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七 次善

 数本のバラの樹以外には何もない、簡素な芝生の庭で、洗ったままの金茶色の短髪を風になびかせ、会社社長というより学生のような風情で阪元航平は何本かのバラの花を切り取っていた。

 白薔薇の蕾は、わずかに微笑み始めている。

 薄い雲から午後の太陽が顔を出し、明るく常緑の芝を照らす。

「兄さん」

 呼びかけられる前に、阪本はすでに振り向いていたが、弟の様子を見て、出かかったたしなめる言葉を飲み込んだ。

「・・・・祐耶。こんな時間にどうしたの」

「近くまで来たから」

「・・・・・・」

「庭からじゃなくて玄関から入りなさい、でしょ?わかってるよ」

「いや、それはいいけどね」

 兄と同じ色の、しかしずっと長い髪を穏やかな風になびくに任せ、深山祐耶がうつむいて少し言葉を躊躇する。

「・・・・・・・」

「なにかあった?なんだか様子がおかしいよ、祐耶」

「ううん、なにもないよ。・・・あのね、」

「うん」

「兄さんに、久々に聞かせてあげようかなと思って」

「?」

「僕のヴァイオリン。」

「??」

 深山は先に歩きだし、庭に面したガラス戸からリビングへ入ると、部屋の中央にあるグランドピアノの蓋を開けた。

 ピアノの下に置いてあるヴァイオリンのケースを引き寄せ、中から楽器を取り出してピアノの音に合わせ調弦する。

 そして持ってきた楽譜をピアノに立てかけ、そばにあった譜面台にもうひとつの楽譜を置いた。

「とりあえず最初は、バッハの無伴奏ソナタからだよ。」

「・・・お前、私に演奏を聴かせるのは、いつも嫌がっていたのにね。」

 後からリビングに入ってきた阪元は、弟の様子を見ながら少し笑って言い、バラの花をテーブルの上の花瓶に活けるとそのままソファーに腰を下ろした。

 阪元が拍手をし終わると、深山が演奏を始めた。

 正確で端正な演奏は、アマチュアとしては破格の腕前である。

 目を閉じて心地よさそうにしている兄のほうをちらりと見て、深山は一曲目に続いて、同じソナタの第二楽章までを弾いた。

 聞き手の絶賛の拍手を少し満足げに受け、深山が言った。

「じゃあ、次はね、兄さん。あの曲。」

「ああ・・・なんだか、嬉しいな。」

 立ち上がり、阪元はピアノまで歩いてその前に座った。

 おいてある譜面は、期待通りのものだった。

「ちゃんと伴奏できる?兄さん」

「当たり前だよ。バッハのバイオリン協奏曲イ短調。ピアノ伴奏譜は暗譜してるよ。」

 阪元が言い終わらぬうちに深山が合図し、二人は演奏を始めた。


 深山が玄関から帰っていったわずか三十分後、玄関のインターフォンが押された。

「庄田です」

「どうぞ」

 預かっているスペアキーで玄関扉を開けて庄田が入ってくる。

 リビングでソファーに座って花瓶のバラの葉を整えていた阪元は、笑顔で来訪者を迎えた。

「今日も来てくれたんだね。ほとんど毎日だよね。ありがとう」

「いえ、酒井さんと入れ替わり立ち替わり、あまり煩わせてもいけないとは思うのですが」

「いいんだよ。うれしいよ」

 阪元が淹れたコーヒーをリビングのソファーで飲み、庄田は午後の明るい日差しを受ける庭を眩しそうに見る。

「もうバラの蕾が咲きそうですね」

「ああ、嬉しいような、もったいないような、不思議な感じだ。」

「なんだか今日はいつもより顔色がいいね」

「ありがとうございます。いつも社長にはご心配ばかりおかけしています。」

「最後の襲撃は十日後だ。直前の準備もあるだろうから、しばらくお見舞いは気をつかわなくていいからね」

「はい。しかしこちらへ伺うと、良いエネルギーを頂くような感じがします。」

「それはうれしいことだな。」

 阪元は暖かい微笑を浮かべ、その深い緑色の両目で、部下の涼しげな切れ長の目を見た。

「チーム・リーダーを仰せつかって数年が経ちましたが、ようやく自分のペースが掴めてきた気がしています。」

「そうなんだね」

「当初は自分の体力の制約と、業務への関わり方のバランスがなかなか見極められませんでした。しかし最近は私自身が慣れてきたことと、チームのメンバー達が互いにうまく協力しあう態勢ができてきたことで、マネジメントは格段にしやすくなっています。」

