一 当惑
月ヶ瀬透と朝比奈逸希が主要登場人物の回です。
街の中心にある古い高層ビルの事務所から車でほど近い、やはり古い高層ビルの地下に、四つのフロアにまたがる意外なほど広いトレーニング・センターがあることは、阪元探偵社の
「本体部門」の人間以外には知られていない。その特定の会社の人間が、特定の目的に使うためだけに整備された、簡素なデザインだが贅沢な機能を持った施設である。
基礎的な体力・運動能力の向上目的が中心の地下三階の、木の床の体育館で、ごく若いエージェントが悲鳴に近い苦情の言葉を先輩へと投げていた。
「痛い痛い痛い!酒井さん、後輩を殺す気ですか」
「お前体力ないなあ、板見。若いくせに。」
「酒井さんだって十分若いじゃないですか。ってそうじゃなくて、ナイフ技の訓練でプロレス技をかけるのはやめてください」
板見徹也は長身の相手より十五センチは低い身長と、はるかに低いスキルとがあいまって先輩に全く歯が立たず、仰向けの態勢のまま呼吸困難に陥っていた。
後輩がその大きな目を自分へ向け睨んでいるのをまったく意に介さず、酒井凌介はその精悍な顔立ちを楽しそうにほころばせながら相手を見下ろす。
「まいったと言えばいいんやけど?」
「武道じゃないんですから。ナイフを奪ったら勝負ありでしょう?」
「まあな」
「板見くんのナイフ、試合開始後五秒後に飛ばされたね」
壁際の椅子に座って観戦していた、金茶色の波打つ髪を肩近くまで伸ばした青年が、異国的な顔をふたりに向けあきれた表情をしている。
その右手に握った試合用の模擬ナイフをくるくると回して弄ぶ。
「未熟もん。本番やったら確実にアウトやな。」
「・・・・・」
「でも、凌介のナイフもここにあるけど。」
深山祐耶が、左手に持ったもう一本の模擬ナイフも持ち上げて見せた。
「・・・・・」
「凌介さ、板見くんのナイフを蹴り飛ばした後、どうして自分のナイフも投げ捨てて飛びかかってるんだよ。」
「本能的に後輩を鍛えようとしてるんやな」
「痛くて息できないですってば」
ようやく酒井のキーロックから解放され、板見は我が腕と胸をさすりながら立ち上がった。
「今日はこのくらいにしといたるか」
「あのですね、酒井さん」
「なんや」
「今日は・・・というか今日も、ここでトレーニングしているのは、酒井さんが二か月ぐらい車椅子生活だったから体がものすごくなまっているから、もとに戻るためですよね。」
「そうやけど?」
「俺は酒井さんのための練習台のはずですが、酒井さんではなく俺を鍛えることが中心になっているような気がしますが」
「気のせいや」
深山が二人のところまで歩いてくる。
「足の調子は?」
「もうほとんど問題ない。後は、落ちた筋力が戻ったら完璧やな」
「兄さんが、凌介がギプスしてるのに上の稽古場で柔道の稽古させたって聞いたときは、息が止まるかと思ったよ。あれで回復が遅れたんじゃないの?」
「はははは。まあそうかもしれんな。」
「今度会ったらタダじゃすまない」
酒井は耳の下まで伸びた黒髪を少しかき上げながら、同僚の顔を見た。
「今度って、最近社長に会ってへんのか?祐耶も」
「も、って、凌介も?」
「事務所にしばらく来てはらへんからな。」
「そうだよね。」
板見がふたりの先輩の顔を見比べる。
「・・なんだか、お疲れでした。この間お会いしたとき・・・社長。」
「やっぱりな」
「凌介には、兄さんはなにか相談とかしてないの?」
「あんまりしはらへんな」
「悩み相談の相手は、凌介しかいないと思うんだけど」
「庄田さんもいてはるで」
「庄田さんはだめだよ、社長、溺愛してるから」
「愛されてなくてわるかったな」
「弟の僕はもっと愛されてないから大丈夫だよ」
「たった一人のお兄さんなんやから、もっと仲良くしたらええのに。めんどくさいなあ」
