三 不可解
酒井は自分の腕の中でぐったりと動かなくなった阪元の、頭を右手で抱きしめるように抱え、そして左手は阪元の床に落ちた右手をとって握った。
「・・・・社長・・・」
しんとした社長室に、酒井の声だけが、低く響いた。
右膝で阪元の背中を支え、右手でそっと上司の頭を少し自分の胸から離して、目を閉じたその顔をもう一度見た。
「社長・・・・」
そのまま酒井は阪元の右耳へ口を寄せた。
「・・・阪元さん。あの・・・・思いっきり心臓動いてますんで」
「・・・・・・」
「説得力ないですけど」
「・・・・・そう?」
阪元は目を開け残念そうに酒井の顔を見た。
「こんなときに何冗談かましてはるんですか」
「・・・一度やってみたかったんだ、こういうの」
「しばきますよ、マジで」
「しばくって、何?」
「関西弁で、痛めつけるという意味です」
「でも嬉しかったなあ。思った以上に酒井、君が心配してくれて」
「一応重傷なんですから無駄口叩くのはやめてください」
酒井は右手右膝で阪元の上体を支えたまま、左手で携帯電話を取り出した。
「協力病院?」
「はい。すぐに迎えに来させます。血はまだ止まってませんな・・・もうしばらくがんばってください。片道十分、往復二十分てとこでしょう。」
「悪いけど、酒井、お前の車で病院まで送ってもらえないかな」
「は?」
阪元はさらに顔色が悪くなっている。
「協力病院から送迎車を出させると、記録に記載されるから、関係者が増える。」
「・・・・秘密を守りにくくなる、ということですか」
「そうだよ。」
「軽傷ということにしたいんですな?」
「理解が速くて助かるよ。専用エレベーターを使えば人に会うことはないから」
「わかってます。・・・それじゃ、俺の搬送はちょっと乱暴ですが、ご辛抱くださいね」
酒井は社長室、そして事務室奥の出口の扉をそれぞれ予め開き、エレベーターのボタンを押してから阪元のところへ戻り、自分の上着を脱いで怪我人の上体を覆うようにした。
そして阪元の体を抱き上げ、今開けた扉を抜けて裏の通路へ出た。
目立たない一台のエレベーターから地下駐車場まで降り、地面に片膝をついて阪元の体を支えたまま車の助手席を片手で開け、シートを倒して阪元を寝かせる。
「大丈夫ですか」
運転席に座り、声をかける。
「ありがとう、まだ頭ははっきりしてるよ」
「気を失ったら教えてください」
「それは無理だ」
車を発進させ、運転しながら携帯電話で協力病院へ電話をかけ、予約をとりつける。
「ご指名の先生、いてはりました。よかったですな。」
「うん。・・・それから、申し訳ないけど、私を病院へ送り届けたらもう一度事務所へ戻ってほしい。」
「・・・・・・わかりましたけど、どうしてそこまでしはるんですか・・・・?」
「ごめん。何も訊かずに、私の願いを聞いてくれ。」
「もちろん、ご命令とあらば何でもしますが。・・・・社長室の血のあとをきれいに拭き取る、ですね?それから、監視カメラの映像も回収しとくんですか?」
「よろしく頼む。」
「・・・・・了解しました。」
阪元は小さく息をはき出し、目を閉じた。しばらくして助手席から寝息が聞こえてきたので、運転席の酒井はちらりと上司のほうを見た。
安心したような表情で、阪元は熟睡していた。
まだ夜明けというより夜の続きのような時間帯、港を臨む、一面の芝生にバラの樹だけが数本植えられている簡素な庭に、ガラス戸からの光がすっと漏れ出てきた。
庭からリビングへ入った深山は、明りをつけるとそのままソファーに座り、顔だけを廊下に続く扉へと向けた。
「二階へいらっしゃらないんですか?」
板見が尋ねるが、尋ねた板見もその理由は分かっていた。
「うん。今、車の音がしたでしょ?たぶん、庄田さんだと思う。」
「そうですね。・・・我々は、その後に、ですよね。」
「そうだよ。」
二階から階段を降りて廊下を早足で進む音がして、玄関扉が開き、今度は二人分の足音がほぼ走るように逆ルートを通っていった。
階段を上がり、主寝室の開いている扉から酒井が先に入り、後ろから続いた庄田直紀を部屋へと導き入れた。
広々とした洋間の、壁につけられたキングサイズのベッドに駆け寄り、庄田はベッドの端に両手をついて上司の顔を覗き込んだ。
「阪元さん・・・・・」
後ろから酒井が声をかける。
「大丈夫ですよ。眠っておられるだけですから。怪我は、重傷ですが命に別状はありません。」
「はい・・・」