「見ていて私もそう感じているよ」

「私の健康状態が良好なのも、そうしたことのお陰だと思います。」

「前は見ていて本当にはらはらしたんだよ。」

 庄田の白い頬をした顔が、恐縮の表情となる。

「すみませんでした・・・。今、社長に頂いたアドバイスのとおりの、休息と休暇を取るようにしています。」

「それは良いことだ」

「部下のためにも、体を大切にすることは必須ということが、ようやく実感できるようになりましたので・・・・。定期的な通院の際に、栄養相談も受けるようにしました。」

「ではそのうち、もう少し体重が増えたお前に会えるかもしれないね」

 二人は顔を見合い、笑った。


 夕暮れ時、吉田は事務所の自席を離れ、誰もいないカンファレンスルームに入って扉を閉めると、携帯電話から電話をかけた。

 阪元が応答すると、少し咳払いをしてから話し始める。

「吉田です。本日電話でいたしました定期ご報告で申し忘れたことがありましたものですから」

「うん。どんなこと?」

「わたくしのチームのメンバーの出勤予定表ですが、酒井の復帰予定日が確定いたしましたので、修正したものをファイルにして明日にもメールでお送りします」

「ああ。ありがとう。」

「通常業務を割り振られるのはさらにそのひと月先のものからと思いますが、準備期間を考え、前倒しで情報を頂けることになっています。」

「そうだね。私からも念押ししておくよ。復帰記念にふさわしい案件を割り振ってくれるようにね。」

「ありがとうございます。・・・・それから・・・・」

「ん?」

「出勤予定表にも反映しておりますが、これまでの軽減勤務時間の分も含め、準備期間はわたくしと酒井は基本的に毎日の出勤といたします。」

「うん。」

「・・・ただし実働時間はバラツキがありますので、もしも臨時の御用などがあります場合は、かなりの融通がききます。お申し付けください。」

 阪元の、愛情のこもった笑い声が聞こえてきた。

「・・・ありがとう。私もまもなく復帰するからね。事務所で会えるのが楽しみだよ。」

「はい」


 日が暮れ、酒井が周囲を見回しながら慎重にトレーニング・センターの入り口ドアを抜けたとき、携帯電話が鳴った。

「もしもし、酒井ですが」

「ああ、私だよ。」

「社長。まさかまた襲撃されたんじゃないでしょうね」

「あははは違うよ。今、大丈夫?」

「これから板見に必殺技を教えるだけですから、大丈夫です」

「お手柔らかにしてあげてね。・・・あのね」

「はい」

「私って、そんなに、元気ないかなあ」

「は?」

「落ち込んでるように、見える?」

 酒井は思わず笑った。

「・・・笑わないでよ、酒井。私は真面目に言ってるんだからね」

「俺も真面目に聞いてますよ」

 阪元も笑った。

「今日、祐耶と庄田が来て、恭子さんからは電話があったんだけど」

「はい」

「祐耶は何年ぶりかに私の好きなヴァイオリンを聴かせてくれて、庄田は健康管理に最大限気をつけていることを教えてくれて、それから恭子さんは・・・いつでも私の雑談につきあう時間がある宣言をしてくれた。」

