蓋を開ければ、あいしてるのサイン
※ 尊敬してやまない日向夏さま主催の、うりぼう杯参加作品です。
私は今、走っていた。
汗でべたつく制服の中に茄子を隠して、走っていた。
[ 蓋を開ければ、あいしてるのサイン ]
暑苦しいほど青々と茂っていた木々も今は随分と目に優しい色彩になっている。みんみんみん、と地中からようやく出てきた蝉が番を寄越せと泣き喚く忌々しい夏が私は好きじゃなかった。うるさいし暑いし気持ち悪いし臭いし好きな食べ物はないし。散々な夏が終わってくれて清々していた私は、秋口のひんやりとした風を頬に受けながら、セーラー服のプリーツを靡かせて廊下を走っていた。
こらー!廊下を走るなー!なんて、注意するような奇特な人間はいない。小学生ではないのだから、注意される側も善悪の判断はついている。高校生に廊下を走るななんて言うために足を止めたところで、右から左に流されるのが落ちだろう。どこの誰が好き好んで、わざわざそんな無意味な事で時間を潰したいと思うだろうか。生徒も教師も皆、一日の内で唯一だらりとだらけられるこの時間を、とにかく自分の為に謳歌したがった。
私だってそうだ。私だって謳歌したいと思っていた。自分のために。
あんなことが目の前で起きなければ。
人気の少ない通りを抜けていくと、目的の場所に到達した。図書室の隣にひっそりと存在する、図書準備室だ。代々受け継がれる秘密の鍵を持っているわけでも、図書委員達の秘密なわけでもない。一般の生徒も遠慮しなければ入ることのできる、所謂普通の空き教室だった。
図書準備室のドアを、私は制服を押さえていない左手で開けた。非常に開けにくい。世の左利きさんたちを尊敬した瞬間であった。
ドアを開けた瞬間に、中にいた4人の女子生徒たちが振り返る。ここをたまり場にしているらしい4人からの無言の抗議を受けたが、知ったこっちゃない。リボンの色からして2年生である4人を、私は静かに見下ろした。その際に、自分の胸を張るのを忘れない。私のリボンの色、見えるかしら?彼女たちは3年の証である緑色のリボンを見てそそくさと片付け始めた。田舎の学校の上下関係の激しさを馬鹿にしてはいけない。リボンの結び方一つで校舎裏に呼び出されることだって日常茶飯事の徹底的上下社会だ。こんなに大人しく優等生ぶった私でさえ、年長という力で割とどうにでもなる。
彼女たちが出やすいようにと脇に寄り、通路の為の隙間を開けてやる。その隙間を頭を下げながら出て行った2年生たちが完全に姿を消すまで見送ると、私は図書準備室のドアを閉め、部屋の隅に無残に転がっていたモップでつっかえ棒をした。
「有森、悪人顔だったな」
「今のは、困った上級生の為に善良な下級生が場所を譲ってくれたんです。」
見えていたのかと驚けば、茄子がセーラー服の隙間からぷりりっと黒いその身を覗かせていた。
私は握りつぶさないように慎重に、セーラー服の中から茄子を取り出す。まごうことなき、茄子だ。
私の手の平二個分くらいの長さを持つ、それはそれは立派な茄子だった。艶やかな黒とも紫とも紺ともいえる上品な衣を身に纏い、茄子はしっとりと私の手の平に馴染んでいた。
「それで、なにかおっしゃりたいことはありますか。」
「おお、有森。敬語が上手くなってるな。就活組だったのに春はですます調しか使えないと心配してたんだがこの調子なら大丈夫そうで安心したよ。やっぱり放課後の就活生向けのビジネスマナー教室が―――」
「いいんですね?昼休み、終わりますけど。」
「わかった話そう。これには深い訳がある。」
おほん、と咳ばらいをした拍子に茄子が揺れた。そう、茄子が、揺れた。茄子が自分で動いたのだ。そしてさっきから聞こえる若い男性の声は―――この茄子から聞こえてきていた。
「俺の苗字を知っているな?」
「はい、なすび先生」
「奈須田だ!担任だろう!!」
「はい。なすだだ先生」
揺れて怒る茄子の表面をきゅっきゅっと音が鳴るように撫でると、茄子は急に大人しくなった。気持ちいいのだろうか。私は人差し指できゅっきゅっと優しくこすり続けてやる。
奈須田先生は教壇の前に立った時と同じトーンで話し始めた。
「…この名は、室町時代に茄子栽培にかけて右に出るものがいなかった我が一族が、時の藩主から承ったとされる、由緒正しい苗字だ。」
「はぁ」
「奈須田一族が作っていた茄子は御殿に献上する特別な茄子だ。その名誉ある畑を荒らそうとする人間なんぞ誰一人いなかった。」