「本当は入院せなあかんのですが、社長がどうしても最低限の治療だけしてもらったら自宅療養にするとおっしゃって。俺がもう一度病院に戻ったときは、すでにドクターが根負けしてました。」
「・・・・・・」
「明日、回診に来てくれはることになってます。」
「・・・社長・・・・・どうして・・・・・」
「そうですな」
沈鬱な静けさが流れた。
酒井はドアのほうへと歩きながら言った。
「・・・しばらく、社長をお願いできますか?庄田さん。俺、祐耶にじっくり説明してきますんで」
「・・・・はい。」
「浅香さんは車で待ってはるんですか?お呼びしましょうか」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。」
酒井が出ていってドアがしまり、庄田はベッド脇に椅子を引っ張ってくると静かに腰を下ろした。
一階の、庭に面したリビングに酒井が入っていくと、ソファーに向かい合って座っている同僚と後輩が一斉に酒井を見た。
「兄さんは・・・?」
「ああ、眠ってはる。鎮痛剤も効いてるはずやからな。傷は大きいけど深くはない。・・・ぐったりしてはるのは、どちらかというと怪我のせいというより、たまりにたまった疲労のせいやな。先生もそうおっしゃってた。」
「そうか・・・」
「そんな情けない顔をするな、祐耶。」
「別に情けなくなんかない」
「板見のほうがはるかにしっかりしてるで」
「でも酒井さんもかなりひどいお顔されてますよ」
板見が深刻に心配そうな顔をしたので、酒井は反論を思いとどまった。
「恭子さんには板見から連絡してくれたんやな?」
「はい。今日はお見舞いは自粛されるとのことでしたが、俺が行ったら様子を教えてほしいとのことでした。」
「秘密やということもご説明したか?・・・知っているのは庄田さんと俺だけということになってることも。」
「大丈夫です。」
深山は金茶色の波打つ髪をソファーの背中から裏側へ垂らして、体をもたせかけた。
酒井もソファーに腰を下ろす。
「・・・凌介、知らせてくれてありがとう。兄さんが、誰にも連絡するなって言ったんだったら・・・後で怒られるね。」
「それはかまわんけど、実の弟のお前に知らせへんという選択肢はないやろ」
「そうだよね。兄さん、目を覚ましたらタダじゃおかない」
「深山さんだけじゃなく、俺も含めチームのメンバーにも教えてくださり、ありがとうございました。」
「皆、さんざん社長のこと心配してたからな。それに、俺は何かを内緒にしておくのは苦手なんや」
「そうですよね」
「それにしてもやっぱり腹が立つ」
深山がソファーの背もたれから体を離し、前かがみになってうつむいた。
「なんでや」
「兄さん、どうして僕には黙ってろって言って、庄田さんなら知らせても良いって言ったんだろう。庄田さんに知らせたいのは分かるけど、僕だって・・・・第一、実の兄弟なのに。」
「お前、自分で愛されてへんって言ってたやないか」
「そういう問題じゃない」
酒井は微かに表情を柔和なものにし、親友のうつむいた顔を見た。
「それやったら祐耶、テストしたるわ」
「え?」
「一問目。なんで社長はここ最近疲労困憊してはった?これは簡単やな」
「うん。」
深山は顔を上げた。
「ヒントいらんよな」
「ああ。・・・森川清二をターゲットにした案件で、ターゲットにお客様が殺された、あの事件が直接のきっかけだよ。」
「そうやな」
「その前から、あの会社がらみではいろいろあったはずだけど、なんといってもあの事件が・・・・なんというか・・・・」
「そう、とどめみたいな感じやったな。」
「うん。」
板見がうつむいたのがわかった。
酒井は窓の外の夜明けの薄暗い庭に一瞬目をやる。
「・・・社長は自分の悩みは自分が悩むから、俺たちエージェントは何も気にせず自分の仕事をしてほしいとおっしゃっていた。けどな、俺は、それでも一応社長の心配をしているつもりやった。そして今回、わかった。結局、そんなんタダの言い訳やったってな。・・・結局は全部社長に頼って、甘えてただけやってな。わかったわ。」
「凌介、やめてよ。僕が責められているのとおんなじだよ。」
「・・・すまん」
深山は異国的な顔立ちに似合う、茶色の二重瞼の両目を上げ、酒井の顔を見て少し目を細めた。
「二問目は?」
「・・・・・・社長を襲撃したのは、どういう人物やと思う?・・・これは、俺はまだ聞いてへんけど・・・・お前、想像してみ。」
「前例があるから簡単にわかるよ。うちの会社が殺害したターゲットの遺族でしょ。」