「全部、社長の喜ぶことばっかりですな。」

「明らかに、私を元気づけようとしてくれてるんだけど。もちろん、実際元気になったんだけどね。」

「よかったじゃないですか」

「まあね」

 少しの沈黙が流れた。

「なんか、俺も参加したくなってきました」

「え?」

「社長を喜ばすのって、なんだか楽しそうですからな」

「ははは」

「でも、社長、俺の場合、どんなことをしたら一番喜んでくれはるんですか?」

「それはもちろん、恭子さんとの・・・・」

「あ、板見が来ましたんで、俺はこれで。」

 そそくさと酒井は電話を終わらせた。阪元はひとり大笑いをしていた。


 日が暮れた住宅街は、歩く人もまばらで、近づく足音はすぐにわかる。

 月ヶ瀬の家から出てきた山添は、まるで早めの夜の散歩を楽しむ人のような風情で、こちらへ歩いてくる高原に向かい、手を振った。

 二人は声を落として言葉を交わし、そっとその場を離れた。

 少し歩いたところに停めてあった車に乗り込む。

「晶生、悪いな、仕事の準備もあるのに」

「いや、気になりながらやっているより、来てしまうほうが気が楽だ。」

 運転席でエンジンをかけ、車を出し、高原は山添に尋ねた。

「月ヶ瀬の様子はどうだった?」

「ああ、おとなしく医者の言うとおりにしてた。でもなんだか・・・・」

「逆に心配になる感じか?」

「そうなんだ。ものすごくおとなしい。」

「逆らわないんだな」

「そう。まったく。」

 山添の自宅へ向かって車を走らせながら、高原は低いため息をついた。

 しばらくドアの外の景色を見ていた山添が、やがて再び口を開く。

「もうあいつは、今回みたいな馬鹿なことはしないと思う。」

「そうか。」

「それは確信できるよ。勘だけどね。」

「わかるよ。」

「でも、なんだか・・・このまま行くのは、別の意味で・・・そう、ちょっと痛々しいな・・・・。」

「そうだな。お前の言うことはわかるよ、崇。」

「ほんとに困った奴だよな・・・・・」

「・・・でもさ、崇、うちの会社で月ヶ瀬と普通に会話できるのはお前だけなんだから」

「・・・・・」

「なんとか、頼む。・・・・なんて言うのは無責任だってわかってるけどさ」

「・・・どうしたらいいんだろうな・・・・」

「いっそ怜をぶつけてみるか」

「だめだ、取り返しのつかないことになる」

「そうだよな」

 山添が両手を頭の後ろで組んだ。

「まあ、ときどき家に行ってみるよ、これからも。お前が無理やり泊まり込んだ事件以来、他人が家に来ることへの抵抗が、以前ほどじゃなくなったみたいだしね。」

「はははは」

 ふっと表情を変え、高原は前を見たまま、別の話をした。

「・・・・崇」

「ん?」

「お前もさ、苦しいことは、たまりすぎる前に吐き出してしまえよ。」

「・・・・・・・」

「あの警護で、波多野さんとの約束どおり、お前はきちんと警護員として妥当な振る舞いをした。」

「ああ。」

「だからこの先も、またどんな襲撃者だろうと担当することになるけど」

「そうだな」

「それと、気持ちの負担がないこととは、別のことだから。」

「・・・・・晶生、お前もほんとに、苦労が絶えない奴だよな」

「・・・・・・」

 山添は同僚のほうを見て、微笑した。

「ありがとう、晶生。」

「・・・・・・」

「確かに、いろいろ、モヤモヤしているよ。正直、そうだよ。」

「そうだよな」

「やばくなってきたら、ちゃんと相談するから。」

「ああ。」

「だからお前も、そうしろよ。」

「ああ・・・・、そうだな・・・・・」


 三村英一は、平日夜の地上の喧騒とは無縁な、地下にある小さなバーで親友を待っていた。

 狭い階段を慎重に降りる足音の後、茂が入ってくると、英一の隣の席に座るより早くマスターがおしぼりを置いた。

「いらっしゃいませ」

「こんばんは」

「何にいたしましょう」

「あ、こいつとおんなじで」

「かしこまりました」

