12.姫の末裔
次の日の朝、占いの館。
リリーは、身支度を整えていた。
ナユユがやってくる時間にはまだ早い。
普段は頭からつま先まで、布で肌を覆っているが、眠る時くらいは年相応にお洒落をしようと、袖のないロング丈のネグリジェを纏うようにしている。温かい紅茶を入れたカップを片手に大きな鏡の前を通るとき、鏡の中の自分と目が合い、その姿のまま鏡の前にたった。
ウェーブのかかった豊かな深緑の髪が肩にかかり、鎖骨下にある印象的なタトゥーに目が留まる。
鬼と、龍をあしらった家紋。
生まれてすぐに一族の証として刻まれたものだった。
法龍院 百合。
それが、リリーが両親から授かった名だ。
百合が生まれた極東の島国は、いくつかの藩という自治区から成り立っており、百合は奥代藩を代々治める君主、鬼戸家に昔から仕える隠密の一族に生まれた。素性を知られぬよう、生まれた時から人前での肌の露出を禁忌とされ、親子、兄弟の前だけの時以外は常に、顔も体も肌を隠すことを強いられ生きてきた。
百合が10歳になった頃、各藩同士の内紛が活発となり、一族の者達も一人、また一人となくなっていった。他勢力との戦いに倒れる者、味方と思っていた者の裏切りから君主を守り倒れる者。百合にとっては、葬儀で棺に入った白装束の姿を見て、初めてその外見を知る者達ばかりだった。
このままでは、一族全滅も免れない。
毎晩、父と何事かを話し合っていた母は、男衆が戦に駆り出されて留守にしていたある晩、眠る百合を起こすと、人知れず海辺へ連れ出した。岩場の影には小舟が繋がれ、頼りなく荒波に浮かんでいる。
『お前はこれに乗り、この国を出るのです。奥代を出るということではありません。国から離れ、海の向こうへ旅立つの。・・・その昔、同じ様にして、鬼戸のお殿様が妹姫を逃がしたわ。お姫様は何処かへ流れ着き子を成し、鬼戸の血は受け継がれていると聞きます。お前はその末裔を探し出し、鬼戸の血を、そして法龍院の血を守るの。頼みましたよ。』
『・・・お母さまは、行かないのですか?』
母は優しく微笑む目元を覗かせた。
『百合はしっかりした子だから、安心して任せられるわ。』
百合は大好きな母が、自分を信頼して一人前と認め、大切な任務を任せてくれたと思い、しっかりと頷いた。
母の目元にうっすらと涙が滲む。
『居たぞ!こっちだ!!』
遠くから2つの明かりと、男の声が近づいてくる。
『さぁ百合、急いで・・・!』
母は声を潜め娘を船に乗るよう促すと、懐から手裏剣を一つ取り出し持たせた。
船を繋ぐ綱を解く。
『寂しい時は母を思い出して。いつも案じていますよ。達者でね・・・!』
『お母さま、行ってまいります!』
娘の乗った小舟が荒波に乗り、少しずつ遠ざかっていく。
君主の先祖が、かつての内乱の際に、他藩の君主に見初められた肌が白く美しい妹を海へ逃がした言い伝えは本当だ。奥代の者なら誰でも知っている美談として語り継がれている。だが、彼女のその後の消息は知られていない。子を成し鬼戸の血が受け継がれているというのも、母の出任せだ。それでもいい。この国は間もなく民同士で潰し合い、滅ぶだろう。ただただ、可愛い娘に生き延びてほしい。生まれてきてよかったと思いながら人生を全うしてほしい。その一心だった。
『百合・・・百合ちゃん・・・』
母は船を見送った。
百合も母の姿を目に焼き付けた。その時、
『法龍院の奥方、お覚悟!』
――追手の刀が、母を貫いた。
『お母さま!!!』
母は最後の力を振り絞り、娘に呼びかけた。
『生きなさい、百合!!』
百合の視界は波に遮られ、やがて陸地は遠く離れていった。
リリーは、今も、生きている。友達もできた。恋も、できた。
鏡に映る母譲りの藍色の目に、今日もちゃんと幸せですと心の中で報告した。
あの日母が言った話は本当だった。先を見通す能力と人の心をつかむ話術を持っていたリリーは、旅の占い師として放浪するうち、ここアリステニアへ辿り着き、和名をもつ男の子と出会ったのだ。名を、ツバキ·シュトラーレ。
リリーが仕えていた君主と同じ紅い髪、言い伝えで聞いていた姫君のように白く美しい肌。切れ長の目が印象的な涼やかで高貴な顔立ちをしていた。
