじゃないわ。」
「それなら俺が今すぐ雨を降らせる!ちょっと待ってて・・・!」
勢いよく立ち上がり自宅へ向かおうとするツバキの服の裾を、シェンが消えかかっている手でつまんだ。
「・・・そばにいて、お願い・・・」
悲しそうに言われると、ツバキはそこから動くことができなくなった。
残酷な程に青々とした大空が晴れ渡る。
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「そこ、木の根が出っ張ってるから気をつけろ」
「うん」
ケイトリンとダニーはちょうど森を抜けたところだった。木々が開けると、目の前に広々とした草原が広がる。
少し離れたところに、小さな町と、ロランとソフィアの気球乗り場が見えた。
「いい風だな・・・!」
草原を撫でながら吹き抜けるそよ風に、ダニーは目を細めた。
「この草原を超えて向こうに見える丘を登ったところに、ツバキくんっていう子のお家があるようね」
その家に着いたところで、ツバキが今いるとは限らないし、その想い人がどんな人物かもわからないので手探り状態ではあるのだが、とにかく行かないことには始まらないと歩を進める。
「行きましょ!」
二人無言で歩く。
ケイトリンは、ダニーの横顔をちらりと伺った。ずっと聞きたかったことがある。だがなんとなくタイミングを逃していたのだ。尋ねてみようか。
不意にダニーがこちらを向いたので、目が合ってしまった。
「何だ?俺のかっこよさに見とれてんのか?」
「ちがうし。」
ケイトリンは顔を顰めると前を向き、決心したように尋ねた。
「・・・ライアンって、誰?」
「へ?」
ダニーから思わず間抜けな声が漏れる。
「ライアンって、言った。あなたが怪我をして帰ってから、目を覚ました時。」
思い当たったのか、ダニーは、あーー・・・と口髭に手をやり、空を見上げた。
「戦友の名前だ、昔の。王国軍時代の。そいつの夢を見てた気がする。」
「そうなの。」
きっとわたしの知らない戦士の名前ね。ライアンさんなんて名前の人、世界中にたくさんいる。
ケイトリンは自分を納得させると、ダニーに微笑んだ。
「仲良かったの?その、ライアンさんとは。」
「まぁな。いい奴だったよ」
お兄ちゃんじゃなかった。だってお兄ちゃんは軍人じゃない。心の優しいただの調香師。
――(ケイト、お兄ちゃん採取に行ってくる。夜には戻るから、いい子でお留守番してろよ?)
(はーい!)
風の香りを吸い込みながら、あの日、採取に行ったきり戻らなかった兄に、思いを馳せた。まだ小さかった頃は、兄と一緒にこの草原で凧を飛ばしたっけ。
懐かしい思い出に浸りつつ丘へと続く緩やかな坂道を登ると、どこからか優しい歌声が聴こえてくる。昔兄が歌ってくれた子守歌だと気づいた。
「なんだ、この歌?」
「子守歌だわ、ステキね・・・一体どこから・・・」
声に導かれるように進むと、東屋で寛いでいるように見える一組の男女がいた。
歌う女性の膝元で、紅い髪の少年が寝息を立てていた。見覚えがある。ロランとのテスト飛行の時に、空から見た男の子に間違いない。・・・あの子ね、ツバキくん!そしてきっと、彼の髪を愛しそうに撫で歌う女性が、想い人さん。見つけた!ケイトリンの表情が、ぱっと明るくなった。
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ぱさっと草の鳴る音がしたのでシェンが歌うのをやめ振り向くと、笑顔を浮かべた桜色の髪をした女性と、なんだか派手で怖そうな赤髪の男が立っていた。
「ステキな歌声ね!」
女性の方が話しかけてきた。褒めてくれているようだ。シェンは、久しぶりにツバキ以外の人間に会ったので嬉しくなり笑いかけた。
「そう?ありがとう」
隣へ行ってもいいかと聞かれたので、どうぞと促す。もう一つのベンチに二人は腰掛けた。ツバキが眠っていることに気づくと、小声で話しかけてくる。
「突然話しかけてごめんなさい。私はケイトリン、この人はダニーよ」
「どうも」
「私はシェン。・・・彼はツバキ。歌を褒めてくれてありがとう。」
ケイトリンとダニーの挨拶に、シェンも笑顔で返した。
「シェンさんとツバキくんは、仲が良さそうね。恋人同士なの?」
ケイトリンは会話から探ってみることにした。シェンは少し切なそうに笑うと、指先が消えかかっている半透明の手で、寝ているツバキの髪を撫でた。
「彼とそういう話をしたことはないわ。でも私はツバキが大好き。」
そして逆に問いかけてくる。
「二人は、恋人同士なのね?」
「そうです」
「ちがいます!」
回答をすかさず上書きするケイトリンと、間髪入れず上書きされたダニーは、バチバチと睨み合う。その様子を見て、シェンはおかしそうにくすくすと笑った。
「仲がいいのはわかったわ。でも・・・」
ダニーの足元に目をやると、少し表情を曇らせた。
「彼の方は、影が薄くなってしまっている・・・」
「?」
ケイトリンとダニーもつられて足元を見るが、普通に影があるように見えるだけだ。
シェンは目を閉じ深呼吸すると、聴いたことのない旋律の歌を歌い出した。
優しく懐かしい響きの歌声に合わせ、シェンの影がぐぐっと伸び、ダニーの影に届くのが、2人にも見えた。驚いているうちに、シェンがワンフレーズ歌い終わり、影は元通りの位置に戻っていった。
「・・・背中が・・・」
「え、」
ダニーは呆けた顔でシェンを見る。
「痛みが消えた・・・!?」
シェンはにこりと微笑むと小さく頷いた。
「もう大丈夫。いつまでも仲良くね。」
ケイトリンとダニーは驚いて顔を見合わせる。シェンがひと目でダニーが大きな傷を負っていることを見抜き、癒して見せたのだ、ということを理解すると、口々に礼を言った。その時、
「・・・シェン、あんなにお願いしたのに。」
ツバキが目を覚まし体を起こした。
「ツバキ。起きてたの?」
「頼むから自分の体を大事にしてよ。」
ツバキの抗議に、シェンは寂しそうな笑顔を返した。
「ごめんね、だって、二人とお友達になれたらって思ったの・・・」
「友達って・・・俺だけじゃ満足できない?シェンがいなくなるかもしれないって時に、無理してまで友達なんて作ってほしくない・・・!」
ツバキの言葉にシェンは瞬間的に頭の中がかっと熱くなるのを感じた。
「・・・自分が明日生きていられるかもわからない。それならば、少しでも多く、弱ってる命を救いたいの!・・・友達だって・・・もっとほしかった・・・邪魔をしないで、ツバキ!」
震える声で悲痛に訴えると、涙を流しながら走り去って行ってしまった。
邪魔・・・。その言葉がツバキの心に刺さる。俺は、シェンの邪魔になっているのだろうか。
ふらりと力なく立ち上がると、東屋から見える自宅の方へ歩き出した。
「ツバキくん・・・」
ツバキはケイトリンの方を向くと、無表情のまま声をかけた。
「もう少ししたら、夕暮れを呼ぶ時間だ。暗くなり始めるから、二人も帰った方がいいよ・・・」
そのまま背を向けて立ち去る。
「・・・行こうぜ」
「・・・うん」
ケイトリンとダニーも街へ戻ることにした。
なんだか訳アリのようだ。今の出来事をリリーに報告しなくては。
ところがその日、夕暮れどころか、いつまでたっても夜は訪れなかった。