虚ろな季節に願うこと
今日は三回目の文化祭。校舎の中から楽器を奏でる音や煌びやかな話し声が溢れ出す。鮮やかな中庭で俺は先輩と向き合っていた。大学生になりますます奇麗になった先輩。何事もなかったかのように俺と接してくれる素敵な先輩。ああ、やっぱり好きだなあ。
「俺、先輩のことが好きです」
高校に入学し一ヶ月。全員部活か委員会に入らないといけないという校則のもと、俺は図書委員会に入った。図書委員会をなぜ選んだかははっきりとは覚えていないが、確か友達の誘いでなんとなく選んだ気がする。やる気なんてものはなかったから、よく当番や委員会をさぼっていた。最初のうちはよく注意をうけていたが、全く態度が変わらない俺に同期の委員や他の先輩方には仕方がないと諦められていた。そんな俺を気にかけてくれたのが先輩だった。廊下ですれ違ったら笑顔で声をかけてくれた。基本は挨拶。時間があれば少し話をする。たったそれだけのこと。多分委員長だから話しかけてくれただけだろう。それでも、俺は何だか嬉しい気持ちになった。他の先輩方には無視され、同期には嫌な顔をされる。肩肘張って毎日を過ごしていた。自分の行動が原因とはいえ少し辛かった。そんななか先輩は光だった。他人をこんな気持ちにさせることができる先輩はすごく素敵だと感じた。先輩に憧れを抱き始めたのはこの頃だと思う。秋になり文化祭の準備が始まった。図書委員会では毎年、ポスターでオススメ本を紹介しているらしい。一人一枚は最低限書きさえすればいいが書きたい人は何枚も書くことができる。先輩は楽しそうに何枚も書いていた。俺は本に対する興味が薄かったから、とても困った。とりあえず何か読もうと先輩がいつもやってるみたいに本棚の前に立ってみた。けど、ただただ本の冊数の多さに圧倒されるだけだった。どんな本を読めばいいのか分からなくなってしまった。適当に一冊、本を取ってみたものの二、三行で飽きてしまった。そんな俺を見かねて先輩は一冊の本を勧めてくれた。
「よかったら読んでみて」
「俺、本読むの苦手なんですけど……」
「知ってる。ちょっと読んで、飽きたら言って。違う本を探してみるから」
と言い、先輩は作業に戻っていった。先輩を頼っているようで、少し悔しかったので自分でも本を一冊選び、先輩の本と一緒に借りて、家に帰った。晩ご飯を食べた後、机に向かい自分が選んだ方の本を読み始めた。ハッと気がついて時計を見ると長針が一周回っていた。ページは一ページも進んでいない。どうやら数行読んで寝てしまったようだ。頭をスッキリさせようとシャワーを浴び、再び机に向かった。先輩が勧めてくれた本を手に取る。また寝てしまうかもしれないなと思ったが、とりあえず読んでみることにした。読み始めると世界に引きずりこまれた。ゆっくりだが、ページをくる手が止まらなかった。本を読んでいてこんな経験をしたのは初めてだっ。途中で寝ることなく一冊読めてしまった。時刻は午前四時。全然眠くない。すごく面白かった。本の内容は宇宙を旅する青年が悩みながら成長していくというものだった。主人公の青年は自分とよく似ていた。俺もあの青年みたいに変われるのかもしれないと希望を胸に抱いた。今日が土曜日なのが憎たらしい。先輩にはやくこの感動を直接伝えたい。今ならポスターを書ける気がする。この気持ちをぶつければきっと上手いことできる。そう思いシャーペンをとった。が、紙を前にすると頭が真っ白になった。書けない。辛うじて数行書いたが、思っていることに言葉が追いつかない。他の人がこの文字の羅列を読んでもきっとこの本を読みたいとは思わないだろう。伝えたいことを自分が思っているように伝えるのは難しいことを痛感した。月曜日、俺は委員会も当番もないのに図書館へ向かった。先輩がいなかったらどうしようかと心配したが、それは杞憂だった。先輩は古典文学のコーナーにいた。
「先輩!」
先輩は少し驚いたように振り向いた。
「後輩くんが図書館にいるなんて珍しいね。どうしたの?」
「先輩。あの本すごく面白かったです。うまく言えないんですけどほんとに面白かったです!」
興奮して大きな声がでた。
「図書館ではもう少し静かにしてね。面白いって言ってもらえてよかったわ」
先輩は今まで見たどの笑顔より嬉しそうに笑う。
「あの、本を読めたのはいいんですけどポスターの文章が上手く書けないんです。何かコツとかありますか?」
「そうだなー、特にはないんだけど……その本を勧めたい人を具体的に思い浮かべながらかけばいいかも」
先輩は誰を思い浮かべながら書いているんですか、と聞きたかったけど聞けなかった。先輩の口から具体的な名前がでてくるのが怖かった。
「これじゃだめかな?」
先輩は俺が黙ったことを心配に思ったのか声をかけてくれた。
「全然だめじゃないです。具体的なアドバイスありがとうございます」
