八 不屈
そして庄田は穏やかな口調で、質問をした。
「哀しい、ですか?」
逸希は、驚いたように上司の顔を見た。
「・・・・」
「正直に言いなさい」
「・・・哀しいです」
「そうですね」
庄田は立ち上がった。そしてテーブルを回り込み、逸希の隣に座り、部下の頭に手を置いた。
「浅香もそうでしたし、佐野もきっとそうでしたし・・・私もそうでした。」
「・・・・・」
「初めて人を殺したときは、自分の身の置く場所さえ、わからなかった。」
「・・・・・」
「でも、だんだん慣れてきてしまう」
「・・・・・」
「でもね。だめですよ。」
「・・・・・」
「慣れては、だめです。毎回、ちゃんと、哀しみなさい。それがエージェントであり、・・・・いつかアサーシンになったら、なおのこと、それが必要なのですよ。」
「はい・・・・」
逸希は深くうつむいた。
庄田は、部下の頭をそっと引き寄せ、胸で抱きしめるようにした。
「しかも、逸希さん、あなたの場合は、あの警護員のこともありましたから」
「・・・・・」
「さらに、負担は大きかったと思いますよ。」
「庄田さん、・・・・僕は・・・・・・」
「よくがんばりましたね」
「僕は・・・必ずアサーシンになります・・・・・僕は・・・庄田さんのチームで、絶対に、なってみせます」
「ええ。そうですよ。」
逸希の両目から大粒の涙が零れ、頬を伝い庄田の胸と太ももを濡らしていく。
肩を震わせ、それ以上話すことができなくなった部下を、庄田は長い間その胸に抱きしめていた。
雑居ビルの二階に入っている大森パトロール社の事務室は、深夜に近い時刻であることだけでない、重い空気が満ちていた。
「警察が身元を確認したそうだ。関わった警備会社ということで、情報提供してもらえた。」
「村瀬博史氏に、間違いなかったんですね」
月ヶ瀬が棒読みのような口調で、言った。
波多野は、残酷な事実を再度現実のものと念押しするように、頷きながらゆっくりと言った。
「・・・そうだ。ご家族が確認された。」
応接室には、波多野部長に向き合って山添と月ヶ瀬が座っている。
「死因は・・・・」
「鋭い刃物で、喉元を掻き切られていたそうだ。一撃で、見事な切り口だったそうだよ。」
「・・・・・・」
「プロの仕事だ。」
応接室から出てきた月ヶ瀬が、ロッカーから上着を取りすぐに事務所を出て行った後、波多野もしばらくして出てきて、まだ残っているふたりの警護員の横まで来て立ち止まった。
自席に座っている葛城とその向かいの席に座っている高原が、不安そうな表情で上司を見る。
「そんな顔をするな。怜、晶生。」
「波多野さん・・・・」
「仕方がないさ。ひとりのクライアントを一生守れるわけじゃない」
沈黙が流れ、波多野はさらに沈鬱な表情になりため息をついた。
「お前たちの気持ちはもちろん、わかっている。」
「・・・はい・・・」
「同じターゲット。同じ会社であるならもう間違いはない。同じ刺客だ。」
「はい。」
「そういうことだ。」
「・・・・」
「そして、人を殺してしまった以上、もう、あいつがうちの会社に来ることはない。仲間になる可能性は、これでゼロになったわけだ。」
「・・・・はい。」
波多野営業部長が事務所を出ていった後、高原と葛城は応接室へ入った。
山添が携帯端末といくつかの紙資料を片づけていた。
入ってきたふたりの同僚のほうを振り返り、微笑する。
「晶生、怜。そんな顔するなよ。わかってたことだ。」
「崇・・・・・・」
「でも確かに俺も、一瞬甘い期待を抱いていたよ。逸希がなにかのテストを受けてるなら、ボディガードがいる状態で狙い続けるんじゃないか。そうしたら、あいつはまだまだ未熟だから、なかなか成功しないんじゃないかなって。」
「・・・・・」
「でも、あいつもプロだもんな。いつまでも成果が上がらないことが許されるはずもないよな。」
「・・・・・・」
逸希の犯行という確証があるわけではない、と言いかけて、しかしこれが無意味な気休めであることを知っている以上高原も葛城も口にはしなかった。
