二 衝撃
街の中心にある古い高層ビルの事務所に到着し、自席に座った庄田直紀は、向かいの席の長身の部下が立ち上がり挨拶しながら心ここに在らずな様子であることに気がついた。
「どうしました?浅香さん。五分後にミーティング開始ですよ。なにか気になることがありますか?」
「・・・・いえ、・・・昨夜、トレーニングセンターで吉田さんのチームの酒井さんに会ったんですが・・・・」
「はい」
「様子がおかしかったので」
「?」
「吉田さんの名前を出したとたんに、金縛りにあったように反応がなくなって、その場を立ち去ってしまわれて」
「・・・・・」
「チームのメンバーのかたが言うには、今リーダーの名前を出すことはタブーなのだと」
「・・・なるほど?」
「酒井さんが大きな怪我をされてから、吉田さんのチームはしばらく休止中ですが、チーム内がなにかぎくしゃくしておられるなら、私にできることはないかと思い・・・・・」
そのまま口籠った浅香は、しかししばらくして目の前の上司がその形の良い唇を噛んで目を伏せ、肩を震わせていることに気がついた。
「・・・・・庄田さん?」
「・・・・すみません」
庄田のぬけるように白い頬に赤みがさし、こらえきれないように庄田は笑いだした。
「・・?」
「あははは・・・いえ、すみません浅香さん、あなたが真剣に心配しているのに・・・あはははは」
「あ、あの・・・・」
庄田は、いつもはその目で一瞥するだけで相手に恐怖に似たプレッシャーを与える、涼しげな切れ長の目に、微かに涙さえ滲ませてしばらく笑っていたが、ようやく浅香の顔を再び直視した。
「たぶん、浅香さん、あなたの心配しているようなことではないでしょう。」
「は、はい」
「今度、仲の良い深山さんあたりにでも尋ねてごらんなさい。教えてもらえると思いますよ。」
「・・・はい・・・・すみません、まだ私にはまったく状況がつかめないのですが、庄田さんはなぜ大丈夫とお分かりになったのですか・・?」
「人生経験の違いですかね」
「・・・・・」
腑に落ちない表情のままの浅香を促し、庄田はカンファレンスルームへ入った。
天上から床まである大きな窓から下界を臨める会議室は、普段はほとんど作業場兼書庫として使われているが、今日は庄田直紀のチームの、リーダーを含め五人の人間たちが陣取って実際に会議に使おうとしていた。
窓の外には曇った午後の柔らかい光が揺蕩っている。
身長百六十五センチほどの、あまり背も高くなく体も細いチームリーダーが、涼しげな切れ長の目でメンバーの顔を順に見ていく。メンバー達はかつて殺人専門エージェント・・・通称”アサーシン”・・・のカリスマのような存在だったリーダーと、視線が合うだけで自然と黙礼をする。
庄田はそのままミーティングを始めた。
「逸希さんが襲撃を担当することに変わりはありませんが、皆さんご承知のとおり、大森パトロール社側の体制が全て判明しました。松原さんと佐野さんが確認してくれたデータ、全員目を通していますね?」
「はい」
浅香と逸希に挟まれた位置に、小柄で大きな目をした黒髪のショートカットの女性と、逸希に似たごく痩せた長躯でまっすぐな明るい茶髪を長く伸ばした男性とが座っている。
「一度目の襲撃で松原さんにもサポートに入ってもらいますが、顔は見られないようにしてください。」
「はい」
松原と呼ばれた女性が、微笑しながら応答した。細く小柄な体型に似合わぬ、気の強い性格が滲むような目をしている。深紅の口紅と耳の金のピアスが、持ち主が女性であることを主張しているが、その表情は半端な男性より遥かに強靭である。
「佐野さん、二度目の襲撃現場の状況をもう一度おさらいしてください。」
髪の長い男性が眼鏡の奥のよく光る目で上司を見て頷き、現地の細かな状況を伝えた。
浅香がいくつか質問し、全て佐野は明快に答えた。
「逸希さん、最終データを踏まえて、二度目の襲撃の流れを最初から確認願います。」
「はい」
逸希が手元の資料に目をやりながら、五分ほどかけて細部まで手順を追った。
佐野がいくつか補足する。
「ありがとうございます。・・・・三度目は、・・・・佐野さんがつきますが、いつもの通り最終段階までのフォローをお願いします。」
