物事の始まり
2021年5月12日 修正。今後、次回以降の話もゆっくりと修正していきます
〜side柚稀〜
「マスター、もう一杯ちょうだい」
健人達と別れた後、私は適当に視界に入ったバーに足を踏み入れた。もう何杯目になるのか分からない。それでも私は、お酒を頼む。
こんなにお酒を飲むのは久しぶりだ。大学4年の頃、サークルでの卒コンの際に浴びるように飲み、ひどい頭痛と吐き気を催し痛い目にあってから、お酒は自重していたからだ。付き合いで飲むことはあっても、コップ3杯までと決めている。
「まだ飲むんですか?明日、仕事じゃないんですか?二日酔い、酷くなっちゃいますよ」
マスターは軽く苦笑した。もう五十代はいっていそうで、顎辺りにある髭が、とてもよく似合っている。ザ・バーテンダーという漢字だ。
ついさっき健人達と荒んだ別れ話をしていたものだから、マスターの優しい言葉が嬉しい。身に染みる。
「いいの、いいの。私、今日はキレーに酔っぱらいたい気分なんだよねぇ」
「まだ若いんだから、体は大事にした方が良いですよ」
「うん〜、そする。だから、もう一杯!」
「あのねぇ」
マスターが呆れているけど、気にしない。そう、今日は酔っぱらいたい。嫌な事は、全部頭から追い出したい。
「あ〜、もうヤだ〜」
カウンターに突っ伏すと、目の前にグラスが置かれた。
「それで終わらせなさいね」
「えー」
起き上がり、私はグラスを持つ。一気にいかず、少しずつ。
柚稀は強いから、大丈夫だよな。泣かない奴より、泣いてる奴を助けたいんだ。
健人の言葉が鮮やかに蘇る。思い出したくなんかないのに。健人の理論でいくと、なんだ。私は、泣けば良かったのだろうか。いかないでと、泣き叫べば良かったの?
柚稀の、泣かないぞってトコ、かっこいいよな
よくそう言ってくれていたのにね、健人。私は基本、弱音を吐かない。涙だって、流さない。
涙は女の武器だとよく言うけれど。まさにその通りだと思う。女が泣けば、その女が悪かろうと男が悪いようにとられてしまう。実際に会社でも、正当な理由で怒られていた女性社員が涙を流せば、何一つ悪くない叱責していた上司は白い目で見られていた。別に、怒鳴っていたわけでも、酷い言葉を吐きかけていたわけでもないのに。
私は涙を、逃げ道だと思っているから。女は涙を武器にした時点で、負けなんだ。健人だって、私のそういう所を評価してくれた。
なのに、ね。
柚稀は強いから、大丈夫だよな。泣かない奴より、泣いてる奴を助けたいんだ。
「実際、泣かれるとそっち行っちゃうんだよねぇ」
本っ当、男は信じられない。
「大体、なんで真紀なのよぅ……」
将来プランまで決めていたのに、だ。結婚式だって、一ヶ月後なのに、だ。私を大好きだって言ってくれていたのに、だ。
男は、簡単に離れていく。3年間付き合っていた女より、浮気相手に泣かれたら、泣かない本命よりそっちに行ってしまう。
じゃあ今までの私達の時間ってなんだったの?本気だったのは、私だけだったの?
ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな。
健人なんて、こっちから願いさげだから。謝られたって、許してやらない。せいぜい真紀と、デキ婚生活を送ればいい。
私だって……
「もう、恋愛はいいかなぁ……」
少なくとも、私は本気だった。何度も何度も、健人との生活を夢に見た。健人と幸せになるって、信じていた。
あんな奴だったけど、大好きだった。健人の瞳が、声が、髪が。重い荷物を持っているお婆さんがいれば、荷物を持ってあげて。風邪をひけば大袈裟なほど心配してくれた。
全部が大好きだ。
だからこそ、もうこんな思いはしたくない。傷つくのが嫌なら、傷つく原因を作らなければいいだけ。相手を本気で好きになればなる程辛くなるのなら、好きにならなければいい。
けれど今は。本気で健人を好きになってしまっている今だけは。
「今回ばかりは、仕方ない」
我慢しようとしても、涙が出てくる。溢れ出す涙が、私の視界をぼやけさせる。
ねえ、健人。私は全然、強くなんてないんだよ。健人に振られただけで、こんなにボロボロになるんだよ。
私は一気にお酒を飲み干す。あー、なんだか体が一気に熱くなった。
フワフワして、頭がボウッとして、夢の中にいるみたいな感覚。けれど視界は相変わらずぼやけたままで。ずっと変わらない景色が広がっていて、夢じゃないんだなって実感する。
「おかわりぃ」
呂律の呂律の回るない口調で空になったグラスを出す。
「それ以上はやめとけ」
出したグラスが、ひょいと知らない声と共に奪われた。
「はあ?」
いきなり上から降ってきた声と、気持ち良く飲んでいたお酒を取り上げられ、私は当然不機嫌になる。
「何すんのよ、邪魔すんな」
「少し見てたけど、明らかに飲みすぎだし」
その声の主は、すとんと私の横に腰掛けて、くんくんとお酒の匂いを嗅ぐ。
「うわっ、これコルシアじゃん。どんだけ飲んだんだよ」
「別に何飲んだって良いでしょ。大体誰よあんた」
酔った頭なりに、目の前の男が不審者だと判断する。
「で?何杯」
「そんなに飲んでない、多分3杯ぐらい」
「5杯、次で6杯ですね」
私の言葉を、マスターが訂正する。男がギョッと目を見開く。
「は?お前バカか?マジでもう止めろ」
「あーもう耳元で叫ばないで、頭ガンガンする……」
額を抑える。グワングワンと大声が響く。久しぶりの感覚に、相当酔っぱらっているかもな、と他人事のように思う。
隣に座ったそいつは、マスターにカクテルを頼んだ。
「それで、あんたは何でそんなに荒れてるの?」
男は氷をカランと鳴らした。ああ、氷が欲しいと思えば、マスターが氷水をくれた。ありがたい。
「別に、なんでも良いでしょ。あんたに関係ありません」
「話、聞いてやっても良いけど?」
冗談じゃない。なんで見ず知らずの男に、婚約者を寝取られた話なぞしなくてはならない。何の罰ゲー無だ。
「喋ったら、ある程度すっきりすると思うけど?親切心ってやつ」
「親切というより、物好きだよねえ」
「うるせ」
けど、まあ、この物好きな奴との会話が、一時でも悲しみを忘れさせてくれるというのならば。
受けてたとうではないか。