「そう、それならよかった。後輩くんの言葉から本当にあの本がよかったことが伝わってきて嬉しかったわ」
先輩の手がこちらに伸びてくる。何か本を取るのかと思ってすこしどいた。先輩の目的はそうではないらしかった。先輩の手は俺の頭を撫でた。
「こちらこそ、ありがとう。私そろそろ時間だから行くね」
先輩は源氏物語の本を持って俺の前から軽やかに去っていった。俺はチャイムの音が聞こえるまで動くことができなかった。図書館から教室に戻る途中で急に実感がわいてきた。先輩に触られた。今になって心臓がうるさい。顔とは言わず、全身から熱がでている気がする。恥ずかしいが、それ以上に嬉しい。ああダメだ。これは好きになる。ただの憧れの先輩ではすまない。先輩のことが好きだ。ポスターは先輩の笑顔を思い浮かべながら書くと、何とか書きすすめることができた。文化祭までに書きあげることができたのは先輩の勧めてくれた本だけだった。一冊の本にここまで向き合ったのは初めてだった。文化祭当日。書きあげたポスターを同級生や他の先輩方が見て驚いていた。当たり前だろう。今まで明らかにやる気がなく本に興味がない委員がポスターをきっちり書きあげた。同級生や他の先輩方に見直したって言われたり、褒められたりした。そう言われるのはもちろん嬉しかったけど、一番嬉しかったのは先輩に頑張ったねと言われたことだった。何か先輩に認められた気がした。それでも、先輩は俺にとってまだまだ遠い存在。これから先輩に近づけるように頑張らないといけない。先輩に充分近づけたら、その時に告白しよう。ポスターを書いている間にしっかり自分の気持ちに向き合った。この気持ちは一瞬の気の迷いでもなかった。なかったことにしようとしてもできなかった。届かなくてもいいからこの気持ちを大切にしようと自分の胸に誓った。二年生になり俺を委員会に誘った友人は委員会を辞めてしまったが、俺は残った。この委員会は一年から二年にあがるタイミングで毎年、委員の数が半減する。俺が残ったということを知り先輩は嬉しそうに笑った。辞めると思っていたのかもしれない。俺だって先輩がいなかったら辞めてただろう。先輩は本当に本が好きらしく放課後はいつも図書室にいた。当番の時はカウンターに、そうでない時は本棚の前にいた。昼休みや教室移動のときに先輩を見かけると紙束を持って走っていることが多かった。後で知ったことだか、先輩は一年生の時からクラスの委員長であり、何かの実行委員会に入っていたそうだ。そんな忙しい中でも俺に話しかけてくれていたのかと思うと少し優越感を抱いた。夏休みに入る前、先輩は引退した。引退したといっても先輩は勉強の為に図書館に通っていたから引退前とあまり変わらない日々が続いた。
台風の季節が去った後の雨の日、俺はある事件に巻き込まれてしまった。その事件の内容は省略するがこの結果、俺は先輩を泣かしてしまった。俺はあんなに優しい先輩を泣かせるつもりなんてなかったのに。本当にすみません。この日を境に俺と先輩の会話はなくなった。仕方がないと必死に自分に言い聞かせた。自分が悪いのだから。話せないのはとても苦しい。だが、この状態は俺の視界を広げてくれた。今まで見えなかった先輩の姿が見える様になった。悩んだりしている姿。他人の言葉に傷ついている姿。それらを悟られないように強く振舞っていること。先輩をもっと好きになる要素しかない。視界が広がって知りたくなかったことも見えてしまった。先輩には彼氏がいる。先輩にお似合いの優しい彼氏がいた。思いかえすと先輩とよく図書館に来ていた人だった。どうして気がつかなかったのだろうか。多分、先輩以外の人に注意を払ってなかったからだろう。自分がどれだけ先輩に夢中かが改めて自覚させられて恥ずかしくなった。それと同時に絶望的に叶わない恋が絶対に叶わない恋になったと分かってしまった。俺にあとどれぐらいの時間が残されているかはわからないがその間に先輩への気持ちを封印できるのだろうか。封印できないぐらいなら、もういっそ告白できれば楽になれるだろう。だが、先輩と話せないこの状態じゃ告白すらできない。どうすればいいか、そんなことをうだうだ悩んでいる内に先輩は卒業してしまった。先輩は前に進んでいき俺のことなんて忘れてしまうだろう。俺は先輩のことを忘れることなんてできないのに。この気持ちを抱いたまま俺も先輩がいない学校で前をむくしかない。
季節は虚ろに過ぎていった。決意をしてから約半年、先輩との思い出が詰まった文化祭の日がやってきた。元クラスメイトをひやかしにいったり、ステージをみたりして一通り楽しんだ後、俺は委員会のポスターがたくさん貼られている教室へ向かった。今年の一年生は本当に本が好きな人が多く、ポスターも楽しそうに書いていた。来年もきっと大丈夫そうだなと安心ながら教室の中に入った。そこには見覚えのある姿があった。もう二度と見ることはないと思っていた姿だった。背筋を凛と伸ばしてにこにこしながらポスターを読んでいる。本を選んでいるときと同じ姿だ。