松原が苦笑して佐野の横顔を見た。佐野は眼鏡の縁を少し持ち上げ、ちらりと松原の顔を見た後、応答した。
「了解しています。しかし、私の出番がないことを祈ります。」
「そうですね。」
庄田は逸希の方を見た。
「二回目までの襲撃は、アサーシン・テストも兼ねています。成功を祈っていますよ。」
「はい」
「もちろん、それだけではありません」
逸希の穏やかなチャコール・グレーの目が庄田の品の良い顔立ちをじっと見つめている。
「・・・・はい」
「お客様のご要望と追加報酬の対象でもあり、また会社の評判を高める意味もあります。」
「はい。」
「大丈夫よ、逸希くん」
松原が頬杖をついて後輩エージェントを斜に見た。
「・・・・松原さん」
「最後は佐野がフォローする。結果を気にせず思いっきり行くほうが、ときに成功するものよ。そうですよね、庄田さん」
「そうですね。」
逸希はリーダーと先輩を交互に見て、頭を下げた。
「今回また、あの会社の関係する案件で襲撃を担当させてくださり、本当にありがとうございます。感謝しております。」
佐野が笑う。
「まあ、山添さんが参加してないから、チャレンジテストとしては不十分かもしれないけどね。」
「佐野。」
浅香が同僚の横顔を見てたしなめる。
庄田が少し苦みの混じった笑顔を見せた。
リーダーが少し重要な言葉を出すために、息を静かに吸う、その気配だけで四人のメンバーは姿勢を正して庄田の顔を注視する。
「これは単なる勘ですけれど・・・・山添さんは、参加してくる気がしますよ。二度目は。」
「・・・・・」
「逸希さん、あなたにとって良いことか悪いことかは、わかりませんけれどね。」
窓の外の雲が一瞬切れ、太陽の細い光が閃いた。
事務所にほかに誰もいなくなった夕暮れ時、庄田は逸希を伴い事務所を後にしようとして、入口ガラス戸まで来て足を止めた。少し驚いた表情になっていたがそれも当然だった。
ほぼ一か月ぶりに、事務所に入ろうとする社長の姿があった。
「こんばんは、庄田。今日もお疲れさまだね。」
「社長・・・・・」
阪元航平はその金茶色の髪をいつものようにきれいに整え、端正な身なりが姿勢の良い長身に映えている。深いエメラルドグリーンの両目はしかし疲労の色が濃い。
「もう事務所はだれもいない?」
「はい。私たちが最後です。・・・なにか、お手伝いいたしましょうか。」
「いや、ひとりのほうが都合がいい。内密の話をしなければならないお客があってね。まだ社員がいたら外で会おうかと思っていたくらいだから。」
「了解しました。・・・それでは、失礼いたします」
ふたりは事務所を後にした。
逸希はエレベーターの中で庄田に尋ねる。
「久々に社長にお目にかかった気がします。・・・そしてなんだかとても、お疲れのご様子でしたね・・・・・」
「そうですね。」
「浅香さんも心配されて、深山さんに聞いてみたそうですが、弟の深山さんでもよく分からないんだそうです」
「・・・・まあ、そうでしょうね・・。」
河合茂は平日昼間勤めている会社の、同じ係にいる同期入社の友人が二日連続で会社を休んでいる理由を隣の席の同僚に聞かれたが、わからないと答えた。
「三村は副業がある割には、ものすごく休まない奴なのにな」
小柄な同僚がメガネを鼻の上で持ち上げながらいぶかる。
「そうだね。」
茂は童顔に似合う透明度の高い琥珀色の目をふっと逸らし、絹糸のようなさらさらの茶髪をちょっと振りながら立ち上がった。
「それじゃ、お先に」
「ああ。そうか、お前も副業があるんだよな」
「忘れられてるぐらいがちょうどいいよ。」
反対隣の席から、ベテラン係長が茂に声をかけた。
「河合さんも、副業があるのにけっこう休暇は少ないほうですよね。」
「残業がないように配慮してもらってますから、せめて・・・」
「よく頑張りますね。今日もこれから事務所ですか?」
「はい、一応・・・・・・」
「いってらっしゃい。大森パトロールの河合警護員さん」
茂は会社の地下駐車場まで下り、停めてあった自分のオートバイに跨ると、大森パトロール社の事務所のあるビルではなく車で十五分ほど走ったところにある同僚の家へと向かった。
瀟洒なマンションの、しかしあまり広くない1LDKの部屋へ、手元の鍵を使って入っていく。
「あのさ、三村」