「大森パトロール社随一の警護員だった朝比奈和人の、弟は、これで名実ともに、阪元探偵社の立派なエージェントだ・・・・。残念なことだけど、現実を受け入れるしかないよ。」
「・・・ああ、確かに・・・・そうだな・・・・・・」
端末と書類を持って、山添は応接室を出て、立ちすくむ同僚たちの肩に順に手を置いた。
「ありがとう。心配してくれてるんだよな。・・・でも、大丈夫だから。お前たちのほうが、ひどい顔してるぞ。」
「・・・・・・」
「知らせを聞いて、駆けつけてくれて、ありがとう。なんだか、嬉しかったよ、やっぱり。」
「そんなこと・・・・・」
葛城はその先の何かを言おうとして、言葉をつまらせた。
「俺は端末からデータをサーバーへ移して、書類をチェックしたら帰るから。時間かかりそうだから、晶生も怜も今日は先に帰ってくれ。晶生は明日早朝から警護だろう?」
「ああ・・・・。わかった。」
高原と葛城は、それぞれ山添の肩や背中を軽く叩き、そして事務所を後にした。
葛城の車で二人は夜道へと走り出したが、言いたいことを相手が言いだすのをしばらく互いに待っていた。
運転席の葛城が、ようやく言葉を出した。
「晶生。やっぱり心配だよ」
「そうだな」
「でも、何を言ってやればいいのか分からない。」
「ああ。そうなんだよな」
「何を言っても、帰って崇を困らせるような、追いつめるような、気がする。」
「馬鹿みたいに気を遣うからな、あいつ。」
「うん。まあ、お前も同じだけどね、晶生。」
「・・・・・・」
「ごめん、そういう意味じゃないんだ」
「いや、なんとなくわかるよ。俺もそう思う。なんというか、共に深みにはまっていく感じなんだよな・・・・」
「そうだね。」
「そうなんだ。」
葛城は少し車のスピードを緩め、ため息をついた。
表通りから深夜の住宅街へ入ったところで、山添は大型バイクのエンジンを止め、降りて押しながら自宅マンションまでの数十メートルを静かな通りを歩いていく。
静まり返っている生活道路沿いに、いくつかの低層マンションが並んでおり、門燈だけが眠そうに灯っているものが多い。
途中でヘルメットを脱ぎ、片手で両目をごしごしとこする。
やがて自宅のあるマンションのエントランスが視界に入り、山添はバイクを押す手のスピードを少し緩めた。
足が止まる。
マンション前の塀に中型オートバイを立てかけ、それにもたれるようにして、細身の青年が地面に腰を降ろし、開いた両足を体の前で曲げて両膝に両肘を乗せていた。
ここが深夜の住宅街でなければ、ツーリングの途中で河原でのんびりと一休みしながら空を見ている、といった風情だった。
山添のほうを見て、黒髪を長く伸ばした青年は街灯に照らされた白い頬を微かにほころばせ、しかし強い視線を同僚へと向けた。
「最近、僕の家にばかりみんな来るけど、たまには他人のところに出かけてみたよ。」
「月ケ瀬・・・・」
月ヶ瀬は大きすぎない、しかしよく通る声で行った。
「男のくせに、泣き虫なんだね。山添。」
「・・・・・・・」
少しの沈黙があった。
「兄弟だからって、何か特別視なんてしてないよね?」
「・・・・・」
冷たい美しさの両目が、さらに厳しい色に染まり、容赦のない微笑で満たされる。
「和人は和人。そして、逸希は逸希だよ。」
「・・・そうだな」
「そして・・・お前が逸希くんをどう思っているかということと・・・・」
「ああ。あいつが俺をどう思うかということとは、関係のないことだ。」
「そうだよ。それからね。」
月ケ瀬は髪をかき上げ、僅かに顔を下へ向け少しだけ上目づかいに同僚の顔を見た。
「・・・・」
「愛しているかどうかと、味方かどうかも、何の関係もないことだよ。」
「・・・・・」
微かに唇で笑い、月ケ瀬はゆっくり傍らのヘルメットを拾い上げて被り、オートバイに跨った。
「それじゃあね。今回の案件、支援ありがとう。レポートは全部僕が書く。僕のほうがうまいし早い。文句ある?」
「・・・・ないよ。」
エンジンがかかった。
最後に山添が言った言葉は、住宅街の静けさを乱し走り去ったオートバイのエンジン音にかき消された。