「たぶんな」
「社長に会うところまでこぎつけたんだから、並大抵の努力じゃなかったんだろうけど・・・。でも、前例はあるからね。」
「じゃあ、三問目や。」
「・・・・・問題、当てようか」
「どうぞ」
「どうして兄さんが、あんなことになったのか、でしょ?」
「そうやけど、正確には、なんでみすみす切られはったんか、やな。」
「電話で聞いたけど、もう一度聞くよ。鋭利なもので切られた傷は、二か所。その状況から考えて、犯人は正面から両手でナイフ状の刃物を持って兄さんの胸を突き刺そうとした。」
「そうや。そして社長は一撃目を避けて・・・・しかし完全に避けきれずに、斜めに、そう、左から右にぬけるように切られた。そして二度目の攻撃が、今度は反対側から・・・左から右へ。傷が交差してたからな。」
「ふたつめの傷のほうが深くて、そして途中で止まっている。」
「ああ。社長が犯人の手をつかんだんやろうな。」
深山は右手で顔の右半分を覆うようにして、うつむいた。
「・・・・・避けきれなかったんじゃない。避けなかったんだ。」
「そうやな」
「兄さんは、なんて言ってたの?」
「・・・・俺が『中途半端なことされましたね』って言ったら、笑ってはった。『私も、命は惜しいからね』ってな。」
「・・・・・・・」
「証拠はすっかり隠滅された。犯人をどこまでもかばうおつもりや、社長は。」
「凌介、答えを言ってしまってるよ。」
「まあな」
酒井は立ち上がり、深山の肩を叩いた。
「おめでとう、全問正解や。庄田さんが言い当ててはった内容は、お前も理解してるってことやな。」
「あんまり嬉しくない」
「嬉しい内容やないからな」
「そうだよ」
「ただし庄田さんのほうがやっぱり上かな。俺から知らせを受けてすぐ、浅香さんの運転する車のなかで、かなり動揺しながらも一瞬で今の三つのことはおっしゃってたからな。」
「庄田さんにかなうひとは誰もいないよ」
酒井はそのまま廊下に向かうドアまで行き、振り返った。
「お前たち、そろそろ上がっていったほうがええで。社長が目を覚まされる前にな。庄田さんも出てきはる頃やろ。」
「・・・そうするよ」
「俺はその間にコーヒーでも淹れとくわ」
「ありがとう」
深山と板見が続いて廊下に出て、階段の方へ向かうのを、ふと酒井が呼び止めた。
自分の方を見た二人に、酒井が言った。
「阪元さんが自分に致命傷を与えさせなかったのは、もちろん、命が惜しかったからやないな。」
「・・・・そうだろうね・・・・・」
「人殺しにしたくなかったんやろうな。」
「もとターゲットの、遺族を。」
「ああ。そうや。そうやと思うで。」
踵を返して酒井は廊下の反対側へと歩いていった。
大森パトロール社の事務室に月ケ瀬透警護員が戻ってきたとき、ちょうど応接室から上司と同僚が打ち合わせを終えて事務室内へ出てきたところだった。
「おう、透。クライアントとの最終面談だったな。お疲れさん」
「ありがとうございます。特段の問題はありません。」
「明日からだな。よろしく」
波多野営業部長が、坊主頭に近い短髪にまったく似合わないメタルフレームの眼鏡の奥の両目を細め、すれ違いながら月ケ瀬の肩をたたいた。
一礼し、自席に座った月ケ瀬は、同僚が近づいてくる気配に顔を上げた。
「俺の出番がないことを祈るけど、とにかく気をつけろよ」
「ああ。待機要員よろしく」
山添は自席に座ったままこちらを見上げている同僚の、冷たく美しい人形のような顔を見下ろしながら、少し笑った。
「面談はあまり楽しくなかったみたいだな」
「そりゃそうだよ」
月ケ瀬は、山添のよく日焼けした肌とは対象的な、青みがよぎるような白い肌の顔を少し背け、そして艶やかな長い黒髪を右手で肩から払う。
山添は近くの空いているいる席から椅子を引き寄せ、月ケ瀬の傍らに座った。
「待機要員も知っておいたほうがいい情報は?」
「あまりないね」
「クライアントの人でなし度はそれほどでもないか」
「それほどでもあるよ。」
「あははは」
山添が屈託なく笑い、月ケ瀬は苦い表情になり同僚を一瞥する。高原、葛城と同様に、山添と月ケ瀬も大森パトロール社ができたときからいる警護員だが、山添は高原や葛城があまり月ケ瀬と話さないのとは対照的に、月ケ瀬に気軽に話す。
月ケ瀬も、高原と葛城より山添のほうに割に普通に話す。
「最低だよ、今回も」
「も、って、お前なあ」
月ケ瀬は電源を入れた端末の前で、頬杖をついた。