 出された水割りを一口飲み、茂は隣の長身の美青年が楽しそうにマスターの手元を見ているのを、ちらりと見た。

「稽古、今日は早く終わったんだな」

「ああ。お前は意外に遅かったな。まだ警護案件はないから大した用もないだろうに」

「うるさいなあ。相談してたんだよ」

「誰に何を」

「山添さんに、月ヶ瀬さんのことをだよ。昼休みにお前に相談しかかっていたのと、同じ話。」

「月ヶ瀬さん?」

「うん」

 言葉は疑問形だったが、英一の様子に特に意外そうな様子はなかった。

「どんな?」

「三村、お前、すでに高原さんからいろいろ聞いてたりするんじゃないか?」

「お前もなかなか勘がよくなったな。あるいは単なる経験値か。」

「うるさいなー。・・・で、どうなんだよ」

「前の警護案件のことはうかがった。そして高原さんは月ヶ瀬さんのことを心配しておられた。」

「そうだよ。あの後、月ヶ瀬さんは体調を崩してしばらく事務所に出てこられてなかったんだけど」

「・・・・・」

「数日前に、復帰されたんだ。」

「そうか。」

「でも、おかしいんだよ。」

「何が?」

 茂は英一から視線を外し、手元のグラスを両手で掴んで見つめた。

「・・・・嫌味を、おっしゃらないんだ。」

「・・・・?」

「あの月ヶ瀬さんが、俺にも誰にもなんにも、イヤな言い方をしないんだ。皮肉とかも、おっしゃらないんだ。」

「いいことじゃないか」

「よくないよ。・・・すごく、静かで、・・・話しかけても、温厚なんだ。」

「それって、そんなに異常なことなのか?」

「そりゃそうだよ。一緒に仕事をしてる人間だったら、天変地異かと思うようなことだよ。」

「たとえば・・・平日昼間の会社で、お前がまともに仕事してるくらいのことか?」

「そうだよ。」

「それは確かにおかしい」

「俺のことなんかどうでもいいけどさ、とにかく絶対におかしいんだ。」

「・・・で、山添さんになにを相談したんだ?」

「どうしてあんなになってしまわれたのか、教えてくださいって言った。」

「・・・・・」

「それから・・・・」

「なんとか月ヶ瀬さんをたすけてくださいって、頼んだんだな?」

「ああ、そうだよ。」

「それは無理な相談だろうな。」

「うん、そう言われた。・・・・山添さんは月ヶ瀬さんと一番ふつうに話せる人なんだけどな・・・。」

 英一は水割りを飲む手を休め、茂のほうを見た。

「河合」

「なに?」

「・・・・・・月ケ瀬さんはさ、いつか大森パトロール社の秘密を漏洩したことがあったよな」

「うん。でも、うちの警護員の安全のためだったんだよ」

「ああ、そうだ。つまり月ケ瀬さんの望みは、そこから分かるよな?」

「・・・俺に、そのためになにかできるとは思えないけど・・・・」

「そうか?」

 英一は意地悪そうに笑った。

「な、なんだよ」

「お前に、できることがある」

「どういうことだよ」

「簡単なことだ。お前が、お前の安全を考えて仕事をすればいいんだよ。」

「・・・・・・」

 グラスの透明な氷が、美しい音をたてた。



 土曜日の大森パトロール社の事務所は、夜遅い時刻にも関わらず、まだかなりの警護員たちがそれぞれの自席で作業をしていた。

 複合機で書類をスキャンしていた葛城は、一部を自席に置き忘れたことに気が付き、前後の頁を伏し目がちに確認しながら踵を返し一歩踏み出したとき、携帯端末ふたつとデジタルカメラを片手に持ち、もう片方の手にバイク用ヘルメットを持って歩いていた月ヶ瀬に思い切り衝突した。

「ごめん・・・!」

 月ヶ瀬の足元に携帯端末とデジカメが落下し、転がる。

 慌てて葛城が片膝をついて携帯端末を拾うと、目の前で同じように跪いて月ヶ瀬がデジタルカメラを拾っていた。

 二人は同時に立ち上がり、葛城が月ヶ瀬に携帯端末を渡す。

 背丈も体型もかなり似ている二人は、繊細なその美貌も共通している。しかしその容貌のタイプは正反対で、葛城は切れ長でも温かみのある、天然のアイシャドウをしたような目をしている。