「はぁ」
「しかし時は流れ、とある冷夏の年に飢餓が襲った。人も獣も、皆に等しく飢えていた。昼間笑顔で別れた人たちによって、夜中畑が荒らされた。まだ拳ほども大きくなっていなかった茄子たちが、次々に盗まれていった。茎も葉も、根すら残っていなかった。」
「はぁ」
「茄子は、御殿に献上される特別な茄子として誰からも傅かれていた。それ故のことだろう。茄子の矜持は富士より高く、暗雲が立ち込めるほどの怒りだった。」
「はぁ」
「激昂した茄子は、自らを守れなかった我々一族に呪いをかけた。」
「はぁ」
「茄子の呪いだ。」
「はぁ」
「我々は以後、定期的に茄子を食べねば茄子に変わってしまうという呪いをかけられてしまったんだ!!」
「はぁ」
「その怨念は深く、何百年が過ぎようとも薄まらない。いや、薄まったと思っていた…ついに茄子の遺恨も晴れ我々奈須田家も安寧に向うと、そう思っていた―――俺が、4ヶ月も茄子を口にしていないのに、茄子にならなかったからだ!」
「はぁ」
「しかしまぁ、実際はこの通りだ…。」
茄子は細かく体を揺らした。まるで泣いているようだったので、私は紫色の少しとげとげしたヘタをぽんぽんと叩いてやった。
「昼休み、さも寂しそうに一人でとぼとぼと廊下を歩いていた有森に声をかけた途端…俺は、茄子になってしまった…」
「あの、これだけは言わせていただきますね。トイレに行ってたから一人だっただけなんで。」
「皆まで言うな!わかっている。お前が心優しい人間だってことは!そうでなければ、誰が目の前で急に茄子になった奇天烈人間の為に全力疾走してくれるか!」
「いやまぁ廊下に茄子が落ちてたら明らかに不自然ですし。その茄子が突然悲鳴を上げたら流石に隠さなきゃと思いますし。周りから不審な目を向けられた私が思わずその場から逃げてしまうのは、まぁ必然かと」
「有森があそこで拾ってくれなければ、俺は今頃学食で茄子焼き定食になっていたことだろう…」
「お望みなら今からでも置いてきてやりますけど。」
全く人の話を聞かない茄子を、少し強めにきゅっと握れば、手の中の茄子が一瞬ぶるりと震えた。そして私の言葉を咀嚼するとぶるぶると小刻みに震え出した。
これが、その明るい性格と甘いマスクで1年から3年まで、果ては女子教員に保護者にまで大人気のあの奈須田先生だなどと、一体誰が信じるだろう。そう、この阿呆茄子。実は結構な人気者である。今でこそ人の話を聞かない茄子として手の中で異色を放っているが、普段は生徒に親身になってくれる本当にいい先生なのである。それが今は、ただのうるさい茄子だが。
私は真っ黒な茄子をじっと見下ろして、一つ溜息を零した。
「それで、どうやったら治るんですか?」
「お前こんな突拍子もない話を信じて…手伝ってまでくれるのか!?」
「じゃあ置いていきますね。」
そっと図書準備室に備え付けられていたテーブルの上に置こうとすると、茄子がトビウオのように跳ねる。
「待って!有森!待って!ごめんなさい、手伝ってください!!」
最初からそう言えばいいんだと茄子を再び手に握ってやると、ほっとしたように茄子はしっとりとした身を押し付けてきた。
そして茄子はもじもじと体を揺らした。うざいなと遠い目をしながら見つめていると、茄子は決心したように口を開いた。
「有森、白雪姫を知っているか?」
「はぁ。一応現代に生きるじょしこーせーなんで。」
「美女と野獣は?」
「知ってます」
「カエルの王子さまは?」
「…ええっと、つまり。食せばいいんですか?」
「なんでそんな物騒に?!ちがうだろ!ここ!マウストゥ!マウス!」
「このつんつるてんの表面の、どこに口があるって言うんですか」
「しまった俺しかわからない!」
焦った茄子は私に全身で訴えるかのように飛び跳ねながら言った。私はその様子をひどく満足した気持ちで見つめていた。
「このまま放置してたらどうなるんです?」
「煮えて干からびてジ・エンドだ。」
秋に差し掛かっているとは言え、直射日光の当たる閉め切った室内はまだ暑い。それを茄子になり人よりも敏感に感じ取っているのか、先生の声はいつものような朗らかな明るい声ではなかった。ひどく真剣みを帯びている声が、私に向けられている。私はその事実に、手の中の茄子の震えに負けないほど心が震えそうだった。
「―――先生」
「は、はい」
「世の中、ギブアンドテイクって、ご存知ですよね?まさか、命の危機を無償で救ってもらおう…なんて。浅ましいこと考えていませんよね?」