「これまで三回も襲撃されているけど、警護を頼むことを本人は重要と思っていない。事実上の依頼人は奥さんだよ。」
「大物だな」
「たまたま無事だっただけのくせに、危機意識ゼロ。」
「・・・・・・」
「まあ、襲撃方法が素人丸出しの稚拙なものだから仕方ないのかもしれない。それにしても、感受性の鈍い人間だ」
「おいおい」
「不倫相手の女性の話題になっても、ほとんど他人事みたいな反応。自分がつきあって、自分が妊娠させて、そして事実上自分が自殺させたのにね。」
「・・・・・・」
「警護の参考程度の事情聴取だけど、聞いていてうんざりする。不倫相手に何度も離婚を迫られて、実際に奥さんに離婚を相談したんだそうだ。」
「はあ・・・・・」
「でも奥さんから説得されて、また不倫相手と話をして、また押し返されて奥さんに相談して・・・というのを繰り返してた。」
「確かに、困った性格だな」
「最後は奥さんがかなりきつく不倫相手にくぎを刺したんだそうだ。」
「・・・・・・・」
「もちろん、本人同意の上でね。」
「そうか」
「って、そう言えば聞こえはいいけど、つまりは奥さんがその不倫相手の女性にものすごい制裁をしたってことだろうね。怖い怖い。」
「・・・・そうだろうな」
月ケ瀬は頬杖をついたまま少し顔を上げ、立ちあがった端末の画面にぼんやりと目をやった。
ため息はかなり長かった。
「僕には理解できない」
「・・・・」
「奥さんは、その自殺した女性の話題になると、ものすごい憎しみを露わにする。自殺して良い気味だというくらいの勢いだ。恐ろしいね。」
「・・・・・・」
「でも、僕が奥さんの立場だったら、それ以前に、そういうだらしないことをした夫に愛想が尽きると思うんだけど。」
「まあ・・・そうだな」
「なんであんなくだらない男を、奥さんもその女性も必死で奪い合ったのかね。理解できないよ。そして自殺までして。そしてそんな男とその後も夫婦でいるって、どういう神経なのかね。ゲテモノ趣味かね。奥さん、恥ずかしげもなく言ってたよ。夫を愛してますからねって。」
「・・・・・・」
月ケ瀬は天井を少し見上げ、頭を振って髪を後ろにやり、乾いた笑い方をした。
「どんな人間をどんなふうに愛そうと人の勝手だけど。・・・でもこういうくだらない人間模様に、愛とかいう言葉が使われるのは痛ましいことだね。」
「・・・・・」
「愛という言葉をこれほど愚弄して、馬鹿女と阿呆男がそろって被害者づらしてるのを見ると吐き気がする。唯の見苦しい、汚らしい自己愛と無責任しかそこにはないのにね。恥知らず。」
「まあそこまで言うなよ」
「心配いらないよ」
そのひんやりした美しさの切れ長の目で、月ケ瀬は山添の黒目がちの不安げな目を見て、微笑した。
「・・・・・・」
「クライアントを尊敬しないことと、襲撃者に同情することとは、まったく関係のないことだ。」
「・・・ああ。」
「犯罪者は、ゆるさないよ。それだけのこと。」
「そうだな。」
「そしてこういうときは、改めて、心から思うこともあるよ。」
「?」
「警護員の仕事の範囲に、限りというものがあって、よかったってね。」
「・・・・・・・」
山添は愛らしい童顔に似合う黒目勝ちの目を、複雑な色に染めて少し伏せた。
「ごめんね、愚痴って。」
「あ、いや・・・・・・」
月ケ瀬はぞっとするような冷たい、そして満足そうな笑顔になった。
「すっきりしたよ。聞いてくれてありがとう。」
山添はふっと息を吐き出し、そして柔和な微笑になった。
「・・・・月ケ瀬、お前の言うことはわかるよ。その奥さんは、たぶん、夫のことを、意思を持つ自立した人間と思っていない。お人形か何かみたいに、思っているんじゃないかね。自分の持ち物。それを奪おうとした不倫相手の女が、とにかく許せない。それだけだったんだろうな。そもそも、よその女性を無責任に妊娠させ無責任に堕ろさせるような夫にどうして愛想を尽かさないか、それは、夫が愛の対象じゃなく所有の対象だからだろうね。失いたくない、持ち物。やっと奪い返してご満悦。でも、愛する人を失うということがどういうことか、そういう人間にはたぶん一生理解できない・・・・」
「・・・ああ、そうだよ」
「なぜなら、所有物を失うことは経験できても、意思ある人間というものを愛するということがどういうことか、わからないわけだから」
「・・・・・・・」
「お前と、違ってね。」
月ケ瀬がなにか言う前に、山添は温かみのある微笑を同僚に向けて立ち上がると、右手をあげてゆっくりとその場を去っていった。