「大丈夫かな・・・。壊れてたら言ってくれ。ほんとにごめん。」

「いいよ。僕もぼんやりしてた。」

「・・・・」

 月ヶ瀬は柔和な口調で穏やかに言い、少し微笑し、そしてロッカールームへと歩いていった。

 葛城がその場に凍りついたように立ちつくしているので、しばらくして後ろから高原が肩をたたいた。

「怜、コピーしたい奴が並んでるぞ。」

「あ・・・・・」

 作業を終えて自席へ戻った葛城の、隣の空いている席に高原がやってきて腰掛ける。

 その顔を見て葛城が無言でため息をつく。

「おかしいよな、やっぱり」

 小声で高原が言う。

「おかしいよ。絶対。」

 同じ思いを共有している山添がやはり葛城の席の向かいにやってきて座った。

「怜、お前は特にあいつと相性が悪いけど」

「・・・うん」

「それでも心配になるくらい、変だよな」

「・・・うん、そうだよ。・・・・なんだか・・・魂がぬけてしまったみたいに見える。」

 高原が山添の顔を見る。

「お前、その後も、家には行ってるんだよな」

「ああ。いつ行っても、絶対に怒られない。・・・しかも・・・・」

「・・・・・」

「・・・迷惑かけてすまなかったって、何度か謝られた。」

「そうか・・・・」

 三人は顔を見合わせた。

「・・・・重症だよな・・・」

 月ヶ瀬がロッカールームから着替えて出てきたため、三人は話題を変えた。

 脇の通路を通り過ぎて黒髪の同僚が従業員用出口まで来たとき、逆に扉をカードキーで開けて入ってきた警護員があった。

 河合茂だった。

「よかった、まだいらっしゃったんですね、月ヶ瀬さん」

「?」

「あの、少しお時間よろしいですか?」

「・・・ああ、いいよ。」

「ありがとうございます。こちらへ、お願いします。・・・こっちで・・・」

 茂は、微かに不思議そうな顔で、しかし特に苦情も言わず同行してくれている先輩警護員を、奥の応接室へと連れていった。

 すぐに給湯室へ急いで往復し、麦茶のピッチャーとグラスふたつを持って戻ってくる。

 扉が閉まった応接室を外から見ながら、三人の先輩警護員は凍結したように固まっていた。

 茂は向かいのソファーに座り、こちらを見ている月ヶ瀬に、頭を下げた。

「ありがとうございます、俺なんかのために時間をくださって。」

「大丈夫だよ。何の話?」

 月ヶ瀬の声は良くも悪くも特段の感情はこもっておらず、そして表情は力なく穏やかだった。

 顔色はいつもと同じかそれ以上に白く蒼白に見える。

「お世話になっている先輩達に、今日は絶対お約束したいことがあるんです。」

「?」

「今まで俺は、未熟な後輩のくせに、なにか自分のことを勘違いしていたと思います。」

「?」

「自分さえ、犠牲になれば、なんて思ってみたり・・・・」

「・・・・・」

「先輩達と自分とを、同列に考えるようなことをしたり。」

「うん」

「でもそんなの、一万年早いんです。そうなんです。」

「そう。」

「俺は俺の身の丈にあったことをします。それだけをします。そして、警護員として、指導されたことをちゃんとやって、少しでも先輩たちに安心してもらえる良い警護員になります。」