「うるさいよ、凌介」
そのとき板見がふっと後ろを振り返り、酒井と深山も同じほうを見た。
高い位置から床へ着地する音がして、さらに何度もそれが続いた。
「すごいな」
区切り用ネットの向こう側の、ジムナスティクス・コーナーで、体操の床種目の練習をしている青年が、三人の目をくぎ付けにした。
「さっきは鉄棒をしてたけど、軽業師みたいだね、ほんとに。」
酒井のそれよりさらに濃い、緑色がよぎるような漆黒の短髪と、暗めの艶やかな肌をした青年は、身長は酒井と同じ百八十センチほどだが体型ははるかに華奢で、深山と同じかそれ以上に細い。
重力を弄ぶように軽々と空中で身を捻り、回転していとも簡単にぴったりと着地する青年は、一通りのルーティンをこなすと、傍で見ていたやや髪の長いやはり長身の青年のところへ行き話しかけている。
そしてそのまま脇に置いてあった上着を取り、出口のあるこちら側へと歩いてくる。
三人の傍まで来ると、青年は丁寧に一礼した。
「こんばんは、酒井さん、深山さん・・・板見さん。」
「こんばんは、・・・・・」
深山の視線が自分の上着についたネームプレートに向けられたことに気がつき、朝比奈逸希は微笑した。
「社員証、最近新しくしました。」
「そうなんだね。」
「母の姓の・・・三田はもう使っていません。」
「朝比奈くん、だね。」
「はい。兄と同じ。兄があの会社の、警護員だったことは、もうタブーじゃありません。」
「うん。」
深山が複雑な表情で微笑する。
朝比奈逸希は穏やかなチャコール・グレーの両目で、目の前の髪の長いアサーシンを見た。
「僕はなにひとつ、ハンデになどしません。もちろん、山添警護員も。」
「そうか。・・・・・偉いね。君は。」
追いついてきた浅香仁志は、やはり複雑な笑顔になり、後輩を見つめる。
逸希は少し息をつき、そして、自分自身にゆっくりと言い聞かせるように穏やかな口調で続ける。
「確かに過去は過去として存在している。これからも、やっぱり色々迷うかもしれません。しかし確かなことは、彼がこの先、僕のことをどんな風に思おうが・・・・、僕にはなんの関係もないということです。だから今回も、あの会社が関わる仕事を担当できることになりました。庄田さんに本当に感謝しています」
「がんばってね。アサーシン・テストも兼ねてるんだよね?」
「はい。合格できるよう全力を尽くします。それでは、失礼します。」
再び三人に一礼すると、逸希は後ろの扉から出て行った。
酒井が、庄田直紀のチームの筆頭エージェントに声をかける。
「しっかりしてきたなあ、あの頼りなかった逸希くんが。」
浅香仁志は眼を伏せ、そして顔を上げて吉田恭子のチームのやはり筆頭エージェントの顔を見返すと、少しだけつらそうに微笑した。
「山添警護員は・・・逸希の亡き兄の親友だったというだけではない・・・・逸希のために自らの命を捨てようとした、そういう人です。そんな人から、心を断ち切ることは、口ではああ言ってますがまだまだ途上段階でしょう。」
「そうやな」
「けれど、断ち切ってみせると、明確に自分の目指すところを見据えている。できていない現状と、それをやり遂げる決意であることと、その両方を直視できている。以前と比べれば、大変な進歩だと思います。」
「庄田さんのしはったことは、彼を単に甘やかしたんやなくて、支えを与えたんやな。リーダーの愛は偉大なもんやな。」
浅香は少し意外そうな顔で、今度ははにかむように酒井を見て笑った。
「酒井さん、おっしゃるとおりですが・・・・なんだか聞いていて恥ずかしいです。」
「すまんすまん。」
「吉田さんもリーダーとして皆さんを愛しておられるじゃないですか。」
酒井はおもむろに無反応になり、そのまま固まっていたが、やがて黙って静かにその場を去った。