「先輩……?」
つい声がでてしまったが、声は届かなかった。先輩は俺のことに気がつかずそのまま教室を出ていった。人混みを上手にかわしながら先輩はどんどん廊下を進んでいく。俺は先輩を見失わないように追いかけるのが精一杯だった。先輩にようやく追いついたのは中庭だった。中庭では紅葉も色づき、美しい落葉のカーペットができていた。先輩はその隅の方で立っていた。紅葉の写真を撮っているようだった。写真に凝っているのか方向を変えて何回も撮っている。その姿にも少し見惚れてしまった。なんて鮮やかな世界なんだ。久しぶりにこんな世界をみたかもしれない。そんな感動をおぼえていると強めの風が吹いた。その風にあおられ先輩の集中力が途切れた。今なら声が届くかもしれないと不意に思った。息を大きく吸い込んで一言。
「先輩っ」
先輩は目を見開いた。やっと届いた。
「後輩くん……だよね?」
「そうです! お久しぶりです」
先輩の記憶に俺はまだ残っていた。止まっていた時間が動き出した気がした。先輩は大学に入ってからのことをいろいろ話してくれた。友達のこと。勉強のこと。サークルのこと。俺は先輩に委員会がどうなったかについてしか話せなかった。委員会が俺と先輩の唯一の共通点だったから。それでも、先輩は真剣に聴いてくれた。大学生になりますます奇麗になった先輩。何事もなかったかのように俺と接してくれる素敵な先輩。先輩との距離は遠くなるばかりだ。そんな遠いはずの先輩と今向き合っている。もうこんな機会はないのかもしれない。そう思うと言葉が溢れてしまった。
「俺、先輩のことが好きです」
先輩は困ったように微笑む。
「ごめんなさい。今の私には大切にしたい人がいるから」
先輩は言葉を選びながらもはっきり言った。わかりきっていたことだった。先輩は俺なんかを選んでくれるわけない。寂しい自分を笑ってごまかしながら返事をする。
「ははっ。やっぱりそうですよねー」
「うん。ごめんね。でも、本当に嬉しかった。こんな状況になっても想ってくれてたなんて、ほんとに嬉しい」
「振った相手にもこんなに優しいことを言ってくれるなんて先輩はずるい人ですね」
ずるいけどやっぱり素敵な先輩。振られてもなお嫌いになんてなれるわけない。
「……先輩好きですよ」
「ありがとう」
何か言葉を続けないといけない気がしたがうまいこと言葉がでてこなかった。虚ろな季節にずっと願っていたことだけが言葉にできた。
「幸せになってくださいね」
先輩は黙ってうなづく。その目には涙が浮かんでいた。また、泣かせてしまった。先輩を泣かすのはあの葬式のときだけにしようと誓ったのに。その誓いすら最期まで守れなかった。
「最期ですし、笑って見送ってくれませんか」
優しい先輩につけこむように最期のわがままを言った。先輩は頷く。こんなわがままでさえ許してくれるのか。全くもって先輩には敵わないな。
「それじゃあ、後輩くん……さようなら」
先輩は素敵な笑顔を作って言った。「先輩ありがとうございました」
俺は零れてきた涙を拭い、笑って言った。
「さよなら」
急に感覚が薄くなる。先輩との記憶が走馬燈のように回る。好きな本の話をしたこと。当番が一緒だった日のこと。好きになった日のこと。浮かんでくる先輩の姿はいつだって輝いていて素敵だった。本を楽しそうに選ぶ姿。友達と話してる姿。委員をまとめている姿。何事にも必死に前を向いている姿。俺の人生は失敗ばっかりだった。それでも、俺は先輩を好きになったことだけは誇れるよ。白くなっていく世界の中、先輩と先輩の彼氏の姿が見えた。初めて見たな、その表情。俺にはさせることができなかった表情だ。ああ、また好きになる。遅いのに。もう届かないのに。だから、そんな表情をさせることができる貴方に一つお願いがある。どうか、どうか先輩を幸せにしてください。俺には叶えることができない夢を勝手に託す。もう考えることができなくなってきた。先輩、どうかお幸せに。
消えてしまった後輩の姿を思い浮かべて凜の目はうるんでいた。誰かが凜の名前を呼んでいるのが聞こえて凛は顔を上げた。泣いている凜を見た諒は戸惑いながら声をかけた。
「どうした?何かあったのか?」
凜はどう答えるか少し迷ったのち
「なんでもないの」
と答えた。諒は不審そうな顔をしたが、結局何も言わず凜の頭を撫でた。凜は諒のこういう優しいところが好きだ。
「ねえ、諒くん。私と一緒に幸せになってくださいね」
「……おう」
涼の照れた言葉に凛の頬は自然と緩む。風が頬に残っていた涙を優しく拭った。涼は涙がとまった凛の様子をみて安心したように笑った。
「じゃあ帰るか」
「うん」
凛と涼は自然に手を繋ぐ。この距離が何よりも愛おしい。これからも二人で歩いていく。その道に何があっても涼くんと一緒に幸せになるから安心してね、後輩くん。さようなら。