「・・・そう。」

「だから、今までの生意気なこととか、許してください、そしてこれからも、色々教えてください。」

「・・・・・・」

 月ヶ瀬が少しその両目に愉悦の色を交えたことに、茂はまだ気がついていない。

「特に、絶対気をつけたいことがあります。それは・・・・」

 茂の顔を少し下眼づかいに見るように、月ヶ瀬は顎を僅かに反らして、そして足を組んだ。

「・・・・それは?」

 茂は言葉を続けた。

 その三分ほど後、応接室の扉が開き、再び話題を変えた三人の同僚の警護員たちの脇を抜け、月ヶ瀬は従業員用出入り口から事務所を出ていった。

 まだ茂は出てこない。

 高原はそっと立ち上がり、応接室へと入り、まだソファーに座ったままの後輩警護員に声をかけた。

「河合。・・・大丈夫か?」



 翌日曜日の午前、高原は社外随一の親友と、平日とは客層が異なるいつものコーヒー店で向かい合ってテーブルに座っていた。

 三村英一は息をするのも苦しそうに、笑っていた。

「そうなんですか・・・・。」

 高原も再び堪え切れないように笑った。

「はい。河合は、月ケ瀬にまともに言ったそうです。『月ケ瀬さん、俺は、自分の安全を考えて仕事をします!がんばります』って。」

「あははは」

「本人が再現してましたから間違いないです。」

「で、月ケ瀬さんは何とおっしゃったんですか?」

「しばらく黙ってたそうですが、・・・やがて冷たく一言『馬鹿じゃないの?』と言って去っていったそうです。」

「なるほど。・・・でも河合は嬉しそうだったんじゃないですか?」

「よくわかりますね、三村さん」

「あいつは多分ドMですから」

「ははは・・・。『いつもの月ケ瀬さんでした!』って言って、満足そうにしていました。」

「あはははは」

 英一が笑いの勢いで咳き込み、水を一口飲む。

 しばらくして高原は、しかしふっと複雑な表情をした。

「・・・・・」

「高原さん?」

「・・・ちょっと、悔しくもありますけどね」

「そうですか?」

「河合のその言葉は、最初に俺が聞きたかったなあと。なんで月ケ瀬が、って、ちょっと嫉妬しますね。」

「それは、高原さんの人徳ですよ。」

「?」

「河合にとって、月ケ瀬さんは心配する相手。そして高原さんは・・・もちろんすごく心配もするけれど・・・基本的には、頼る相手なんでしょう。」

 英一が静かに言い、そしてコーヒーを一口飲んだ。

 テーブルに目線を落とし、高原は遠慮がちに笑った。

「・・・だったら、嬉しいですね。」



 日曜夜の街の中心は、荒天のせいか通る人影は極端に少ない。

 強風にあおられ、眼下の街路樹が折れそうに枝をしならせている。

 古い高層ビルの事務室内で、明かりを半分だけ灯したカンファレンス・ルームで舟形テーブルに向かい、庄田直紀はひとりでもう一時間ほど座っていた。

 やがて窓に、雨が打ち付ける音が室内へ聞こえてきた。

 事務所のガラス戸が開く音がして、速足の足音が近づき、長身の部下がドアをノックして開けたのはそのさらに数分後のことだった。

「お帰りなさい、逸希さん。」

「庄田さん。ただいま戻りました。」

「疲れたでしょう。上着を脱いで応接コーナーで一休みしてください。コーヒーを淹れてありますから、今持ってきます。」

「ありがとうございます。」

 雨に濡れたオーバーコートを自席の椅子の背もたれにかけ、逸希が応接コーナーへ来ると、庄田は奥のほうの席に座りふたつのカップにコーヒーを注いでいた。

 良い香りが辺りに漂う。

 逸希が座り、勧められるままに一口飲むと、庄田は部下の言葉を待つように自分もカップを持ちソファーにもたれた。

「・・・二度の失敗にも関わらず、最後まで本件を担当させてくださいまして、ありがとうございました。」

「当然のことですよ。それに皆、三度目の襲撃についは全く心配していませんでしたからね。」

「ボディガードがいない状態で、しそんじたらさすがに僕も皆さんに合わせる顔がありませんよね」

「はははは」

 庄田はカップをテーブルに置き、そのまま両手を組み両肘を両膝の上に乗せた。

「近くに佐野さんがいてくださると思うだけで、気持が楽でした」

「彼は本来なら浅香ではなく彼が筆頭エージェントになってもよいくらいの、上級者ですから。腕は確かです。ちょっと変わり者ですけどね。」

「あはは」

「・・・・逸希さん。」

「・・・はい。」

「今日は暴風と雨でかなり冷えますが、今の体調はどうですか?」

「あ・・・はい、特に不調などは・・・・・」

「今日は現場から直接家に帰ってもらうこともできましたし、佐野さんにはそうしてもらいましたが、逸希さん、あなたに一旦事務所へ立ち寄ってくださいとお願いしたのは・・・・ひとつだけお尋ねしたかったからです。」

「はい」

 その涼しげな、切れの長い両目が、部下をまっすぐに見つめた。

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