部屋に入り、居間を抜け奥の寝室入口まで来て、茂は腕組みをして親友のほうを見た。
「なんだよ」
「私用とかじゃなく、ちゃんと風邪ひいたって言ってくれないかな。色々な人に聞かれてめんどくさいんだよな。」
「だめだ。」
三村英一は窓際のベッドの中で、首まで掛布団をかけ、顔を窓のほうへ向けたまま鼻声で答えた。頭の下には氷枕をしている。
その情けない様子に、茂はつい怒りを解いて笑ってしまう。
「世紀の美青年も台無しだな」
「稽古を代講にするのも別の理由を言ってあるんだから」
「しょうがないなあ」
「絶対言うなよ。」
「そのうちばれると思うけどなあ」
英一が茂のほうを見て、熱っぽい赤い顔で親友を睨む。その整った顔も、黒髪と同じ色の端正な両目も、風邪の熱のせいであまり迫力がない。
「風邪で寝込んだなんて知れたら、義姉さんが毎日押しかけてくる。下手したら兄さんも来る。」
「蒼風樹さんにお粥とかつくってもらえばいいのに」
「絶対嫌だ。義姉さんは俺を死ぬほど子供扱いする。あの屈辱がお前にわかるか」
「まあ気持ちは分かるけどさ。とにかく早く治すのが一番かな」
茂は持ってきた食料品を冷蔵庫に入れに台所へ行く。
薬と水を持って戻ると、英一はベッドの上で上体を起こしヘッドボードにもたれていた。
「食事前でも飲める薬買ってきたから。」
「すまない」
錠剤を水で飲みこみ、ふっと息をはきだすと、英一は茂の顔を見て別の話をした。
「そういえば、最近高原さんや葛城さんはお元気か?」
「・・・そうだなあ・・・・元気といえば元気なんだけど・・・・・」
「なにか悩んでおられる様子か?」
「うん。それも、ちょっと、なんというか・・・・・」
「今までの色々な悩まれかたと、ちょっと違うんだな?」
「そうだよ。よく分かるな」
「まあね。」
英一の表情に微かな愉悦がみえたのが、茂には解せなかった。
「・・・・お前、真剣に心配してる?」
「もちろんだよ。ただ、ちょっと嬉しいのも確かだ。」
「どうしてさ」
端正な漆黒の両目が再び茂を見た。
「・・・・教えない」
茂の右ストレートを英一は病人とは思えない反射神経でよけた。
「くそっ」
「遅いな。そんなスピードで警護員の仕事は大丈夫か」
「うるさいなー。メシつくってやんないぞ」
英一が横顔で少し笑った。
茂は自分がなぜ驚いているのか分からず、しばらくその場に立ったままでいた。
「酒井さん、どうでもいいことではありますが」
「なんや」
板見は酒井の体の下でボストンクラブを決められながら、苦しい息の下で尋ねた。
「どうして夜ばっかりなんですか、トレーニング。」
「昼間はお前仕事あるやろ」
「うちのチームは酒井さんが復帰するまで、大きな仕事は免除されてるんですから。昼間も時間はそれなりに取れますけど」
「俺の野生が夜を選ぶんや」
「昼間は吉田さんが来ているからですかね」
「・・・・恭子さんがなにをトレーニングするんや」
「ジムでときどき走っておられますよ。仕事が少ないとかえってストレスがたまるから、発散されるとかで。」
「ふーん」
「ふーんって、酒井さん、ご存じのくせに」
「うるさいなー!」
「痛い痛い!」
酒井がさらに腕に力をこめ、板見は床を激しくタップした。
阪元探偵社の専用トレーニング・センターは夜も深夜も必ず数名は利用者がいる。全て「本体部門」の人間たちなのでほぼ全員顔見知りである。
通りがかる人間たちはほほえましげに笑い、板見にエールを送っていく。
「恥ずかしいからもう帰ろうよ、凌介」
壁際の椅子から深山が情けなさそうに言った。
ロッカールームで着替え終わり、酒井が約束通り二人を食事に連れて行くため携帯で店に電話を入れようとしたとき、先に酒井の電話が着信を知らせた。
発信者名を見て酒井が少しだけ表情を変え、応答する。
「はい、酒井ですが。・・・・はい。今トレーニング・センターですが。・・・・・・」
さらに酒井の表情が変わった。
しばらく黙って相手の話を聞いていたが、電話を切ると深山と板見のほうを見た。
深山が親友のただならぬ様子を不安げに見る。
「凌介?」
「すまん、祐耶、板見。ちょっと用事ができた」
「なにがあったの?」
「・・・・後で説明する。すぐに行くところができたんや。すまんな。」