角を曲がったところでエンジンをかけず静かに停まっていた車の中で、高原は助手席の開いた窓から立てていた聞き耳を、通常状態に戻して運転席の同僚のほうへ注意を戻した。
小さくため息をつき、葛城は前を向いたまま微かに苦笑していた。
「やっぱり俺はあいつに、嫉妬するよ。」
高原が悔しそうに言い、葛城はついに声に出して苦笑した。
雲のない空から昼前の陽光が窓から事務室を照らしている。
阪元探偵社の事務所は、長身の黒髪のエージェントがガラス戸の入口から入ってくると、その空気が一気に変わる。
「ああよう寝た。目覚めのコーヒーでも飲むか」
「俺の運転がうまいから熟睡されてましたね」
「あほか、俺やからお前の運転でも寝られるんや」
「ふたりとも、恥ずかしいからちょっと声を小さくしてよ」
「うるさいなー祐耶。大声は地声や。」
「お帰りなさい、酒井さん、深山さん、板見くん。」
次の仕事の現場の下見から戻ってきたチームのメンバーたちを、和泉が出迎える。
「コーヒーは淹れておきましたよ。吉田さんが、報告を聞きながら飲みましょうって」
「おお、さすがやな、和泉」
「ちょっと、酒井さん」
「なんや」
「胸ポケットの中のものは、没収します」
和泉は女性にしては背が高いが、さらに長身の酒井の顔をその健康的な小麦色の顔で見上げて睨む。
そして酒井からたばこの箱をとりあげた。
「板見くん」
「は、はい」
ショートカットの似合う和泉の愛らしい童顔が、さらにこわい顔になり次は板見のほうを見る。
「まさか車の中で喫煙している酒井さんを放置してたりとかしてないよね?」
「いえ、その」
「返してくれ、和泉。買ったばっかりなんやから」
「その割にずいぶん減ってますよ、中身。」
「おかしいなあ」
リーダーの待つ会議室へ次々と入っていった、よそのチームのメンバー達を見ながら、自席で庄田は静かに笑った。向かいの席で帰り支度を整えたまま少しぼんやりとしていた浅香と目が合い、浅香が言った。
「社長も今日からご出勤でしたね。」
「ええ。もうすぐ到着されるでしょう。」
浅香は待ち遠しげに社長室の扉のほうを振り返ったが、彼がいる間には部屋の主は現れそうになかった。
三十分ほど後、再びカンファレンスルームの扉が開き、最初に出てきた深山が浅香のほうへ歩いてきた。
「仁志、僕は今日はこれで終わりだけど、どうする?」
「うん、大丈夫だよ。行くか。」
浅香は立ち上がり、庄田へ向かって一礼した。
「それでは、失礼いたします」
「お疲れ様、浅香さん。」
高層階から地下へと降りるエレベーターの中で、ふと浅香が言った。
「祐耶、そういえばちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「いつだったか、トレーニング・センターで会ったとき、お前のチームで吉田さんの個人名を出すのがタブーだって言ってたことがあったよね?」
「ああ、そうだね。」
「あれは、どういうことだったの?」
「そうか、あれだけの説明じゃわかんないよね。確かにそうだね。」
深山は異国的な顔に楽しそうな笑顔を浮かべた。
「俺が心配してたら、庄田さんは明るくお笑いになって、大丈夫っておっしゃった。」
「そりゃそうだよ。凌介の個人的なことだもの。」
「?」
エレベーターを降り、地下駐車場の中を歩きながら、深山が説明を続ける。
「凌介はね、うちの会社がチーム制になる前、フリーだったころ、すごく素行が悪かったんだよ。」
「そうなんだ」
「特に女性関係はね。女遊びは酷かったし、彼女もとっかえひっかえしてた。」
「ふうん」
「でも、吉田さんのチームができてその筆頭メンバーになってから、そういう生活はぴたっと止まったんだ。」
「なるほど」
「わかりやすいよね」
「そうだね。なるほどね。」
深山が車の扉を開け、助手席に浅香が、運転席に深山が乗り込む。
エンジンがかかり、車は静かに滑り出した。
「・・・でも、それまであれほど沢山の女性とつきあってたくせに、凌介はまるで初心なんだよね」
「・・・・」
「本人だけが、全然、自覚さえなかったんだから。ずいぶん長い間。」