「?」
あっけにとられる浅香に、板見がため息をついて首を振ってみせた。
「吉田さんの話題は、タブーなんです」
「・・・?」
「名前を出すと、酒井さんが機能停止されるので。」
「はあ・・・・」
「今は固有名詞を出すのはうちのチームでは禁止です。」
「喧嘩かなにかされたんですか?」
「まあ、似たようなものですね。」
「・・・・・」
深山が天を仰いで絶望的なため息をついたのを見て、浅香は一層狐につままれたような顔になった。
大森パトロール社の事務所は、平日昼間はフルタイムの警護員で、夜の仕事の準備をしている者か警護の前後の机上作業をしている者かが、数名はいることが多い。この日も何人かの警護員たちがそれぞれ自席で作業していたが、彼らはときどきちらちらと、打ち合わせコーナーのほうを見てはさらに奥の部長席にいる波多野営業部長の様子と見比べた。
打ち合わせコーナーでテーブルを挟んで座っているふたりの警護員は、大森パトロール社ができたときからいる、経験豊富な一流の警護員で皆の尊敬を集めている存在だが、そうしたことを信じがたい事柄に思わせるほど、ふたりは身も世もないような絶望感に包まれていた。
「そんな顔をするな、怜。」
高原晶生は親友のほうをもう一度見て言った。名実ともに大森パトロール社の筆頭の警護員である彼は、すらりとした長身に知的なメガネ、愛嬌と知性とが不思議に同居した魅力的な目をした好青年である。
「そういう晶生こそ、もう少しなんとか考えてくれよ。いつもの人間離れした頭脳はどこへ行ったんだ。」
「うるさいなあ」
「もう俺は何も思いつける気がしないよ」
高原の視線を避けるように天井を仰いだ葛城怜は、その濃い栗色の髪を両手で後ろへ乱暴につかんでは離すしぐさを繰り返した。肩まで伸ばされた髪は、その男性離れした非常な美貌を少しでも隠すためだが、結果的にその線の細い美しさをさらに引き立てている。身長は百七十センチほどで、高原より十センチほど低い。細身の体型は、その美貌と相まって女性と見間違われることも多く、とても警護員には見えない。
二人を悩ませているのは、後輩警護員の今後の教育のことだった。
「目的はシンプルなのに、方法がわからない」
「第一にクライアントの安全を考えること。第二に自分の安全を考えること。これだけのことなのにな。」
「言葉でいうんじゃなくて、行動で見本を見せるのが先輩警護員。」
「そうなんだよな。」
「どうすればいいんだ?」
「つまり、俺たちは・・・・・」
「今までそれを、したことがなかったってことだよね。」
「ああ。自分の安全なんて一度たりとも意識したことがないような気がする。」
「俺も。」
ふたりは再び黙り込んだ。
ついにふたりに声をかける者が現れた。
「おい、晶生、怜。」
「・・・・・・」
「そろそろ打ち合わせコーナーを譲ってくれないかな。」
「・・・・・・・」
「俺も打ち合わせしたいんだよな。・・・それに」
ふたりが振り向き、高原と葛城の同期入社の警護員である山添崇は、日焼けした愛らしい童顔に慈愛のこもった笑顔をよぎらせて親友たちを見た。
「・・・それに、これ以上お前たちが悩んでいると、ほかの警護員達が気になって仕事にならないからね。」
「・・・すまん」
山添は二人の肩を軽くつかみ、椅子から立ち上がらせた。スポーツ好きらしいしっかりと筋肉のついた体型の山添は、高原と葛城の中間くらいの身長である。
「まああまり考えるな」
「・・・・・」
「晶生が必死で考えてもわからないんだったら、もう誰にもわからないからね」
「・・・・・・」
「そういうときは一度考えるのをやめたほうがいいんじゃないかね」
「そうかもしれないな」
高原が同意し、山添のほうを見て苦笑した。