「・・・・うん。・・わかった。気を付けて」
上着を片袖だけひっかけてロッカールームを出て行った酒井を見送り、深山へ板見が尋ねた。
「深山さん・・・・何事でしょうね・・・・酒井さん」
「たぶん、一大事だよ」
「・・・・・・・」
「でも、凌介がああ言うんだったら、邪魔はしない。信じるよ。凌介を」
「・・・はい・・・・」
酒井はその十分後には阪元探偵社の事務所のある古い高層ビルのエレベーターを降り、事務室へ駈け込んでいた。
事務室内は無人で照明が落とされているが、奥の社長室の閉まった扉の隙間から、細く光が漏れている。
ドアを開けて中へ入ると、個人の書斎のような簡素な部屋の、いつも通りの配置の小さな円テーブルの影から、上司の姿が見えた。
「社長・・・・・」
いつもは窓に向かってしつらえられた簡素な机から、立ち上がって部下達を迎える阪元航平は、今日は立ってはいなかった。
足をドア側にして、床にあおむけに横たわり、両目を閉じていた。
酒井は円テーブルを突き飛ばすようにして阪元の傍らへと駆け寄った。
「社長!・・・・阪元さん!」
阪元の着ている上質な白いシャツは胸のあたりで無残に切り裂かれており、ほぼ全面が真っ赤に染まっていた。
酒井の声に、阪元が目をゆっくりと開け、横たわったまま部下の顔を見上げた。
「酒井・・・・すまなかったね、急に呼び出して・・・・」
「・・・しゃべらないでください、今、止血します」
シャツを手で引き裂き、包帯がわりに阪元の上体に廻して締める。血は噴き出すような出方ではないが、流れるような出血が続いている。
鋭利なもので切られた長い傷が胸に二か所あった。
阪元の表情がうつろになっていく。
顔色はすでに蒼白になっていた。
「・・・酒井、顔がよく見えない。近くで見えるようにしてくれないか・・・・」
「・・・・!」
酒井は唾をのみ込み、そして震える手で阪元の上体を抱き起した。
「もう、痛みも感じない」
「社長、気をしっかり持ってください。今、協力病院に連れていきますから」
「多分、もう無駄だ」
「阪元さん!」
阪元は右手をあげ、酒井の胸に触れた。
「・・・・いつも、思っていた・・・・たぶん、私が最後に会う人間は、酒井だろうってね」
「誰が、こんなことを・・・・・誰ですか!」
「・・・もう、そんなことは、いいんだ。・・・・今まで、ありがとう。酒井」
「・・・・・阪元さん・・・」
「皆に、よろしく伝えてくれ。・・・・ごめんね・・・さよなら・・・・・」
「阪元さん!」
阪元は目を閉じ、酒井の体にもたれるように脱力した。
深山の運転する軽自動車は、夜の道路をゆっくりと走っていく。
助手席の板見も、運転する深山も、さっきから何もしゃべらずに黙っていたが、板見がしばらくぶりに口を開いた。
「・・・やっぱり、電話してみましょうか。」
「いや、いいよ」
「心配です・・・。」
「明日また事務所で凌介に会うんだから、その時話してくれるはずだよ。それより急ぐ話なら、凌介のほうから電話があるだろうし。」
「深山さんは、辛抱強いですね・・・・」
「・・・こうなるまでは、ちょっと時間がかかったよ」
「・・・そうなんですか」
「いままでに二度、あいつが瀕死の重傷を負ったことがあった」
「はい」
「一回目のときもだけど、この間の・・・二回目のとき、僕と凌介とで約束したんだよ。何があっても、相手の意思を尊重しようって。」
「・・・・・・」
「もしも僕が意識不明になって、そしてそのまま三か月経ったら、僕の事前の意思表示のとおり、生命維持装置を外すこと・・・・それを、必ず凌介がやること。」
「・・・・・・」
「そして逆もおんなじだよ。僕もそれをやるって。約束したんだ。」
「そうなんですね・・・・・」
夜道を静かに車を走らせ、深山は右手でキーについている小さなキーホルダーに触った。
「・・だけど、不安なのは、かわらない」
「はい」
「大事なひとの命を守ってくださいって、お守りを持っているんだよ。いつも」
「酒井さんの命を・・・」
「うん、そしてそれだけじゃなくて、・・・・みんなの、ね。」
「・・・・・」
そのとき、キーについていた紐がふっつりと切れ、小さなお守り部分が床へと音もなく落ちた。
深山が車を停めたのはその数秒後のことだった。




