8 異次元犯罪者の影
薄暗い道を一歩、また一歩進むたび、僅かな月光に照らされて埃が舞う。
夏の暑さを感じさせない涼やかな空間、そう表現すれば聞こえが良い、が、
実態は不気味で薄暗い朽ちた廃工場だ。
泥や土の腐臭が辺りに満ちていた。
体育館ほどの広さのその奥に、
不釣り合いな椅子がどんと置いてある。
厳つい椅子だ。肉厚な綿を詰め込んだ赤い布地に金色の装飾と、
まるで国王の腰掛ける玉座である。
「やあ、遅かったじゃないか」
その上に腰掛けた男が言った。
白衣を纏った長髪の男だ。
すらりとした細身の体に、
整った顔立ち。
歳は二十歳を過ぎたくらいか。
彼は足を組み、
悠々とした微笑みを漏らしていた。
「見てたよ。
ずいぶんな目にあったね、ラブラ君」
「……申し訳ございません……。
ネイギー様」
ラブラは立ち膝を突き、頭を垂れた。
がしゃり、と身に纏った鎧の音が
廃工場内に響く。
ネイギーはもう一度、
にっと微笑みかけた。
「構わないよ。
だいたいあの捜査官が
普通じゃないんだ。
君が無事次元を越えられただけでも
ラッキーなんだよ」
「しかし……試作品は全て……」
「君は今ひとつ固くていけない。
命あっての物種さ。
ところで、
咄嗟に下層人にアレを打ち込んだね?
面白いことになってるみたいだよ」
「おもしろい、とは?」
「これを見たまえ」
男がパチンと指を鳴らした。
すると玉座の後方にある空間が左巻きに曲がり、スクリーンのようにいくつかの映像を映し出す。
「これは……」
それを見たラブラが眉をひそめた。
「彼、あの捜査官と同居をはじめたみたいなんだよね。多分君が仕込んだ変身因子を取り除くためなんだろうけどさ」
「ですがあれはネイギー様が苦心して開発した強制変身の因子。
試作品とはいうものの、そう簡単には解除できるとはおもえません」
「それだよ。下層人が君の呪縛から逃れた時に妙な反応があったんだ」
ネイギーはにやりと笑った。
スクリーンが少年の
左手の甲をズームする。
「出来損ないのルーンですね」
「一見はそうだが、少し違う。
そもそも、強制変身の魔術とはどういうものなのかな?」
彼の会話の意図がつかめないが、
そのくらいはわかる。
「体内にある〝魔源〟に、
誤作動を起こさせる術です」
魔源が魔術を使用するための重要なエネルギー源であるというのは、上層人なら子供でも知っている。
魔源に一定の術式を命令すると、それを実行し炎や雷を繰り出す。
魔源は体内で生成され――量に個人差があるが――使えば減り、休めば回復する。
その量はそのまま魔術の火力となる。
魔術師同士の戦いでは、多分にして正面からのぶつかり合いになりやすい。
自軍の魔源の総量で勝敗が決すると言っても過言ではないのだ。
「そうそう、そのとおり。
しかし〝魔源〟は上層人の体内にしか
存在しない。
あの針は下層人の少年をどうやって
変身させたのか、わかるかい?」
「彼の体内に
〝仮想魔源〟を埋め込んだのですね」
魔源を持たない生物に、あらかじめ実行内容の決められた魔源の結晶を打ち込めば、その生物はまるで自分が繰り出したかのように魔術を使用できる。
ただし臓器移植の類と一緒で、やられた側には拒絶反応や短命になる、など非常に高いリスクを要求する。
打ち込まれる相手の都合などを考えてしまったら到底実行できない。
「そうだね。そしてレアな強制変身の中でも〝ドラゴン〟は幻と言われた術式。
造るのには苦労したよ。
だが、咄嗟にこれを使ったのは
褒めてしかるべきだね」
「はっ」
ラブラは頭を垂れて褒め言葉を受ける。
「さて、本題はここからだ。
仮想魔源を打ち込まれた下層人は、変身、しかし術の未完成な部分を突いて自我を取り戻した。
多分主従契約の部分にバグがあったのだろう。……これは直しておかないと。
ところがしかし、そのとき誰もが
予想しない事態が発生した」
「それが〝妙な反応〟、ですか?」
「そう。
彼の中の仮想魔源が、巨大なエナジー体に変化してしまったのさ。ドラゴンの生命力と同等のエナジー体にね。
あのルーンはそれを示している」
ここまで専門的な内容になると、
ラブラは完全に門外漢だった。
仮想魔源がエナジー体に変化などと、
聞いたこともない。
事の重大さがわからず、今ひとつ
反応の薄いラブラを見かねてか、
「いいかいラブラ君、
これはすごいことなんだよ!」
ネイギーは興奮気味に立ち上がった。
「そんなエナジーがあれば、僕の魔術の研究はさらに上のレベルへと辿り着く!
研究こそ魔術、魔術こそ研究!
わざわざ下層界までやってきた
価値があるというものだよ!!
欲しいなぁ……。
どうしても手に入れたいなぁ」
そうか。
彼はその仮想魔源が欲しいのか。
それなら話は簡単だ。
「はっ……では、さっそく」
と、ラブラは立ち上がった。
「ああ、待ちなさい。
相手はあの捜査官だ。
今はゆっくり体を休めて、
順調に事を進めるんだ」
「了解しました」
「うん。君は固い代わりに
物わかりが良くていい。
今度は僕の兵隊を貸そう。
それを使ってあの少年からエナジー体を引き抜いてきてくれればいい。
……ああ、あと、ドラゴンを無くした少年は殺しちゃっても構わないから」
にやり、と男は笑む。
「僕は下層人がだいっきらいだからね」