「ご自分の・・・吉田さんへの想いについて。」
「うん。それまでどんだけ真剣な恋愛をしてこなかったのかって感じ。」
「あははは」
「でも、あの大けがの後、やっと多少は自分でも自覚したみたいで。・・・それで、たぶんだけど吉田さんと何かあったんだと思うんだ。」
「なるほど」
「和泉さんも板見くんも同じ意見だからね。でもどうせ手を握ったとかキスしたとか、まあそんな程度のことだろうな。」
「じれったいな。」
「そうなんだよ。しかもそれからずいぶん何日も何日も、凌介は吉田さんを避けてたし、名前を聞いただけで機能停止してたんだ。僕たちたいへんだったんだよ。」
「すごくよく理解できた。確かに、大変だ。」
「うん。」
車は明るい日差しの中を、街路樹の間を走っていく。
まぶしそうに目を細め、深山は運転用のサングラスを取り出してかけた。
「謎がとけてすっきりしたよ」
「それじゃ、食事でもしてくか」
「そうだね。・・・それにしても、庄田さんは、さすがだな。」
「なにが?」
「こういうことを、俺の話を聞いただけで理解されたみたいだったから。そして、笑っておっしゃってた。人生経験の違いですかねって。」
急に深山が黙り込んだ。
浅香は当惑し、尋ねた。
「・・・僕、なにかまずいこと言った・・・?」
「ううん。・・・あのさ、仁志、もしかして知らなかったんだったら・・・僕から聞いたって誰にも言わないでくれる?」
「うん」
「兄さんに聞いたことがあるんだけど」
「社長に?」
「そう。・・・庄田さんの奥さん・・・というか籍が入ってたかどうか知らないから、恋人っていうべきかな・・・その人は、庄田さんを殺そうとした人から彼をかばって、亡くなったんだよ。」
「・・・・・・」
「だから、恋愛とかの話に、庄田さんが抵抗なく反応されるっていうのは、ちょっと意外な気がしたんだ。」
「・・・そうだったんだね・・・・・」
「知らなかった?」
「知らなかった。」
浅香は正面を向き、ため息をついた。
「・・・仁志、ごめんね。こんな話をして」
「いや、してくれてよかったよ。俺が、自分のもと恋人をターゲットとして殺さなければならなかったとき、庄田さんはあとから俺とターゲットとの関係を知って、すごくご自分を責めておられた。でも考えてみたら、それはひとつの・・・背景だったのかもしれない・・」
「・・・・・」
「・・・・庄田さんがご自分を犠牲にして、俺たちが安全に仕事できるようにしようとされたことの。ご自分がアサーシンとして無理をされてきたことが、もしかしたら、再び、愛する人を失うっていう事柄を目の当たりにして、限界に達するきっかけになってしまったのかも・・・・・」
「・・・・・仁志」
「そうかもしれないよ」
「仁志、あんまり考えないで」
「・・・・・・」
「お前の言うとおりかもしれないけど。でもね、それは、今考えてもしょうがないよ。」
「・・・・・・・・」
深山はサングラスを持ち上げた。
「僕、それほど恋愛経験が豊富なわけじゃないけど」
「うん」
「でも、ちょっと思うんだ。」
「うん」
「失っても、やっぱり、恋愛しないよりは、したほうがいいよね」
「・・・ああ。」
「そうだよね」
「うん、そう思うよ。」
「それが、どんな失い方であっても。」
「・・・そうだね。」
夜、茂が打ち合わせコーナーで次の警護案件の下見について葛城と話していると、事務所に茂と同じくらいの年齢の、そして茂より一回り小柄な警護員が現場から戻ってきた。
振り向いて葛城が声をかける。
「槙野さん、お疲れ様」
「こんばんは、葛城さん。ありがとうございます。」
そして槙野の背後から、人間ではないものの声がした。
「ニャー」
「その声は」
槙野は背中に背負ったリュック型ペットキャリーを降ろし、葛城にバッグのネット部分を向けて見せた。
「ミケ!元気そうですね」
事務所の奥の自席から山添と高原も立ち上がって歩いてきた。
「遅かったのはミケを連れに一度自宅へ戻ったのか」
「そのとおりです、山添さん」