葛城はまだうつむいている。
「元気出せよ、怜。俺も悩みは同じだ。」
「崇もか」
「そうだよ」
「ああ・・・・槙野さんのことだね。」
「そうだよ・・・河合さんと同じようなことになってるからね。」
「・・・・そうだね・・・・」
「シンプルなんだけどね、後輩に分かってほしいことはさ。ほかの、でもなく、未来の、でもない。今の、自分の目の前のクライアントの命。そして今の自分という警護員の命。それだけのことを考えて、仕事をすること。他には何も考えないこと。」
「そうだね」
「このことを、どうやったらわかってもらえるのか。」
「俺たちがわかってない以上、永遠に無理だな」
「・・・そうだね」
三人は天井を仰いでため息をついた。
事務の池田さんが麦茶のピッチャーとグラス三個を持ってやってきて、打ち合わせコーナーのテーブルに置いた。
「すみません、池田さん。ありがとうございます」
「いえいえ。波多野部長が心配そうにご覧になってますよ。大森パトロール社特製の麦茶を飲めば、頭がすっきりしますよ。」
池田さんが受付カウンターへ戻ると、三人は再び椅子に座り麦茶を飲んで一息ついた。
「次の仕事の準備に集中しよう。そのうち何か道は開けるさ」
「そうだな。崇、お前この間怜と交代した仕事の後は、なにか入っているのか?」
「ああ・・・月ヶ瀬の単独案件の待機要員だけだね。今のところ。」
「あまり危険そうじゃないなあ」
「だからそういうことをあまり考えるなって」
「そうだけどさ」
葛城がふと山添のほうを見た。
「河合さんや槙野さんの見本にならないという意味では・・・・月ヶ瀬はもっとひどいと言えるかもね・・・・」
「まあ、そうだな。」
「たしかにな」
山添はピッチャーを取り、三つのグラスにそれぞれ二杯目の麦茶を注いだ。
グラスは再びたちまち空になった。
「今日は月ヶ瀬は現場の下見に行ってるけど」
「うん」
「なんかいつも以上にあいつらしいことを色々言ってた。」
「・・・・・・」
「どんな案件なんだ?」
高原と葛城が山添を見る。
山添は小さくため息をつき、苦笑した。そして声を低めた。
「・・・クライアントは、不倫相手に子供をおろさせ自殺させた人物だ。狙っているのは自殺した女性の父親と思われる。三度の襲撃後、うちに警護依頼があった。」
「月ヶ瀬をご指名だったのか?」
「それに近いね。そして月ヶ瀬は・・・あいつは言ってた。自分の仕事は、男女のもつれ関係・・・特に、人でなしのクライアントが多い、って。」
「・・・・・・」
葛城がその切れ長の美しい両目を深刻な色に染め、少し見開いた。
「そして、言ってた。・・・僕なら犯人に同情しないからだろうね、ってね・・・・。」
山添はそこで口をつぐんだ。
高原は、友人の表情の変化を見逃さなかった。
「ほかに、月ヶ瀬がなにか言っていたんじゃないのか?崇。」
「・・・・・・」
「黙っていても顔に書いてあるから、最後まで言ってくれ。」
「・・・・そうだね・・・・・。俺はあいつに、頼むから過剰防衛だけはするなって言った。まあ、俺も他人のことは言えないけどさ。」
「そうしたら?」
「心配しなくても、絶対にそうはならないって。」
「・・・?」
「月ヶ瀬が言うには、襲撃者は次はプロに頼むに違いない・・・・そして・・・・『どんなに僕が真剣に反撃しても、よくて共倒れだろうね』、だってさ。」
「まさか・・・・」
「根拠は三つ。まず、恨みは海より深い。ふたつめ、父親は経済的にかなり裕福。みっつめ、偶然だけど同じ会社なんだそうだ。」
「・・・・・」
「この間あいつらに殺された、高原の元クライアントと・・・つまりその被害者と・・・今回の父親との、勤め先が。」
「阪元探偵社は、紹介しか依頼は受けないらしいからな。」
「そういうことだ。」