天候と空を司る力を持つその少年に、リリーは素性を打ち明けた。少年は興味なさげに聞いていたが、リリーの話を疑いもせず、自分も極東の血を引いていると親から聞いたことがあります、と素直に受け入れてくれた。
やがてアリステニアも、周辺国との戦争に巻き込まれ、不安定な情勢が続いたが、リリーは人知れずツバキを占い、さりげなく彼に振りかかる不幸を避け守ってきたのだ。
ツバキはツバキなりに、リリーとは気楽な友達付き合いのスタンスでいたいようだが、リリーにとっては、あくまでも仕える相手。それが今の二人のちょうどいい距離感だった。
今日、一番目の予約枠でツバキが館へやってくる。ドライなようでいて、さりげなく優しい彼は、時々顔を見せてくれるのだ。
リリーの故郷の味、ツバキが気に入っている牡丹餅を作っておこうと思い、冷めかけてきた紅茶を飲み干した。
かたん。
すぐ側で、ものが落ちる音がする。
リリーが振り返ると、ナユユが佇んでおり、手に持っていたであろう書物や筆入れが床に転がっていた。
「ナユユ・・・」
「ご、ごめんなさいリリー先生、僕・・・僕・・・!!」
ナユユはリリーの美しい顔と、露わになった細い肩を見ると、顔を真っ赤にし、くるりと背を向け館を飛び出していってしまった。
「ナユユ・・・!」
リリーはナユユを追おうと思ったが、咄嗟のことにどう声をかけていいか分からず、その場に立ち尽くしてしまった。
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ケイトリンの工房兼自宅では、ダニーが3度目の眠りから目を覚ましていた。
ほとんど丸1日飲まず食わずで眠っていたダニーが腹が減ったと訴えるので、ケイトリンはリクエストに応えてチーズリゾットを用意してあげた。
ダニーは思いのほか元気そうで、ベッドの上で半身を起こし、ケイトリンの本棚から適当に漁った本を読んでいた。
「はい、どうぞ」
ベッドの近くにサイドテーブルを持ってきて、その上に皿を置くと、温かい湯気と共に良い香りが立ち上る。
「お、美味そうだな!」
「そうでしょ?たくさん作ったからお代わりもあるわよ」
「よし、食わせてくれよ」
「何でよ!手を怪我したわけでもあるまいし!」
「う・・・痛ててて、腕がぁ」
「はぁ・・・たった今その分厚い本持って読んでたわよね!?」
呆れ顔で指摘されると、ダニーはぶすっとふてくされた顔をした。
「なんだよー、怪我人には優しくしてくれよなー」
「・・・もー」
ケイトリンは、渋々椅子をベッドサイドに運んでくると、腰掛けてリゾットの皿を手に取り、スプーンで掬ったリゾットをダニーの前に差し出した。
「・・・はい」
「熱そう」
「こ、細かいわね!」
ふーふーと息を吹きかけ、改めて差し出した。
そっとリゾットを口にすると、ダニーは眩しい満面の笑顔をケイトリンに向けた。
「うん、美味いな!」
じわじわと頬が熱くなる。
ケイトリンはそっぽを向くと、よかったわね、と小さな声で答えた。
「なぁ、もう一口!もう一口!」
「わかったってば・・・!」
すると、玄関のドアがばん!と開きばたん!と閉まる音に続いて、ずんずんとこちらへ誰かが向かってくる足音がする。
「誰かしら?」
ドアを開けたままにしてある寝室の入り口に二人が目をやると、ナユユが真っ赤に染まった泣きそうな顔を覗かせた。
「ケイトリンせんせぇ・・・」
「ナユくん、どうしたの・・・!?」
ケイトリンはリゾットの皿をサイドテーブルに置くと、ナユユのそばに行き、かがんで目線の高さをナユユに合わせた。落ち着かせるようにそっと肩に手を置く。
「僕、見ちゃった・・・リリー先生の、は、は・・・はだ」
「お、何だ?エロい話か?」
「ばかっ」
茶々を入れるダニーを振り返りキッと睨みつけると、ダニーは手にリゾットの皿を持ち大口を開けて一人で食べていた。
呑気な様子を見ると、ケイトリンはずるっと力が抜けてしまう。
「リリー先生の肌を・・・み、見ちゃったんです。き、きれいだった・・・すごく」
ナユユは真っ赤な顔のまま、うるうるとした目を伏せた。
この子はこの子でどうしたもんだか。
ケイトリンは、額に手を当てながら、でもあのリリーが肌を見せるなんて、珍しいことが起きたもんだわ。リリーは大丈夫かしら、と思いを巡らせた。