槙野は最も尊敬する先輩警護員の山添に向かって笑顔で答え、そして三毛猫をバッグから出して山添に差し出した。
「猫の抱き方ってよくわからないけど・・・」
「山添さんは犬しか飼ったことがないっておっしゃってましたよね。」
「ああ。猫はなつかないって家族が犬派だったんで」
「なつきますよ。是非猫も試してみてください」
槙野の両手に両脇を持たれて長い胴を伸ばしながら、ミケは白いお腹を見せ、山添を目が合うと再びニャーと鳴いた。
「なんだか、可愛いですね」
「はい。抱き方も簡単です。ここを持って、こっちの手でここを支えて・・・・」
言われるとおりに山添が両手で抱くと、ミケは安定して抱かれて収まった。
山添の鼻をミケがくんくんと嗅ぎ、大きくあくびをした。
「あははは。安心してる」
「山添さん、猫好きがするんですね」
「そうかなあ」
葛城が笑って言った。
「そうだよ、崇。俺と違ってアレルギーないんだから、一度飼ってみれば?」
「で、お風呂に入れては事務所に連れてきて・・・」
「そう、俺の福利厚生に役立つし、もしかしたら事務所の看板猫になるかもしれない」
「まあそれは・・・・」
山添は背後の自席で作業している月ヶ瀬のほうを振り向いた。
彼は特に反応はしていなかった。
「・・それは、猫が嫌いな警護員がいるかどうかに、よるけどね。」
「はははは」
阪元航平は、久しぶりに顔を出した職場から自宅へ戻るとほぼ同時に、携帯電話が鳴りしばらく鳴らしてから応答した。
「もしもし、兄さん?」
「祐耶。兄が残業してたのにお前は明るいうちに帰ってしまって冷たいよね」
「僕がいないほうが落ち着いて仕事できるでしょ」
「まあそれはそうだけど」
電話で話しながら、阪元は廊下を抜け、明かりをつけながらリビングへと入る。
「・・・今まで、仁志と食事してた。」
「ああ、浅香とね。」
「うん。さっき別れたとこなんだけど、これからそっちへ行っていい?」
「近くにいるの?」
「そうでもないけど。なんとなく今日は心配な気がするんだ」
「私のことが?」
「そうだよ。兄さんは戸締りとかあまり用心もよくないし」
「あははは、また襲われるんじゃないかって?」
「うん。」
リビングのスタンドの明りだけを点け、ほの明るい光の中で、阪元はソファーに腰を下ろす。
「ありがとう、それじゃ、来てもらおうかな。ただし、泊めてあげるんだから、おいしい夜食はつくってね。」
「わかったよ。・・・あのね、ほんとに、胸騒ぎがするんだよ。」
「お前の胸騒ぎって、今まで当たったことあったかな」
「あまりないけど、・・・・・。」
「?」
「今日、キーホルダーを新しくしたんだ。」
「ああ」
「古いお守りつきだったのはね、兄さんが襲われたあの日、紐が切れたんだよ。」
「そうか」
「そのときのことを思い出したら、なんだか怖くなったんだ」
「またそうなりそうで?」
「そうだよ。運転してて、またぷつんと切れて、そして僕が近くにいない。そんなことになるんじゃないかって」
声を出さずに阪元は笑った。
「祐耶、紐が切れることを、不吉だと思うの?」
「うん」
「でもそれは違うんじゃない?」
「・・・・・」
「だって私は、こうして生きてる。」
「・・・・・・」
「むしろ、お守りは、身代わりになってくれたんじゃないかな?」
「・・・・あのさ、兄さん」
「ん?」
「それ、板見くんも、おんなじこと言ってた。」
「そうか」
今度は阪元は声に出して笑った。
「どうして笑うんだよ」
「ははははは・・・・。だってね、お前より、後輩の板見のほうが、ずっとしっかりしてるみたいだから、ね。」
「うるさいなあ。とにかく、今から行くから。」
「わかったよ。」
日付が変わるころ、到着した弟を阪元は出迎え、そして台所へと丁重に案内した。
深山の胸騒ぎは今回も当たらなかったが、深山は何も不満そうな様子もなく、何品もの料理をつくり兄をあきれさせた。
半月が西の空に輝き、薔薇の庭を仄かに照らしだしていた。
第二十話、いかがでしたでしょうか。
次のエピソードも、多分書けるのではないかと思います。
これからもよろしくお願いします。