「あ、有森サン、悪魔の角と尻尾が見えるんだが…」
ひぃと手の中で小さく鳴いた茄子に、にこりと笑みを向ける。茄子は一度大きく震えて、きゅっと2/3程度の大きさに引き締まった。そして言い難そうにもじもじと体を揺すると、震える声で囁いた。
「…有森、実はお前に、言わなきゃいけないことがあるんだ」
「え。まだ自分の負担を増やす気ですか?」
ギブアンドテイク、大丈夫だろうかと呆れたように言う私に茄子はびくんと震え、恐る恐る切り出した。
「…この呪いの本当に恐ろしいところは、茄子になることじゃない」
「はぁ」
「茄子化を知った相手にも等しく、茄子の呪いがかかるんだ…」
「…」
「…」
「…」
「す、すまなかっ」
「はた迷惑な野菜!」
私は今までで一番強く手の中の茄子を握りしめた。きゅっと茄子が絞まる音がする。
「それじゃあなんですか。私はこの先、ずっと定期的に茄子を食卓に並べないといけないってことですか。冬場でさえもスーパーを駆けずり回って茄子を見つけなきゃいけないんですか?未来永劫、夫も、子供も、欺いて生きていけと!」
「ひぃ」
「大体、なぁにが『4ヶ月も茄子を食べなくても大丈夫だった!』ですか…!先生、この夏ずーーっと、私のお弁当から、勝手に茄子入りシューマイ持って行ってたじゃないですか…!」
「あ、あれに茄子が入ってたって!?」
「私だって茄子なんて食べないで済むなら食べたくないんですもん!近所からもらいまくって野菜室を埋め尽してる茄子を、如何に誤魔化して食べるか毎日台所であーじゃないこーじゃないって必死なんですよ!!」
「ぎゃっ待ってギブギブギブ握りしめないでそこは、あっ…!…て、ていうか、有森!弁当、自分で作ってるのか…!?」
「そうですけど、それが何か?!」
「有森、俺と結婚しよう!」
手の中の茄子が、何かを叫んだ。
「一口食べただけで蕁麻疹が出そうな程の茄子嫌いの俺に、無意識の内に茄子を食べさせてるなんてお前は天才だ!!俺と結婚すればお前は夫に茄子の呪いを黙っていなくていいし、俺は毎週鼻をつまんで茄子を食べなくていいし、万事オッケー!?交際はほら、お前は生徒だから卒業するまで待ってもらうことになるけど…こう見えて結構女生徒に人気だし、今はこんな体系だけど、元に戻ればまぁそりゃあアレだって負けず劣らず黒くて長―――」
「じょしこーせーに、セ・ク・ハ・ラ!」
手の中で、訳が分からないことを喚き散らかしていた茄子を絞め上げる。
「大体、こんなふにゃちんこっちから願い下げですよ!」
「ふ…ふにゃ…」
絞められている手の強さよりも言葉の刃で今にも倒されそうな茄子が、真っ青な顔をして呟いた。
「それともなんですか。私が茄子を咥えて揺すられる趣味がありそうに見えますか?!」
「もうやめて!じょしこーせー!どっちがセクハラ?!夢が崩れる!」
ワッと泣き出したように騒ぐ茄子のヘタをちょっと強めに引っ張る。
「うっさいこの生野菜!それで?結婚して一生茄子だってばれない茄子料理を作れって、そういうことですか?」
「はい!その通りでございます女王閣下!」
「じゃあ私はこれで。一週間後には迎えに来てあげますから…」
「わあああ有森さああああん!!」
泣き叫ぶ茄子に少しだけ溜飲の下がった私は、黒く光る細長い胴体を思いっきり握り込んだ。もう皮が破けてもいいと思うほどにだ。じたばたと暴れていた茄子は私の本気を感じ取ったのか、ピタリと動かなくなった。
私は荒れ狂う胸の内を必死に抑えつけようとしたが無理だった。心臓がまるで早鐘のように打っていて、痛い。漏れ出た荒さのまま茄子を振りかぶると、その黒々とした表面に思いっきり唇を押し付けた。
手の中の茄子がバフンと音を立てて煙を上げる。白く染まった視界に咄嗟に目を細めた。彼が茄子になる時もこの光景を見た。まるで先ほどの時間を撒き戻したかのように、茄子から人間へ戻った茄子―――もとい、奈須田先生を、泣き出しそうになる程の緊張を隠すように不機嫌な面構えで見下ろした。
人間に戻った奈須田先生は、腕を組んで眉根を寄せる私を茫然と見上げた。そして次の瞬間まるで少女漫画の乙女のように顔を真っ赤に染め上げる。はくはくと口を何度か開閉した後、やっとのことで声を絞り出した。
「あああああありもり、おおおおまえ、何の躊躇いもなく…!」
先生はどこかショックを受けたような顔つきでそう訴えるが、私は強く足を踏み鳴らした。今にも震えそうになる声を誤魔化す為に、精一杯大きな声で怒鳴りつける。
「うっさいこの乙女生野菜!!」
「ひ、ひどい!」
顔色を赤から青にして悲鳴を上げる先生を再び強く睨む。ひどいなんて、一体どの口が言う。
「茄子のまま、おざなりにプロポーズだぁ?!じょしこーせー舐めてんじゃないわよ!」
プロポーズどころか、告白すら誰からも受けたことがないというのに。
それが、万が一にもありえないと思っていた、好きな相手からのプロポーズだというのに。
弱みを握れたことも、先生の特別な存在になれたことも、茄子隠ぺい技術を買ってくれたことも、私の夢見る告白の理由としては失格だった。じょしこーせーは、リアリストの皮を被ったロマンチストなのだ。もっと、出会った瞬間から好きだったとか、先生の手伝いを買って出る私の(下心という名の)真心を好きになってくれたとか、そんな少女漫画みたいな理由がほしかった。茄子の味を誤魔化せるから告白って、いくらなんでも、ないだろう。
生徒の一人としか見られてないのは知ってるけど、先生が責任感が強いのも知ってるけど。初めてのプロポーズが茄子からだなんて、きっと世界中を探しても私しかいないに違いない。
けれど、プロポーズがしょうもなかったからといって、先生が私に好意を持っていないからといって、こんな千載一遇の機会を善人ぶって『気にしないでください』なんて言葉で済ませてあげるつもりは毛頭なかった。このチャンスを棒に振れば、どんな生徒にも平等に接する奈須田先生と、もう二度とこんな風に近づけることもなく卒業してしまうと咄嗟に悟ったからだ。茄子を拾ったのは、先生の言うような善意からじゃない。私の頭はあの瞬間打算で埋め尽くされていたのだ。迷惑事ごと、彼に恩と自分を売ろうとした。
でも。だからって、乙女心を踏み躙ることまで許してはいない。
「奈須田先生の馬鹿っ!こんな体にした責任、取りなさいよね!」
あまりの恥ずかしさに瞳が潤む。顔中が熱いので、きっと恥ずかしいほど真っ赤になってるに違いない。それが、今まで必死に隠していた自分の好意を彼に伝えているようで、ひどく恥ずかしい。
先生は、秘密を守るのに丁度良くて、料理の腕を気に入ってくれてて、そして、そして。こんな体質にしてしまったという責任感からプロポーズしてくれているだけで、私のことが好きなわけでもなんでもないのに。
それでも、一度だけ。人間の先生できちんと筋を通してほしかった。結婚を約束しろなんて、言わないから。これからも少しだけこうして会えるように、便宜を図ってくれるだけでいいから。先生に近づけるチャンスをくれるだけでいいから。責任とってお付き合いしてもらおうなんて、ほんのちょこっとしか頭をかすめていないから。ちゃんと、一度ちゃんと筋を通してくれたら、この場は引くから。
尻もちをついたまま私を見上げていた先生は、その言葉にハッとして慌てて立ち上がった。背筋を伸ばし、そっと私の肩に手を置く。肩に触れる手は、セーラー服越しでもわかるほど熱い。ドキリとして、息が止まった。
先生がまるで緊張を抑えるように、一度生唾を飲み込む音が聞こえた。羞恥のせいで顔を上げられない私を、ゆっくりと覗き込むように顔を近づけてくる。
「ありも―――」
ガタガタッ、と、私の背後からドアが突っかかる音がした。
「…奈須田先生。ここを開けなさい。『こんな体にした責任』とやらを、ぜひ私にも取らせてほしくてね。」
聞こえてきた校長先生の声に、奈須田先生は首を紐で括ったような悲鳴をあげた。まさか人間のままでも干上がれるなんて思ってもいなかった。
虫の息となった奈須田先生の屍を横目に、校長先生に彼の潔白を証言してやった。堂々と病院受診も辞さないと言い切る私の言葉を、校長先生は渋々ながらも受け入れてくれたようだった。
再び私に借りを作った奈須田先生は、校長先生の目の前で今度は人間の姿のまま『一生茄子の素焼でもいいから!』と心臓が止まりそうなほど嬉しい言葉をくれた。
先生。
お弁当に茄子シューマイを入れ続けた私の気持ちを、先生は気付いていましたか?
もし先生が気付いていたのなら。誰にでも平等な先生が毎回茄子シューマイを奪いに来ていたことが、気まぐれではなく先生の返事なんだって。茄子の素焼に夢を見てもいいですか?
私は、赤茄子のように顔を真っ赤にして目を逸らす先生を、滲む視界で昼休み終了のチャイムが鳴るまでぼんやりと見つめていた。
おわり